4/24 保健室の主と住人
「おばちゃん、カレーパンと焼きそばパンとメロンパンちょうだい」
「あんたぁ、またサボリかん!?」
やっぱり行われた三限目終了間際の小テストをどうにか生き延び、四限目が始まって少しした頃。
購買にて、大樹がパンを買おうと出張販売のおばちゃんに声を掛けたら、笑いながらそんなことを大声で言われた。四限目が始まっているはずの時間に買いにきているのだから、サボっていることはバレバレだ。というか、昼をパンにする時はほぼ決まって四限目をサボって買いに来ているので、もはやすっかり顔なじみとなってしまっている。
本来ならパンの出張販売は昼休みに行われる。しかし、パンを買いに来る生徒は多く、昼休みは混む。とにかく混む。その人数のせいでパンの売れ行きペースが速く、しかも人気のパンから消えていくので、目当てのパンが買えないことも多々ある。それを嫌った大樹は、パンにすると決めた日はこうして四限目をサボって買いに来ているのであった。出張販売が学校に来る時間はとっくに把握済みだ。
今日の四限目は体育であり、もちろん男女別々で授業が行われるので、サボったことが茉莉にバレにくい。どのみち体育は見学するだけなのだ。パンを買いに来た方がまだ有意義なのではないだろうか、と大樹は思う。一応、今日に限っては、足のこともあるので体調不良で保健室に行く、という体育教師への伝言を高梨に頼んでおいたので厳密に言えばサボりではない。もちろん言い訳である。
四百円やに、と陳列途中のパンから注文のパンを取って袋に入れながら、おばちゃんが朗らかに言う。
松葉杖を脇に挟んで、小銭入れからお金を取り出していると、おばちゃんが目を丸くして、
「あんたぁ、その足どうしたん?」
「あー、ちょっと痛めちゃって」
「あれま。気ぃつけやなあかんに?」
四百円を渡してパンを受け取ると、おおきんなー、と元気いい声が返ってきた。どうもー、とそれに返事をして、大樹は松葉杖を突いて歩いていく。向かうは保健室だ。
進学校だけあって授業中は皆真面目に授業を受けているのか騒がしくしているクラスはないようで、校内は静かだった。
辿り着いた保健室には養護教諭不在の札がかかっていたが、大樹はそれを特に気にすることなく中へと入る。すぐに保健室特有の匂いが鼻につく。嫌いではない、むしろ好きな部類の匂いだ。
札が示す通り、この部屋の主の机は空だった。誰かが使っているのか、三つあるベッドの内、廊下側の一つはカーテンが閉められている。大樹は部屋の中央に置いてある丸テーブルにパンが入ったビニール袋を置き、窓際のベッドに近付くと仕切りのカーテンを閉めた。一階にある保健室の窓の外には背の低い樹が生えていて、木漏れ日が差していた。
ベッドに松葉杖を立てかけ、上履きと学ランを脱ぐと、足を気にして慎重に布団の中へ潜り込む。
木漏れ日によって暖められていたそこはとても心地がよく、大樹の
チャイムの音で大樹は目を覚ました。
もぞもぞと布団の中で制服を探ってスマホを取り出して見ると、昼休み終了のチャイムだったようだ。寝すぎたようだ。五限目が始まってしまった。遠く聞こえていた校舎内の喧騒が、静まっていく。
茉莉から『今どこ?』とだけメッセージが来ていて、さらにたった今手の中でスマホが震えて『サボり?』というメッセージを受信していた。それに『保健室』と返すと『何で?』、正直に『眠たかったから』で、いつもの怒り猫が送られてきた。これは後でお説教かもしれない。諦めてスマホをしまう。
空腹感を覚え、大きなあくびをかましつつベッドから降りようとする。が、立てかけておいた松葉杖に気付いて、大樹はその動きを止めた。
――危ない、普通に降りるところだった。
その内一回くらいコケそうだな、と自嘲気味に思いながら、学ランを羽織って慎重にベッドを降り、松葉杖を手にカーテンを開けた。
