4/24 茉莉と未利
「――お、お兄ちゃん、大丈夫っ!?」
家に入るなり、目に涙を溜めて今にも泣きそうな表情をした未利が玄関まで飛んできた。鍵が開けっ放しだったから留守番してもらっていたんだっけ、と大樹は茉莉の言葉を思い出す。学校に行くために呼びにきたということで、未利の姿もやはり制服姿だ。新学期以降、学校をサボらないよう、毎朝姉妹で呼びに来てくれるようになっていなければ、発見されるのがもっと遅くなっていたかもしれない。
「大丈夫だって。それより未利、留守番してくれてありがとう。あと、心配かけてごめん」
ぽん、と松葉杖を脇に挟んで、大樹は未利の頭に手を置いた。柔らかな髪の感触が手に伝わる。
「ううん、お兄ちゃんが無事でよかったぁ……」
それが引き金になったのか、未利の瞳から涙が零れた。それを見て、この幼馴染にもいらぬ心配をかけてしまったな、と大樹は改めて悔いる。病院まで着いてきてくれた茉莉と違い、一人家で待っているのは余計に心配だっただろう。
涙を指で拭った未利は、不思議そうな顔をして大樹の顔に目を止めると、
「……ほっぺたはどうしたの? 足って聞いてたのに、ほっぺたも赤く腫れてるよ……?」
「あ、あぁ、うん、それも大丈夫だから……」
君の姉にビンタされた跡です、とは言えない大樹だった。そもそも自分が悪いのだし。
「ほら、人の妹と玄関でイチャイチャしてないで、アンタはちゃっちゃと朝ご飯食べてくる。制服とか鞄とか、あたしが持ってきてあげるから」
「お、お姉ちゃんっ! ぃ、いイ、イチャイチャ、なんて……」
「あー、はいはい。照れなくていいから、大樹連れてってご飯食べさせてやって。大樹、部屋入るよ?」
「いいけど……荒らすなよ?」
「アンタの部屋、荒らすほど物ないでしょーが」
っていうか朝にもうアンタの部屋に勝手に入ってるけどねー、と茉莉が小気味よく階段を上がっていく。位置関係的にスカートの中が見えそうになって、慌てて大樹は目を逸らした。見たくないわけじゃないが、見た後が怖すぎる。
「ほっ、ほら、お兄ちゃん、ご飯食べよ? 何も食べてないんだよね?」
「うん、めちゃくちゃ腹減ってる」
未利に先導されて、リビングダイニングへと入る。普段カーテンが閉め切られていて薄暗いそこは、全てのカーテンが開かれ、空気の入れ替えのためなのか、窓も開けられていた。朝の……というには少し遅いが、清々しい空気と光が満ちていた。
四人掛けのダイニングテーブルに座るよう未利に促され、足を気にしながら大樹は従った。
「さっきお姉ちゃんからメッセージもらったところだから、簡単な物しか作れなかったけど……」
そう言って未利がカウンターキッチンから運んで食卓に並べたのは、白米に味噌汁、玉子焼き、アスパラのベーコン巻きだった。これで簡単な物だというのなら、いつも自分で用意している朝ご飯は一体何なのだろうかと、大樹は本気で考えたくなる。インスタント味噌汁ぶっかけご飯とか。エサ?
