4/24 榊 茉莉

「アホだろ、君」


 医者としてはまだ若い部類に入るであろう担当の男性医師にはっきりとそう言われ、大樹はただただ縮こまるしかなかった。

「退院前にも、前にこうして運び込まれた時にも、私はちゃんと言ったはずだ。激しい運動は禁止だと。長距離を走ることも激しい運動だと、陸上をしていた君ならわかっているはずだが?」

 同じことをしでかしたのが二度目ということで、担当医の口調には遠慮がない。

 鎮痛剤を投与され、痛みは今のところ治まっていた。検査の結果、炎症が起きただけで、入れてあるボルトがずれたり骨に異常がある等の大事には至ってはいないということだった。それでも左足首はテーピングで固定され動かすことができない。

 走りたくなる気持ちはわかるが、と担当医は続け、

「それでも、君の左足は事故の後遺症で炎症を起こしやすい。それをちゃんと自覚せずにこんなことをしていたら、歩けなくなることもあるかもしれないぞ」

 次同じことしたら問答無用でギプスだからな、と最後に脅されて、大樹はファイルを受け取ると診察室を後にした。

 左足を地面に着けないよう、松葉杖をついて慎重に歩いていく。酷使した右足が軽く痛むが、歩行できる程度には回復していた。

 診療時間となった朝の市民病院には既に多くの患者が来院しているようで、患者や医師や看護師が大樹を追い抜いたりすれ違ったりしていく。しかし病院という場所柄か、人が多くいるのにも関わらず、静謐せいひつな空気が流れていた。

 受付にずらりと並んだ待合椅子はほぼ埋まっていた。これは待ち時間が長そうだ、と大樹は辟易へきえきする。診察室でもらったファイルを会計窓口へと提出しなければならないが、健康保険証も必要だ。そのために、家から持ってきてもらうよう頼んだ人物を探して視線を巡らせ、発見する。向こうもほぼ同時に大樹へと気付き、立ち上がると足早に近寄ってくる。

「あ、茉莉、ありが――」

 とう、と最後まで言わせてもらえなかった。

 

「――バカッ!!」

 

 ドラマみたいに胸のすくような音はしなかった。それでも、茉莉のビンタの音と声は、周囲の人々の注目を集めるには十分だった。

 打たれた頬を押さえながら、大樹は茉莉を見た。見慣れた制服姿ではあったが、いつも綺麗にまとめている長い髪はあちこち乱れ、大樹を睨みつつも涙が浮かぶ目の周囲は赤く腫れていた。怒りからだろうか、頬は赤く染まり、半開きになった唇は震えている。

「これで二回目だよ!? もうこんなことにはならないようにするって言ったよね!? あれだけ言ったのにスマホも持ってないし!!」

 涙声混じりの怒声で、茉莉が大樹を詰る。

「あたしが……あたしたちがどんなに心配したか……っ!!」

 浮かんだ涙が、その重みに負けて茉莉の頬を伝った。

 さすがに見かねたのか、近くにいた看護師が、病院ですのでお静かに……、と茉莉に声を掛けた。

 それを受けて、茉莉は涙を袖で粗雑に拭うと、大樹の手から乱暴にファイルを奪い取り会計窓口へ大股で歩いていった。周囲の視線がようやく散る。

「――ごめんねぇ、大樹くん。騒がしい娘で」

 呆然と立ったままの大樹に、落ち着いた声が掛かる。見ると、茉莉が歳を取るとこんな感じだろうな、という女性が申し訳なさそうな表情をして立っていた。茉莉の母親だ。伊寿美いずみさん、と普段から名前で呼ぶ程度には親しい。

「いえ……こちらこそすいません、ご迷惑をお掛けして」

 神妙に大樹は頭を下げる。家から保険証をもってきてもらうために、車を出してもらっていた。本来なら自分の母親がそうするべきなのだろうが、生憎と連絡がつかず、代わりに頼まざるを得なかった。頼んだのは茉莉だったが。

