4/25 三〇〇〇メートル

 ――カランカランカランカランカランカランカラン!


 最後の一周を告げる鐘の音。それを合図にして、一緒に先頭を競っていた他二人がスパートをかけた。


 まさか。ここからスパートできるのか。


 離れていくその背中に絶望を感じる。経験したことのないハイペースでここまで先頭争いをしてきた自分には、残りでさらにスパートをかけられるような体力は残されていなかった。

 速度はあくまでも維持したままで、しかし、諦めにも似た感情が広がっていく。ここまでやったんだから。このままでもゴールすれば三位入賞だ。四県中の中学生でベスト3だ。立派だ。


 でも。


 心の中で、負けず嫌いの自分が叫んでいる。負けたくない。ここまでやったんだから、勝ちたい。負けたくない。自分は何の為にこんなに苦しい思いまでして走っているのか。そうだ、一等賞になるためだ。負けたくない。

 下がりかけていた視線が前を向く。前の二人の背中を凝視する。さっきよりも差は広がってはいるが、そこまで離れてしまったわけじゃない。その差の広がり方もゆっくりだ。まだいける。

 今すぐにでもスパートをかけたくなる気持ちを抑える。まだ早い。残りは三〇〇メートル程。ここからスパートをかけるには早すぎる。これまでにしてきた練習で、自分がこのバテてきた状況で全力を出せる距離はわかっていた。からのロングスパートは無理だ。。それが自分がスパートをかけられる、限界の距離。

 

 だから、残り二〇〇メートルでいこうと決めた。


 第三コーナーに入って、ついにスパートをかけた。腕の振りを大きくして、足の回転を上げる。まるでここから短距離走が始まったかのように、速度が上がる。

 コーナーの頂点で先にスパートをかけた二人の内、一人を捉える。スパートが早すぎたのか、その速度は明らかに落ちている。外から一瞬で抜き去る。 


『――が、がんばれーっ!』


 最後の直線に入る。ゴールまであと少し。前方には自分より早くスパートをかけたもう一人の選手。それを抜けば、メダルを――『おほしさま』をもらうことができる。しかし、その差は縮まってはいるが、ゴールするまでに追い抜けるどうかは微妙なところだ。

 息はもうすでに完全に上がっている。荒い呼吸を繰り返す度、胸が痛む。夏の日射しにかれて、頭にもやがかかっているようだ。ここまで二九〇〇メートルを走ってきた脚は空回りしそうになる。それでも必死に前へ。前へ。

 力は尽きかけている。もはや負けたくないという一心のみで、身体は動いている。いける。抜ける。自分で自分を鼓舞する。

 

『――がんばれーっ!!』


 喉も張り裂けんばかりに誰かが叫んでいる。スタンドから様々な応援の言葉が降ってきている中で、どうしてだかその声援だけははっきりと耳に届いていた。

 それは自分に向けられたものじゃなかったのかもしれない。

 それでも――。


『――――ッ!?』


 前にいた選手に並びかける。一瞬だけこちらを向いたその表情が、信じられないものを見たとばかりに歪む。お前は置いてきたはずだ、と。慌てた様子でスピードを上げようと身体を動かしているが、ロングスパートを仕掛けたせいかそれは大して変わらない。


『――がんばれーっ!!!」


 ――それでも、その声援は尽きかけていた力をくれた。


 そして。

 ついに、ゴールの目前、残りたった十メートルで相手をかわして、先頭でゴールに――



「――大樹っ!!」

 耳元で声を張り上げられ、大樹は飛び起きた。誇張ではなく本当にちょっと浮いた。着地した拍子に痛めている左足を変に着いてしまい、ベッドの中で悶絶する。

「もうっ、いつまで寝てるのよ。そろそろ起きて準備しないと遅刻するから」

 痛みを堪えて上半身だけ起こし、声の主を確認すると、枕元に制服姿の茉莉が仁王立ちしていた。

 部屋のカーテンは開けられていて、朝の柔らかな陽光が室内へと降り注いでいた。

「もう朝ご飯できるから、着替えたら降りてきなさいよ」

 大樹が起きたことを確認すると、茉莉は部屋を出て行った。それをまだ重いまぶたに抗ってぼーっと見送り、大樹は大きなあくびを一つ。

 ――懐かしい夢だった。

 中学三年生の時に、地方の四県合同で行われた大会。その前月に行われていた県の通信陸上で全国大会に出場するための記録には及ばなかったが、四位入賞だった自分はその大会に出場することになった。出場種目は三〇〇〇メートル。今でもよく覚えている、自分のその後を大きく変えたレース。