伊寿美に家まで送られる車内で、朝ご飯を食べていないと言ったところ、家で留守番してくれていた未利に茉莉が準備を頼んでくれたのだった。料理部に入るだけあって未利の料理の腕前はかなりの物で、前までは母親の帰りが遅い時や出張でいない時など、大樹は何度となくそのお世話になっていた。もしかすると自分よりもこの家のキッチンには慣れているかもしれない。もっとも、近頃は暇なので自分で夕飯を準備することが多く、あまり頼った覚えはないけれど。
「お兄ちゃんごめんね、冷蔵庫の中の物勝手に使わせてもらっちゃって」
「いやいや全然大丈夫だから。むしろ作ってくれてありがとう」
いただきます、と手を合わせて大樹は食べ始める。まずは味噌汁から。具が豆腐とワカメと玉ねぎという自分の好物である味噌汁で、真っ先に手を付けずにいられなかった。身体にじんわりと温かさが広がっていく。玉ねぎの甘味が出ていて非常においしい。
「お兄ちゃん、おいしい?」
対面に座った未利が、大樹の目の前に湯気立つ湯呑みを置いて、そう訊いてきた。
「……ん……っ、うん、おいしい」
「良かったっ」
大樹の返答を聞いて、その表情に花が咲く。
口に入れたアスパラのベーコン巻きにはチーズが仕込まれていて、さらに簡単な物の定義がよくわからなくなる。前よりも腕を上げたように思える幼馴染の手料理に大樹が舌鼓を打っていると、
「――大樹、アンタ教科書くらい持ち帰ってきなさいよ……部屋に全然ないんだけど」
上に行っていた茉莉が呆れた顔をして、その手に大樹の鞄と制服とを持って部屋へと入ってくる。
「持って帰ってきても家で使わないし。それなら忘れ物をしないように、学校に置いておいた方がマシだろ?」
取ってきてくれてありがとー、と茉莉にお礼を言いつつ、大樹は開き直る。うむ、この玉子焼きのふわふわ具合も絶品である。
はぁぁぁぁぁ、と長い溜め息を吐いた茉莉はこめかみを指で揉む。
「……あーうん、そうね……」
その態度にもはや何を言っても無駄と悟ったのか、茉莉は諦めたように弱々しく同意した。
「はい、お姉ちゃんもお茶」
「ありがと」
大樹の隣の席に未利が湯呑みを置く。リビングのソファの背もたれへと制服を掛けた茉莉が、その席へ横向きに座った。あちち、と小さく洩らしながら、湯呑みを傾ける。横向きに座ったせいで、スカートから覗く茉莉の太ももが目に入ってくるが、意識しないように意識して大樹は朝ご飯へと目を戻した。
制服に目を向けた未利は大樹へと視線を戻して、
「でもお兄ちゃん、学校行くの? 今日くらい休んだ方がいいんじゃ……」
「行くんだって。ね?」
「ハイ、イキマス」
笑顔なのに目が笑っていない茉莉に確認されて、大樹は頷くしかない。
伊寿美にも車内で同じことを言われたが、後部座席、隣に座る茉莉に目で殺されそうになって、大樹は行くとしか言えなかった。この幼馴染、普段でも学校を休むことを許してくれない。授業をサボるだけでも、後で小言を言われたりする。決して留年したのはそれだけが原因ではないが、前年度は事故後に登校拒否で出席日数が怪しかったので、今年度はそうならないように警戒されているのだろうか。
なんて思いつつ、大樹が味噌汁のお椀を傾けていると、
「――玉子焼きもーらい!」
「ちょ、おまっ、楽しみに取っておいた最後の一切れを……!」
横から幼馴染の魔の手が伸びてきて、玉子焼きを
「……ん。だってー、残してたからいらないのかなって」
「好きな物は後に取っておく主義なんだよ」
「うん、知ってる」
悪びれる様子もなく笑ってそう言い切って、茉莉はお茶を
目の前のやり取りを見ていた未利は、目線を落とし落ち込んだ表情になるとぽつり、
「学校行くんだったらお弁当も作ればよかったね……ごめん、お兄ちゃん」
「お昼はパンでも買って食べるからいいよ」
「むー、またそういうこと言う……」
大樹の言葉に、未利は頬を膨らませ口を尖らせる。申し出はありがたいが、まだ高校に入って一カ月も入っていないこの幼馴染に、そこまで負担を掛けるのはやはりどうなのかと思ってしまう大樹だった。
「昼はそれでいいとしても、夜はどうするつもり?」
まだ熱いのか、湯呑みの中へと息を吹きかけていた茉莉が大樹の足へと視線を移して言った。
「あと洗濯とか掃除とか。由美さん最近忙しいんでしょ?」
その足じゃまともに動けないだろうし、と茉莉は言う。
今まで暇さえあれな陸上のことばかりだったので、趣味らしい趣味もない大樹は、近頃完全に暇を持て余していた。そこに母親が忙しそうにしていることもあって、最近では夕飯の支度だけでなく、家事をやるようにしていた。といっても掃除は気が向いた時に掃除機をかける程度だったが。洗濯はしないと着る物がなくなってしまうのでやらざるを得ない。