「いいのよ、そんなこと。困った時はお互い様、でしょ? それよりほら、立ったままだと辛いでしょう? 座りなさいな」

 ちょうど近くに空いている座席があり、促された大樹は椅子へと腰掛ける。その隣へと伊寿美が座った。ファイルを提出しにいっただけのはずの茉莉はまだ戻ってこない。会計窓口をうかがうと、その姿は見当たらなかった。どこかへ行ったのだろうか。

「お金も立て替えとくし、由美には私から説明しておくから。また救急車で運ばれた、なんて言いにくいでしょう?」

「何から何まですいません……ありがとうございます」

「ふふ、そんなにかしこまらなくてもいいのよ。いつもみたいにして?」

 畏まる大樹がよほど珍しかったのか、伊寿美が微笑む。その顔は笑った茉莉とよく似ていて、親子なんだなと思わせられる。そういえば、茉莉の笑顔をここのところ見ていない気がする。

「それにしても、びっくりしたわ。大樹くんが救急車で運ばれて今病院にいる、って茉莉から電話があった時は。あの子ったら泣き喚いて電話してきて――」

「――母さんっ!」

 鋭い声が伊寿美の言葉を止めてしまう。見れば、ペットボトルを手にした茉莉がいて、口を尖らせていた。直してきたのだろうか、乱れていた髪はある程度整えられ、髪を纏めているが故にむき出しとなっている耳は、その頬と同じく赤く染まっていた。

「余計なこと言わないで」

「はいはい」

 伊寿美が苦笑する。茉莉は、大樹の隣へと乱暴に腰を下ろすと、手に持ったペットボトルを大樹へと差し出した。

「はい」

 ただそれだけをそっけなく言われて渡されたのは、大樹が好きなミネラルウォーターだった。ちょうど喉が渇いていたのでありがたく頂くことにする。

 飲みながら横目で茉莉を窺うと、機嫌が悪い時によく見る表情でスマホを弄っていた。文字を打っているのか、親指が高速で動いている。大樹が見ていることに気付いた茉莉は、指を止め顔をあげると、

「何?」

 尖った声と鋭い目で大樹に反応を返した。気圧されつつも、大樹は、

「いや、何してんのかなと……」

「留守番してる未利にメッセージ送ってるの。倒れていたバカな誰かさんのことを心配してたから、安心させてあげようと思って」

 棘だらけの返答に、大樹は黙るしかない。

 茉莉は鼻を鳴らすと、再び親指を動かし始めた。

 その様子をやはり横目で盗み見ながら、大樹はこうなってしまった経緯を頭に思い浮かべた。



 ――結局、途中で倒れた。


 さすがに痛む足を抱え五キロの距離を片足で、というのは無理があったようで、四本目の距離標を過ぎたところで完全に前に進むことができなくなってしまった。その頃には人がちらほらと増えてきており、大樹の傍を通っていく人もいたが、道の端でうずくまる大樹に声を掛ける人はいなかったし、俯いていた大樹が助けを求めることもなかった。

 ――休憩して、動けるようになったら行こう。

 そう思っていた大樹だったが、一度止まってしまうと、足の痛みに耐えて動こうとする気力を奮い立たせることが難しく、再び立ち上がることができなくなってしまった。

 一歩も動けないままどれだけ時間が経ったのか。痛みにより朦朧もうろうとしてくる意識の中、大樹は自分の名前を呼ぶ声を聞いた気がした。

 最初は空耳かと思ったが、確かに呼ばれている。徐々に大きくなるその声に釣られるように、大樹は顔をあげた。

 