 感傷に浸りそうになるのを、大樹は頭を振って払った。早く下に行かなければ、茉莉に怒られてしまう。枕元に置いてあるスマホで時間を確認すると、なるほど、確かにそろそろ起きないとまずい時間だった。今まで設定していた時間よりも遅く設定したはずのアラームは、鳴るには鳴ったが聞き逃していた。茉莉に起こさなければ確実に寝坊していただろう。

 その原因は二つある。一つはアラームの設定を変えたにも関わらず、いつもの時間に起きてしまってそこから二度寝してしまったこと。そしてもう一つが――

 ポキポキ、とスマホが鳴ってメッセージを受信したことを知らせてきた。見ればそれは玲菜からで『オハヨウ』と顎がしゃくれた謎のキャラクターが言っているスタンプだった。大樹は思わず溜め息を吐いた。これだ。これが原因だ。

 ――夜中に大量に送られてきた、玲菜からのスタンプだった。

 本当にしてくるとは思わなかった。寝入っていた時間に大量に送られたせいで、その通知音で目を覚ましてしまった。足が痛んでなかなか寝付けなくて、ようやく寝れたところだったのに。『寝てたのに起こすな』と送ったところ『ゴメンネ(スタンプ)』とだけ返ってきてそれ以降は止んだが、再び寝付くのには時間を要した。

 玲菜のメッセージを無視することにして、大樹は制服に着替えると、松葉杖と鞄を持って階下へ降りた。リビングダイニングに入ると、やはりカーテンは開けられていて室内は自然な明るさだった。キッチンには制服の上に青いドット柄のエプロンを着た未利がいて、朝ご飯が並べられている食卓には茉莉が座っていてスマホを弄っていた。

「……おはよ」

「やっと降りてきた。おはよう」

「おはよう、お兄ちゃん。もうちょっとでパン焼けるから座って待ってて」

 大樹が挨拶をすると、姉妹がそれぞれ挨拶を返してくれた。未利に言われた通りに自分のいつもの席に座る。

 食卓の上にはサラダと焼きベーコンとオムレツが一緒に載った皿が三枚、それぞれの席に置かれていた。その脇には湯気立つマグカップが置かれている。コーヒーの香りが漂っていた。

 キッチンにいる未利を眺める。パンを焼いている間に洗い物を済ませている。その表情は明るく、微かに鼻歌まで聞こえてくる。

 対面に座る茉莉に視線を移す。未利とは対照的に、機嫌が悪いのか気難しい顔をして、スマホに視線を落としている。最近こんな顔ばかりしているな、と大樹は思う。前は――事故に遭う前は今ほど頻繁に顔を合わせていたわけではないが――もっと笑っていたような気がする。そういえば、最近笑ったところを見ていないかもしれない。

 大樹の視線に気付いたのか、茉莉が顔を上げる。

「――何よ。妹は朝ご飯の準備をしているのに、姉は何もしてないなーとか思ってんじゃないでしょうね」

 見ていたら、すごい言いがかりをつけられた。大樹は慌てて首を振るが、茉莉の口は止まらない。

「あたしだって洗濯したわよ。アンタのぱ、パンツ、干したのあたしだから!」

「ちょ、な、何も言ってないだろ!」

 ――よりにもよってそれを干したことを言わなくても!

 それきり茉莉は顔を赤くして口を閉ざし、大樹も大樹で気恥ずかしい思いをしていると、チン、と音が鳴って、トースターが焼き上がりを知らせた。それに反応した未利がテキパキと動き、それからパタパタとスリッパを鳴らせて食卓までやってくる。流れていた妙な空気が霧散していく。助かった。

「お兄ちゃん、トースト一枚で良かった?」

「……うん、大丈夫。未利」

 未利が、狐色のちょうどいい焦げ目がついたトーストが載った皿をそれぞれの前に並べてくれる。最後にジャムの小瓶を持ってきて、エプロンを外すと着席した。朝食の準備が整ったようだ。

 誰ともなく手を合わせると、

「「「いただきます」」」

 食事の始まりを告げる声が重なった。



 ――結局、榊家に頼ることになった。

 昨夜、大樹と茉莉と未利、両家の母親とで会議が開かれた。議題は足が治るまでの大樹の生活について。

 大樹の母親、由美は今の仕事が忙しく、中々時間を割くことができない。だから、話し合いの結果、学校への送迎は伊寿美が。そして、ご飯の用意に、洗濯、掃除。生活する上で必要になることを茉莉と未利が手伝ってくれることになった。ちなみに大樹が発言しようとすると、茉莉が睨んでくるので、大樹に発言権などなかった。よほど保健室でサボったのが頭にきていたらしい。未利も未利で、大樹の世話をしたがってやけに前のめりで、結局ほとんど未利の言う通りになった。前のめりになりすぎて提案した、足が治るまでの間、榊家に住むという未利の提案だけはさすがに却下されたが。ちなみにそれを却下したのは茉莉だった。