「別に歩けなくなったわけじゃないし、気を付けてればそれくらいできると思うけど。一週間後に病院で診てもらって、何事もなければ普通に生活できるようにもなるし」
洗濯と口に出されて大樹は思い出した。洗濯機回したままで干していない。
「って、思い出した。洗濯物干さないと」
そう口に出すと、最後の一口だったご飯を咀嚼し、まだ熱の残るお茶を一息に飲み干して、大樹はごちそうさまを言って立ち上がる――否、立ち上がろうとした。
「――大樹!!」
「お兄ちゃんっ!」
部屋に幼馴染の慌てた声が重なって響いた。
――つい、普段のように立ち上がろうとしてしまった。
左足で体重を支えられずバランスを崩しそうになったところを、咄嗟に腕を掴んでくれた茉莉のおかげで、どうにか倒れずに済む。テーブルの上を湯呑みが転がり、池を作っていく。
じろり、と茉莉は大樹を睨み、
「気を付けてれば、ねぇ……?」
「スイマセン……」
今のは完全にやらかした。小さくなった大樹は、そのまま茉莉に椅子へと戻される。それを見て安堵したように胸に手を当てて息を吐いた未利は、キッチンへ行くや否や布巾を手に戻ってきてテーブルの池を拭き取っていく。布巾へと池を吸い取らせながら、
「お兄ちゃん、洗濯物なら私が干しておいたから大丈夫だよ」
一度では全て吸い取り切れず、キッチンへ戻って流しで絞って、また戻ってくる。それを二度繰り返して、テーブルの上が元通りになった。
それを終えると、未利は空になった食器を流しへと運んでいく。テキパキとしたその動作に、大樹は自分で洗うとは言い出せない。もっとも、言ったところで却下されそうではあるが。
茉莉は大樹の腕から手を離すと短く息を吐いて、
「……まっ、そのあたりのことはまた後にしよ。そろそろ学校行かないと」
着替えなよ、と茉莉に促されて、今度は慎重に立ち上がる。ソファに掛けられた制服を取って、一瞬だしここからなら見えないだろうしと、そのままソファに座って手早くズボンを履き替える。カッターシャツとTシャツとを学ランと一緒に持ってきてくれていたが、Tシャツだけを替えてその上に学ランを着た。夏服時以外では学ランさえ着ていればその中はあまりとやかく言われない学校なので、カッターシャツは夏場以外であまり着ない。
鞄の中に財布があることだけを確認して、大樹はスマホを手に――
「なぁ、スマホは?」
――取ろうとしたら、スマホが見当たらなかった。持ってきてくれたものとばかり思っていたが、どうやら部屋に置きっぱなしのようだ。
スマホを耳に当てて――恐らく相手は伊寿美であろう――電話をしていた茉莉は大樹のその問いに、
「――持ってきてないけど? 何、部屋にあるの?」
「うん、枕元に置いてあると思うけど」
取ってきてあげる、と茉莉は再度上へと上がっていく。
「お兄ちゃん、顔だけでも洗ってきたら? 戸締りは私がしておくから」
水音が止まり、食器を洗い終えてキッチンから出てきた未利が、窓に向かいながら言った。お言葉に甘え、洗面所へ行き、タオルを首に掛けて顔を洗う。ほんとは歯も磨きたいが、既に茉莉が伊寿美を呼んでしまった。その猶予はなさそうなので、大樹は口をゆすぐだけで我慢することにする。
部屋へ戻ると茉莉も降りてきていて、はいこれ、とスマホを手渡される。通知を示すランプが光っていたので、見てみると、
――未読メッセージ五十件。十分間一分毎の着信履歴。
その全てが茉莉からで、大樹は言葉を失った。見ていないことにして、そっとスマホを学ランのポケットにしまう。メッセージは後で目を通すことにしようそうしよう。
そう心に決める大樹だった。
伊寿美に車で送られて、三人は学校へと降り立った。学校終わったら連絡してね迎えに来るから、と伊寿美は去っていった。
遅刻者は、職員室で遅刻届をもらわなければならない決まりだ。なので、ひとまず職員室へと足を向けた。三限目中の校内は、教師の声が時たま響く以外は静かで、その中を幼馴染に挟まれた大樹はゆっくりと移動していく。四限目から出ればいいのに、と大樹は思わないでもないが、幼馴染の姉の方が怖くてとても言い出せない。
失礼しまーす、と職員室に入ってみれば、やはり授業中ということもあってほとんどの教師は出払っていたが、担任の筒路がちょうど良いことに残っていたので声を掛ける。
席を立ってやってきた筒路は、大樹の足と松葉杖と交互に目をやって一瞬だけ深刻そうな表情を見せたが、しかし、それについては何も言わずにすぐにいつものやる気のなさそうなしまらない顔に戻り、
「――おっ、なんだー大樹。こんな時間に同伴出勤か?」
「せんせー、それセクハラ」
