「圧縮」
「このマンションに住んでいるのなら、
『穴』には気をつけたほうがいいですよ。」
それは、昨日聞いた青年の言葉。
時計を見ると朝の6時過ぎ。
結局、スミ子は耳に響く心音のせいでほとんど眠れなかった。
眠ろうとすると会社のことを思い出し、早まる心音で目が冴える。
無理やり別のことを考えようにも明日のことばかりが頭に浮かぶ。
ますます心音が早くなり、息ができず、死ぬのかなとぼんやり思う。
それでも人間はわずかにですが寝ているんですよ、
…それは医者の言葉。
そう、気付かない間に眠っている。
だから大丈夫。きっと大丈夫なのだ。
自分にそう言い聞かせ、
無理やり布団から体を引き起こす。
肩に重い何かがのっているような気がするが、
それでも無理やり引き起こす。
鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができている以外は何ともない。
そうなんともない。大丈夫、まだ自分は動けるのだ。
ここで倒れてはいけない。
ここで休んではいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
もういい歳をした大人だ。
一人で生きていかなくてはいけないのだ。
脈はますます早くなり、
喉にぼんやりとした苦しさがこみ上げる。
朝食だけでも食べねばと思い、部屋に残っていた菓子パンを食べ、
何度も吐きそうになるのこらえながら、水でなんとか流し込む。
会社に行くのに昼食を買わねばとも思うが、
昼休みに気分の悪さでパンすら喉を通らなかったことを思い出し、
結局、買わないことに決めた。
のろのろとストッキングを履いて支度をすると、すでに出勤時間。
動作で言えば10分程度のことが今では倍以上かかっている。
しなければいけないことはたくさんあり、
スミ子は必死にゴミをまとめて重い袋をのろのろ運ぶ。
ゴミステーションは外にある。
エレベーターで下へと降り、かんぬきを開けて中へと押し込む。
あとは、車に乗って会社に行く。
いつものように勤めに行く…そして、スミ子が顔を上げた時だ。
マンションの真ん中に巨大な穴が開いていた。
それは、ぼやっとした穴で、
15階の建物の中央壁面にブラックホールのように開いている。
「ざっと見た感じ、10メートルはありますね。アレ。」
気がつけば、昨日あった青年が隣に立っていた。
手にはまとめられた段ボールが握られている。
「おはようございます、あなたにも見えていますよね?
じゃなければ、そんなほうけた顔して見上げていませんからね。」
その言葉に、スミ子の顔がカアッと熱くなる。
どうもこの青年には恥ずかしいところばかり見られている気がする。
「いえ、そんなことありませんよ。私はただ…」
もぐもぐ弁明しながらも、会社の時間のことを思い出し、
スミ子は慌てて青年に頭をさげる。
そうだ、こんなことをしている場合じゃない。
仕事に行かないと、早めに行ってショールームの清掃をしないと。
あんな大穴、マンションの管理人が
とっくに見つけて修理の人を呼んでいるに違いない。
そこにスミ子の入る余地はない。
それよりも早めに会社に行かないと…
そして駐車場に止めていた自分の車のドアを開けた瞬間、スミ子は気づく。
車内がボコボコと沸騰している。
それは、会社のロッカールームで見た光景と似ていた。
プラスチックもガラスも車内にある何もかもが、泡立つように沸騰している。
そして、運転席と後部座席のあいだを見て、
スミ子は動きを止める。
直径10センチほどの浮いた丸い黒穴がそこにはあった。
穴は周囲のものをゆっくり吸い込んでいく。
周囲の景色を飲み込んでいく。
それは、次第しだいに大きく広がっていき…
「馬鹿、何やっているんだ!」
その瞬間、グイッと襟首を引かれ、
スミ子は車外へと放り出された。
先ほどまで会話した青年は、
今はスミ子には目もくれず車を見つめている。
バキッ
次の瞬間、信じられないことが起こった。
車がへこんでいく。
外壁から、エンジンから、車の全体が、
まるで巨大な手で殴られていくかのように
小さく、小さく圧縮されていく。
「あ…!」
思わず声が漏れた。
しかも、この現象は自分の車だけではなかった。
駐車場にある車のほとんど、
いや、全ての車が圧縮され、小さくなっていく。
それはまるで、目に見えない巨人が何十人も駐車場にいて、
車がどこまで小さくなるか確かめようとしているかのように見えた。
バキャッ
そして、最後のへしゃげるような音がした時、
駐車場には何も残っていなかった。
線の引かれた駐車場。砂利のわずかに残る駐車場。
まるで、そこには最初から車など止められていなかったかのように、
何もない空間だけが、そこに広がっている。
それを見て、青年が言った。
「…もしかしたら、この現象。
マンションだけじゃあ、すまないかもしれないな。」
スミ子はその言葉を聞きながら、呆然と顔を上げる。
いつしか、マンションの中央に開いていた大穴は、
綺麗にふさがっていた…
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