 伊寿美からの連絡を受けて、珍しく早い時間に帰宅してきた由美は会議中、常に申し訳なさそうな顔をしていた。自分の息子のことなのに、頼りっきりになるのが心苦しかったのかもしれない。

 会議が終わって榊家が帰った後、

「私だけにならいいけど、他の人に心配を掛けないようにしなさいよ?」

 と、怒るでもなく大樹を諭した。今まで色々と迷惑や心配を掛けてきて、それでも文句も言わず、女手一つで自分をここまで育ててくれた母親のその言葉には心にくるものがあって、大樹は改めて、自分のやったことを反省した。

 そんなわけで、丘家の鍵を託された茉莉と未利は、朝早くからやってきたのだった。

 


 授業をほとんど寝倒して迎えた昼休み。

 大樹が例によって一人、いつもの場所でお昼を食べようとしたら、茉莉に捕まった。この足であちこち動き回られるのが我慢ならないようで、とにかく一人にさせてくれない。昨日授業をサボったせいもあるかもしれない。心配されているのはわかるのだが、トイレに行こうとしたらついてこようとしたのは正直、過保護すぎではないかと大樹はげんなりしていた。茉莉が変な噂を立てられる前にある程度距離を取りたいのだが、他ならぬ茉莉自身がそれを許してくれない。

 大樹の机に椅子を寄せて、茉莉が一緒に食べようとしていると、

「ねねっ、私も一緒にいいかな?」

 身を乗り出した美空が後ろから声を掛けてきた。大樹としてはどちらでも良かったので、茉莉にお伺いを立てると、渋々といった様子で首肯しゅこうした。さすがに一つの机に三人が寄って弁当を広げるのは厳しかったので、茉莉が自分の机を美空の机にくっつけた。大樹はそのまま自分の席で食べたかったのだが、茉莉と美空によって後ろ向きにさせられた。

 弁当を広げると、

「あれっ、二人ともお弁当の中身一緒なんだね。――ははーん、榊さんの手作りだったり?」

 隅に置けないねーこのこのー、とばかりに大樹を肘でつつく仕草をして、美空がにやつく。確かにこれを作ったのは榊さんだが、今隣にいるポニーテールの榊さんではない。こちらの榊さんは料理が得意ではないのである。

 結局、お昼も未利に用意してもらうことになってしまった。発言権がなかったせいだ。

 美空の言った通り、量こそ違えど、大樹と茉莉の弁当の中身は一緒だった。二段重ねの弁当箱で、下段に詰められているご飯は朝から炊いたのか五目御飯で、上段のおかずは、ポテトサラダ・一口サイズのハンバーグ・玉子焼き・ほうれん草の胡麻和え、とその全てが手作りで、さすがに全部が全部朝に作った物ではないだろうが、それでも未利が何時に起きたのか心配になるほどの力の入れようだった。だから未利には弁当を作らせたくなかったのに。

 昼休みでざわつく教室の中、三人が口々にいただきますを言い、弁当を食べ始める。美空の弁当は以前見た時と同じく彩り鮮やかだったが、やはり量は控えめだった。

「――へぇ、二人は幼馴染なんだ。一緒の学校に来るなんて、仲いいんだね」

「べっ、別に? 家から近いし、進学校だし、それで選んだだけだから」

 茉莉が自分から喋ろうとはしないし、大樹も黙々と食べているので、主に美空が大樹と茉莉に質問を投げかける形で、会話が成り立っていた。その質問のほとんどが、大樹と茉莉の関係についてのことで、それに答える茉莉の頬がさっきから赤いように見えるのは気のせいだろうか。大樹は淡々と答えていたが、時折、茉莉から鋭い視線が飛んできて口をつぐまされていた。余計なことは言うなということだろうか。

 それとは別に、大樹は若干の居心地の悪さを感じていた。美空と茉莉というクラスでも一、二位を争う美人と一緒にご飯を食べているせいか、教室内にいる男子からやっかみを存分に含んだ視線を向けられていた。だがそれで逃げ出すほど神経が細くないので、居直ることにする。