「――大樹っ!」


 すると、制服姿の茉莉がそのポニーテールを振り乱しながら、かなりの速度で走ってくるところだった。声が大きくなるに比例して、その姿も大きくなってくる。

 息を切らし、汗で髪を張り付かせた茉莉が大樹の元へと駆け込んできた。泣きそうにも見える表情をしている茉莉はその場にしゃがみこむと、

「――バカッ! またこんな……!」

「ごめん……」

「……待ってて、今、救急車呼ぶから!」

 こうして倒れてしまい、茉莉に助けられるのが二度目ということで、茉莉は訊かずとも見ただけで大樹の状況を把握した。そのため、茉莉が119へと電話を掛ける動作には全く躊躇ちゅうちょがなく、スマホを耳に当てた茉莉は、場所や症状を落ち着いた口調で説明していく。その間、空いている右手が大樹の背中に当てられていて、その手の温かさに大樹は泣きそうになる。

 通報を終えた茉莉がスマホをポケットにしまうのを見て、大樹は恐る恐る問い掛けた。

「……どうして」

 大樹の質問に、大きく息を吐いた茉莉は、ツリ目をさらに吊り上げて大樹を睨むと低い声で、

「アンタね、今何時だと思ってんの。呼びに行ったらインターホンは出ないしスマホは返事ないし。まだ寝てるのかと思ったら、玄関の鍵開けっ放しで」

 出かけるなら鍵くらいちゃんと閉めなさいよ、と小学生の子供が叱られるような事を注意される。言われてみれば確かに、鍵は持って出たが、かけた覚えはないのだった。

 まぁでも、と茉莉は続ける。

「今回はそのおかげで、助けに来れたからよかったけど」

 バカ、と小さく呟かれて、大樹は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 こうして動けなくなり、茉莉に助けてもらうのは二回目だった。あの時、パニックになって泣きじゃくる茉莉を見て、もう無茶はしないでおこうと決めたはずなのに、またやってしまった。

 それきり茉莉は黙ってしまい、スマホを操作し始めた。どこかへ連絡しているのだろうか。画面を見つめるその表情は、怒っているようにも、泣きそうなようにも、落ち着いているようにも見える。それでも、二回目ということで、あの時のようにパニックにはなっていないようだった。その点だけには、大樹は心を撫で下ろした。自分がしでかしたこととはいえ、またそうなる茉莉を見るのは忍びなかった。

 やがて、救急車のサイレンの音が聞こえてきて、茉莉がその誘導のために立ち上がって離れていった。


 その後、担当医からアホと呼ばれる羽目になるのであった。



「――呼ばれた。母さん、お願い」

 その声で、大樹はハッとした。

 茉莉が持っていた受付番号のカードを渡された伊寿美が、会計窓口へと向かっていく。

 改めて、大樹は茉莉をちゃんと見た。スマホに目を落とす、その目元は未だ赤く腫れている。

 病院に着いて運ばれていく時までは、茉莉は気丈に振る舞っていたし、今のように泣いた形跡は見当たらなかった。だから、大丈夫だと思っていた。

 ――でも。

 大樹の脳裏に、診察室から戻ってきた時の、感情を爆発させた茉莉の様子が蘇る。

 心配していないわけがなかったのだ。

 むしろ、二度目ということで、余計に心配をかけてしまったのかもしれない。いや、事故の時を合わせると三度目か。

 そう思うと、大樹の心は痛んだ。自分のした無茶で、いつも何だかんだで世話を焼いてくれる幼馴染に、辛い思いをさせてしまった。

 ぼーっとしていて走りすぎた、なんて言い訳にもならない。そもそも自分はもう走ってはいけないのだから。

「――何、さっきから」

 大樹の視線に気付いて、茉莉は再びスマホから顔をあげた。そのまま大樹を目をじっと見つめ返してくる。

 何か言わなければならない。でも、考えがまとまらない。

「――ごめん、心配かけて」

 だから結局、大樹の口から転がり出たのは、ただそれだけだった。

「…………そう思うなら、もうこんなことになるのは勘弁してよね」

 溜め息を吐いて、茉莉はそう返すと立ち上がった。その視線の先には、会計を終えてこちらへ戻ってくる伊寿美の姿がある。

 ほら行くよ、と促されて大樹が立ち上がろうとすると、茉莉が立ち上がるのを手伝ってくれた。鼻先を茉莉の髪がかすめる。

 いい香りが、鼻をくすぐった。

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