「………………?」
カーテンのその動きと音に反応してか、丸テーブルに座っていた女の子が、その丸っこい目を大樹へと向けて、こくん、と小首を傾げた。その口からは茶色の麺が数本飛び出している。小さな手にはその正体と思しきパン――焼きそばパンが。大樹が目の前の状況についていけず女の子を注視している間にも、飛び出している麺がその口の中へと収まっていく。
丸テーブルの上に置いたはずのビニール袋は広げられていて、その手に持っている焼きそばパンがさっき買った物であることは明らかだった。
女の子は頬をぱんぱんに膨らませながら咀嚼していて、その様子はまるでエサを懸命に食べる小動物のようだった。体格もものすごく小柄で、華奢で、まさに小動物という言葉がぴったり当てはまる。腰まである髪は烏の濡れ羽色で、よく手入れされているのかゾクリとするほど綺麗だった。無表情にも見えるその顔立ちはまだ幼く、身長のせいもあって下手をすると小学生に間違えそうだ。制服を着てはいるが、完全に制服に着られていた。
大樹が、自分をじーっと見つめてくるその女の子に、色んな意味で目を奪われていると、
「――やっと起きた。もう五限目始まったわよ?」
もぐもぐ、と何かを食べながら話すそんな声が聞こえてきて、大樹がそちらへと視線をやると、
「――ちょっ!? 何で理江ちゃんまで人のカレーパン食ってんですか!」
毛先がウェーブがかったセミロングの白衣姿の女性――養護教諭の
「えー? そこのテーブルに置いてあったから、私への差し入れかなーって思って?」
意地悪く笑いながら、カレーパンを
「……ったく。あーもー、メロンパンしか残ってないじゃないっすか……」
座りつつビニール袋の中を確認すると、一番のお気に入りであるメロンパンはまだ無事だった。しかし大樹からするとメロンパンはデザートの部類で、これでは昼飯を食べた気がしない。昼休みが終わってしまった今、校外に出なければ食べ物を入手できないので諦めるしかないが。
「勝手にベッド使うからそうなるの。ね~、
奏、と呼ばれた女の子が、声に反応して未だに大樹を見ていた視線を理江へと移すが、こくん、と訊かれたからとりあえず頷きました、という感じで頷いただけで何も言わない。しかし理江はその反応だけで満足なのか、ふふん、と得意げに笑うと、
「ほら見なさい。というわけでこのカレーパンと焼きそばパンは私と奏ちゃんの物です」
ドヤ顔でそう
呆れ顔で大樹がそのドヤ顔を眺めていると、食べ終えた理江は不意に真面目な顔をして大樹の足と松葉杖に目をやった。
「――で? その足は?」
それまでの明るい口調とは違う、静かで落ち着いた口調で理江は問う。自分の身に起きたことについて、理江はほぼ全て知っている。だからか、その表情には心配の色が見て取れた。
「またやっちゃっただけっすよ」
深刻な雰囲気にならないよう、大樹は努めて明るく言う。
それを察してか、理江も声のトーンを上げ、
「また~? 丘くん、また走ったの?」
前回やらかした時にも同じことを訊かれているので、走りすぎて足を痛めたことはまたと言うだけで伝わった。
ギシ、と椅子の背もたれに寄りかかった理江は小さく溜め息を吐いて、
「お医者さんからダメって言われてるんでしょ? ちゃんと守らないと、めっ、だぞ☆」
ふざけた様子で人差し指を大樹に突き付けてそう言う養護教諭二十八歳から目を逸らして、大樹はビニール袋からメロンパンを取り出すと、わーうまそーと棒読み気味に呟く。
「……無視って。さすがに私も泣くわよ。大声でわんわん泣いて丘くんに襲われた~って職員室駆け込むわよ」
「やめてくださいよ……」
子供かよ、と思う大樹であったが口には出さない。この人はやると言ったらやる人である。
「んんっ。こ、コーヒー淹れてあげる」