「――ねねっ、丘くん。今日の放課後って暇? ちょっと付き合ってほしいんだけどさ」

 弁当に入ってもなおふわふわな玉子焼きに感動していると、先に食べ終えた美空が大樹に訊ねた。暇は暇だが、帰りは迎えがある都合で自分だけで決めるわけにはいかない。もちろん、自分が呼んだとしても伊寿美は来てくれるだろうが、心苦しいのでできれば茉莉か未利と一緒に帰りたかった。

 どうするべきか決めかねて、大樹が茉莉を見ると、

「……好きにしたら?」

 どうでもよさそうに言った。しかしその顔には不服の色が見て取れる。

「そんなに時間は取らせないから。ね?」

「……わかった」

 そういうことなら、と大樹は了承する。茉莉には悪いが、少し待ってもらうことにする。単純に興味が沸いていた。『救ってあげる』なんて言っておきながら、放課後になるとすぐに教室を飛び出していた美空が、放課後に付き合ってほしいと誘ってきたことに。 

 返事をしながらふと思う。以前の、美空に出会う前の自分なら頷いていなかっただろう。美空の前で泣いてしまって、慰められて、穏やかになった時の気持ちが蘇る。あんな感覚は初めてだった。もしかして自分はこの女の子に救われることを期待しているのだろうか。

 ――考えてもよくわからない。そもそも、何から救ってほしいのか。

 美空、茉莉に続き大樹も食べ終わって、弁当箱を片付けていると、

「茉莉いるー?」

 教室の入り口からそんな声が室内に響いて、名前を呼ばれた茉莉が腰を浮かせてそちらを見た。釣られて大樹も見ると、そこには寝坊しそうになった元凶がいた。

 茉莉の姿を認めて教室に入ってきた玲菜は、茉莉から教科書を受け取る。それを借りにきたらしい。

「はい、教科書。六限目使うから、ちゃんと返してよ」

「わかってるってー。任せといて!」

「……あー、いい。取りに行くから教室にいて」

 完璧な笑顔とサムズアップがむしろ不安を煽ったのか、茉莉が面倒くさそうに言った。

 そのまま教室を出ていくかと思われた玲菜は、いきなり大樹へと向いて、

「ちょー丘っち、未読スルーとかひどくない?」

 唇を尖らせて言った。朝に送られてきたスタンプを無視したことにお怒りらしい。

「夜中にスタンプ連打してくる方がひどいっつーの」

 そのせいで寝不足なので、棘のある言い方になった。大樹の言葉に、玲菜は口ではゴメンと言いつつも不服そうな顔をして、

「夜中って、まだ十一時だったじゃん。どんだけ寝るの早いんだって」

「玲菜、その人十時回ると眠たくなっちゃう人だから」

「マジか。今時の小学生でももうちょっと起きてそうじゃね?」

 ゴメン、と玲菜が今度は神妙な顔で謝ってくる。しかし、その表情は二秒持たずすぐに崩れて、いつも大樹に向けてくるにやけ顔になると、

「じゃー今度は九時くらいにスタ爆しよ」

「スタ爆をやめろっつーの」

 思わずツッコむと玲菜は声を出して笑った。

「昨日、未利が玲菜とID交換したって言ってたけど、大樹ともしたんだ」

 そんな大樹と玲菜のやり取りを見ていた茉莉が、意外そうに言った。

「そーそー、昨日手伝ってもらったからさー、お礼に男子垂涎の玲菜ちゃんのID教えてあげた」

「お前が無理矢理登録したんだろ……」

「またまたー、丘っちってば照れちゃって。嬉しかったくせにー」

「照れてないっつーの!」

 大樹の様子に、また玲菜が楽しそうに笑う。

「――およ? 見たことない顔じゃん?」

 ひとしきり笑って、今度こそ去っていこうとした玲菜だったが、一緒にいた美空に目を留めて、その足を止めた。しばし考え込む玲菜だったが、唐突に指を鳴らすと、

「なる、転校生ちゃんか。よろしくー」

 玲菜が美空の手を取ってぶんぶんと上下に振る。美空は美空で、されるがままになりつつ、目を丸くして玲菜を見つめていた。その驚く気持ちはわからないでもない。周りの生徒とは明らかに違う、派手な女子だから。

「えーっと……この方は……?」

 明らかに困惑した様子で、美空が声を絞り出す。それに、玲菜は手を離すと、

「この学校の生徒会長の玲菜でっす!」

 ビシィッ! とピースサインを片目に当ててポーズを決める玲菜に、美空の口が開きっぱなしになる。それを見た大樹は心の中で激しく同意する。わかる。その気持ちはとてもよくわかる。

 じゃーねー、と玲菜が去っても、美空は狐につままれたような表情のままだった。

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