にやつきながら冗談を飛ばした筒路に、ジト目の茉莉が鋭い声を飛ばす。すまんすまん、と笑って軽く言う筒路に遅刻届をもらい、学年・クラス・氏名・遅刻理由を書いて、最後にハンコを押してもらう。
失礼しましたー、と職員室を出ようとしたら、
「……大樹、無茶はするなよ」
筒路が打って変わって真面目な声でそう大樹へと声を掛けた。大樹が振り向くと、筒路は既に自分の席へと戻っていくところだった。
一年と三年では棟が違う。じゃあお兄ちゃんまた放課後ね、と職員室の前で未利と別れ、大樹と茉莉は己が教室へと向かう。
途中で、大樹は足を止めた。そのことに怪訝な表情をした茉莉が同じく足を止めて、
「ちょっと、まさかサボるつもり?」
「いや、トイレ。先に行ってて」
大樹が足を止めたところはちょうどトイレの前だった。ちゃんと教室来なさいよ、とその背中に釘を刺されながら、大樹はトイレへと入る。
言った手前、用は足す。こうして足を怪我している今、手すり付きの小便器はありがたかった。
用を足しながら大樹は思う。あのまま、茉莉と一緒に教室へ行くことは
時間をかけて手を洗って、大樹はトイレから出た。
教室は三階にある。今のこの状態で階段は怖いが、昇るしかない。覚悟を決めて階段へと辿り着くと、
「――遅い」
腕を組んだ茉莉がいた。どうしてここに、と大樹は思う。これでは先に行ってもらった意味がない。
「先に行ってって言ったじゃん」
「行こうと思ったけど、アンタそんな足だし、階段危ないと思って待ってたの」
ほら貸して、と松葉杖を取られ、腰に手を添えられ後ろから支えられる。空いた手で手すりを掴んだ大樹は、一歩一歩ゆっくりと階段を昇っていく。
(……アンタが考えてることなんかお見通しなんだから)
「ん? 何か言った?」
「言ってない」
その途中で茉莉がぽつりと呟いた言葉は、大樹の耳には届かなかった。
それからはお互い無言のまま、どうにか階段を昇り切って、教室の前へと辿り着いた。この時間は英語表現だったか、中からはまだ若さが残る女性の声で、日本語に混じって英語が聞こえてきていた。英語表現の里村は頻繁に小テストを行うのでその点だけは生徒からは不評だったが、それ以外は特にうるさいことも言わない教師だった。途中入室するにこれほど適した教師もいまい。
茉莉が教室の前のドアをノックすると、声が止まってドアが開いた。
「すいません、遅刻しました」
「――榊さんに、丘くんね。遅刻届は?」
ドアが開いた先にいたのは妙に背の低いちんまりとした若い女教師だった。生徒よりも幼く、もとい、若く見られることもあるというその可愛らしい教師に遅刻届を渡すと、里村は遅刻届と大樹の足とを見たがそれについては何も言わずに、入りなさい、と二人を促した。
教室中の視線が松葉杖を突く大樹へと集中する。久しく浴びるその奇異なモノを見るような視線を物ともせず、大樹は自分の席へと座った。床に松葉杖を寝かせる。
授業が再開される。机の中からとりあえず教科書だけ出して、大樹は一息吐いた。
そんな背中に、ツンツン、と刺激が。なんだ? と大樹が振り向くと、美空が星のチャームが付いたシャーペンを大樹へと向けていた。
(……その足、どうしたの? 大丈夫?)
前のめりになって大樹へと心配そうな表情を見せる顔を近づけて、美空は小声でそう訊いてくる。そんな美空を無下にもできず、
(ちょっと痛めただけ、大丈夫)
(……良かった)
大樹も声を潜めて返すと、美空は表情を一転、安心したかのように微笑んだ。至近距離で美人に微笑まれて、大樹は胸をどぎまぎさせる。
(ねねっ、一緒に来た女の子って彼女?)
突拍子もないことを言われて、大樹は思わず吹き出してしまう。板書をしていた里村が振り返るが知らぬ顔をしておく。
(――た、ただの幼馴染だよ。今日はちょっと色々と面倒を見てもらっただけ)
ちょっとどころではないような気もするが、そういうことにしておく。
(ふーん、幼馴染かぁ……)
美空がその視線を茉莉へと向けるのに釣られて大樹も茉莉へと目をやると、茉莉も茉莉で大樹を見ていた。というか、なぜか睨まれている。
(……なんか、めっちゃ睨んでない?)
(あぁ、あいつはあれがデフォだから……)
ポケットの中でスマホが震える。嫌な予感がして再度茉莉を見ると、机の下でスマホを弄っている。恐る恐るスマホを見ると、
『授業中にイチャついてんじゃないわよ』
というメッセージが送られてきていた。イチャついてません。断じて。
(――あ。そうだ、ID交換しよ?)
スマホを見て、美空が頼んでくる。別に教えるのは構わないのだが……。
(後でな)
と、大樹は美空に伝える。
今教えるのは、自殺行為かもしれない、と茉莉を見て大樹は思うのだった。
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