若干顔を赤くした理江は咳払いをして立ち上がると、カップタイプのインスタントコーヒーへお湯を入れて大樹の前に置いた。何も聞かず、同封のシュガーもクリーミングパウダーも添えないところが、如何に大樹が保健室へ通っているかを物語っていた。
ありがとうございます、と礼を述べた大樹はコーヒーを
「それから……はい、これ。パンのお詫び」
そう言って、理江はさらに大樹の前へアルミホイルに包まれた何かを置く。形状からしておにぎりのようだった。渡りに船、空腹におにぎり。ありがたく頂くことにする。
アルミホイルを開きつつ、大樹は先ほどから気になっていることを口にする。
「ところで、さっきから気になってるんですけど」
「うん?」
首を左に回して、大樹は女の子に目を向ける。焼きそばパンを食べ終えていた女の子は、机の上に文字がビッシリと書かれた本を広げて、ノートへ一心不乱に書き込んでいた。ちらりと見えた表紙は、進路指導室で見た覚えがある赤色をしていた。
(……誰?)
思わず小声になる大樹だった。自分は保健室の常連だと自負しているが、こんな女の子は見たことがない。
(あー……この子はね、新入生で――)
釣られて小声になった理江が喋りかけたその時、保健室の電話が鳴った。割と大きな音のせいで肩を震わせる大樹と理江だったが、見ていた限り女の子はぴくりとも反応しなかった。何事もないかのように、シャーペンを走らせている。
受話器を取った理江が対応している間に、おにぎりを食べ終える。理江が自分で食べるはずだったのだろう、育ち盛りの男子高校生が食べるには小さかったが、おいしかった。ちなみに中の具は鮭だった。
内線だったのか割とフランクに対応していた理江は、受話器を置くと立ち上がった。そして大樹に向かって、
「ごめん、私ちょっと職員室行ってくるからさ、その間、奏ちゃん見ててくれない? 五限目、丘くん保健室で休んでたことにしといてあげるから、ね?」
ウインクまでされて拝まれては断ることもできない。どうせもう五限目に出るつもりはなかったので、大樹はその申し出に頷く。
お願いね~、と理江は足早に保健室を出ていき、そして大樹と女の子が残された。
見てて、と言われても何をすればいいのだろうか。大樹は再び女の子に目を移す。やはり女の子はノートに書き込んでいて、シャーペンを走らせる音や時折本のページを
――集中しているようだし、邪魔しないように何もしないでおこう。
そう決めた大樹はコーヒーを一口含むと、残ったメロンパンの包装をガサガサと破った。女の子が鳴らしている音がその音に掻き消される。
メロンパンは好物だ。体重の為に食事に気を使わなくて良くなった今、パンを買う時には必ず選んでいる。陸上をしていた時は食べたくても我慢してほとんど食べなかったので、その反動が来ているのだろうか。おかげで最近体重が見たことのない数値を示していた。もっとも、茉莉に言わせるとそれでもまだ痩せているらしいのだが。
大口を開けてかぶりつこうとして、ふと大樹は口を閉じた。目の端で女の子がこちらを見ていることに気が付いたのだ。なんだろう、さっきの包装を破る音がうるさかったかな、と大樹が女の子を見ると、
「――って、よだれよだれ!」
女の子の口の端からよだれが垂れていた。ここまで見事なよだれ垂らしは見たことがない。よだれが垂れていることに気が付いていないのか、女の子は拭う素振りも見せず、大樹を――正確には大樹の手のメロンパンをじっと見つめている。食べたいらしい。人の焼きそばパンを食べておいて、まだ欲しがるとは。呆れる大樹だったが、女の子の目がどことなく輝いているように見えて、溜め息を吐く。
メロンパンを包装に戻して、大樹は立ち上がると理江の机上にあるティッシュを数枚取った。そのまま右足でケンケンをして女の子に寄り、ティッシュを差し出してみるが、女の子は受け取ろうとしない――というより、視線がメロンパンに固定されていて大樹の方を見ようともしない。仕方なくその口元を大樹は拭いてあげる。そこまでされて、ようやく女の子は大樹を見た。
相も変わらず無表情に見える。間近で見るその顔は幼くはあるものの、整っているように思う。一言で言うと、かわいい。
そんな女の子に見つめられた大樹は、よだれまで拭いておいて黙っているのも変だしこれも何かの縁だし、と自己紹介をしてみることにする。
「――俺、丘 大樹。一応、三年生。そっちは?」
恐る恐る、返事返ってこなかったらどうしよう、と大樹が思っていると、
「………………
かろうじて聞き取れるほどの小さな声で最低限の自己紹介だけをして、女の子――奏は口を閉ざした。あまりお喋りなタイプではないのかもしれない。それに初対面だし仕方ないか、と大樹は思う。
奏が視線をメロンパンへと戻す。どうしても欲しいらしい。さすがにこの視線を前に一人でメロンパンを平らげる勇気を大樹は持ち合わせていなかった。
席に戻ってメロンパンを半分に割る。大樹がその片方を奏へと差し出しながら、
「食べる?」
と訊くと、奏はこくこく、と首を勢いよく縦に振った。よく見ないと気付かないほどではあったが眉が少し上がっていて、嬉しそうだった。完全に無表情というわけではないらしい。じーっと見てくるものだから、つい釣られてじーっと見てしまっていた大樹は、その表情の変化に気付くことができた。
大きい方を渡すと、両手で大事そうに掴み口へと運んでいく。焼きそばパンを食べていた時のように、すぐにその小さな口の中がいっぱいになって頬が膨らんだ。ハムスターみたいだな、と大樹は微笑ましく思うと、自分の分のメロンパンを
会話もなく、しばらく二人がメロンパンを食べる音が保健室を満たした。
先に食べ終わった大樹が奏を見ると、まだ食べている途中だった。変わらず頬をぱんぱんにして咀嚼している。しかし。
「こぼれてる。カスがめっちゃこぼれてるから」
見れば机の上はおろか、制服にまでメロンパンのカスがぽろぽろとこぼれていた。大樹の声が聞こえているのかいないのか。奏はそのカスを払う素振りを見せない。奏ほどではないにしろ、自分も机の上にカスをこぼしてしまっている。このままにしておくとこの部屋の主に怒られるかもしれない。しょうがなく、カスを掃除しようと大樹は立ち上がる。
ケンケンで移動しながら、小さなゴミ箱を取ってくる。手で机の上を払ってカスをその中へ入れていく。奏のこぼしたカスもついでに回収する。ノートや本の上にもカスは落ちていて、払うついでに何となくその中身を覗いてみると、自分の学力では解けないような問題が並んでいた。一年生が解くような問題ではない気がする。
「制服についたカス、この中に入れなよ」
さすがに制服についたカスを自分が払うわけにはいかず、大樹は奏に声を掛けた。残っていたメロンパンの破片を口に収めた奏は、大樹の言葉に素直に従うとカスをゴミ箱の中に払ったり摘まんだりして入れていく。ほとんど取れたのを確認して、大樹はゴミ箱を元の場所へ戻した。
席に戻って大樹はコーヒーを啜って落ち着く。ケンケン移動は疲れる。奏は満足したのか、もうこちらに目を向けることなく、また机へと向かっていた。
先ほど見た本の内容が思い出された。自分には手も足も出ないような問題を、シャーペンを止まらせることなく解いている奏。
つい仲良くメロンパンを半分こして食べてしまったが、今さらになって大樹の心の中に疑問が沸く。
――結局、この女の子は一体。
大樹の疑問に答えてくれるであろう人物は、まだ帰ってきそうにないのだった。
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