4/24 おほしさま

『――大樹。お父さんはお星さまになったの』

『……おほしさま?』

『そう、お星さま。だから……ほら。こうやって、お空から大樹のことをちゃんと見ていてくれるのよ。大樹が寂しくならないように』

『…………メダルは? メダルのおほしさまもおとうさん?』

『メダルって?』

『マラソンたいかいでいっとうしょうになったらおほしさまのメダルがもらえるって、せんせいがいってた』

『――そうね、それもきっとおとうさ……ん…………っ……』

『……おかあさんもさみしいの? ……じゃあ、ぼく、おほしさまのメダル、とってきておかあさんにあげる』

『……、じゃあ……っ……、いつまでも泣いてないで……マラソン大会頑張らなくっちゃね?』

『うん、がんばる――』

 


 ――懐かしい思い出を夢に見た。

 目を覚ました大樹の目元は濡れていた。小学校一年生で父親を亡くして塞ぎ込んでいた時のこと。それを夢に見て、大樹は目元の涙を指で拭いながら懐かしく思いを馳せた。小学校のマラソン大会。その一等賞でもらえた星がデザインされた丸いメダル。言った通りにそれを取ってきたことが、その後の自分を形作った。走ることが好きになったきっかけ。その思い出の品は、今は部屋のクローゼットの中にしまわれている。小学校六年間、他の誰の手にも渡さなかったから五枚がそこにあるはずだ。一枚は宣言通り、母親にあげた。

 寝るときはいつも枕元に置いてあるスマホに手を伸ばして時間を確認すると、アラームがセットしてある時間よりもいくらか早い時間だった。カーテンを透き抜けた光で部屋が薄明るくなっている。

 ここで二度寝したら、アラームが鳴っても起きないだろう。大樹にはそんな確信めいた予感がある。それに何より、今日は珍しく目覚めがよかった。事故の夢を見て汗びっしょりで飛び起きなかったのはいつぶりだろうか。せっかくなので起きることにする。

 大樹は部屋着をベッドの上に脱ぎ捨て、部屋の片隅に積まれている畳まず放置している洗濯済みの山からハーフパンツと適当なTシャツ、靴下を取って着用する。

 物が少ない部屋だった。同年代の男子が持っていそうなパソコンやテレビ等、娯楽品はなく、壁際に置かれている背の低い本棚には空きが目立っている。机の上には申し訳程度に文具が置かれているのみ。床にはストレッチマットが引かれ、筋トレ用具が点在していた。

 着替えた大樹は、家の鍵を持って部屋を出る。階段を降りていると、階下から騒がしい足音が聞こえてきた。降り切った先でその足音の主と鉢合わせになる。

「――あら。おはよう、大樹。今日はずいぶんと早いのね」

「……おはよ」

 スーツに身を包んだ中年の女性――大樹の母親だった。昨日、自分が寝た頃にはまだ帰ってきてなかったほど、帰宅が遅かったはずなのに、もう出かけるらしい。四月から仕事を変えた、と言っていたことを大樹は思い出す。それまでも割と忙しそうにしていたが、今ほどではなかった。最近は顔を合わすことすら稀になっている。

 夢を見たせいか、大樹はふと思う。あげたメダルはまだ持っているのだろうか。

「じゃあ、母さん行ってくるから。大樹もちゃんと学校行きなさいよ?」

 洗濯お願いね、と言い残して慌ただしく母親は出ていく。その背中に問い掛けることはせず、代わりにいってらっしゃいと呟いて、大樹は言われた通り脱衣所にある洗濯機へと向かう。二人暮らしなので洗濯物の量は少ない。ネットに入れるべき物だけネットに入れ、洗濯機へと放り込んで洗剤を投入する。最後に柔軟剤投入口に柔軟剤を流し込み、蛇口を開けてスイッチを押すと、洗濯機が唸り始める。

 動き始めたことを確認して、大樹はリビングダイニングに入る。カーテンは閉め切られていて部屋内は薄暗い。開けるのがめんどくさくて、その薄暗いまま、大樹は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、パックに直接口を付けて喉を鳴らした。

 牛乳を冷蔵庫へと戻して、大樹は玄関に向かう。通学用に使っているスニーカーとは違う、真っ青なランニングシューズに足を通して、家の外へ出た。

 太陽はすでに昇っているもののまだその光は弱い。少し肌寒く感じる、早朝の爽やかな空気が流れていた。鳥が散発的に鳴いている。

 カーポートの下で軽く動的ストレッチをしてから、大樹は歩き出す。向かう先はいつものところ、家から歩いて五分程のところにある堤防だ。途中、犬の散歩をしている人とすれ違い、軽く会釈をする。

 堤防に着くと、いつもより早い時間だからか人の姿はほとんどなかった。いつもなら堤防にも、堤防の下の河川敷にも、運動に勤しむ人がまばらにでも見えるのだが。河川敷と反対側は道路を挟んで住宅街が広がっている。その景色を眺めつつ、大樹は堤防の道の脇、アスファルトに覆われていない土手部分に設置されている距離標に近付く。そこには河口からの距離が表示されていて、この堤防ではおよそ五百メートル毎に設置されている。これを目安にして距離を測り走るのが、大樹が現役時代から続けている朝の日課だった。

 身体は既に温まっている。ほんのり香る潮風の中、大樹は一つ深呼吸をすると、ゆっくりと走り出した。

 足首に未だボルトとプレートは入っているものの怪我はほとんど癒えていて、歩行や日常生活に支障はない。しかし、担当の医者から激しい運動は禁止されていた。だから、その速度は現役時代と比べるべくもない。走れる距離も短い。それでも、こうしてゆっくりと走るだけでも大樹は嬉しくなる。やっぱり走ることは好きだ。それだけに、陸上を続けられなくなったことは辛かった。


 ――それとも……走れなくなったから?


 走っている大樹の脳内に、昨日の昼休みの出来事が蘇る。自分の心の傷を抉った、女子の顔が思い浮かぶ。


 ――野々崎 美空。


 結局、彼女は何者なのか。もしかしてと思い、昨夜、小中学校の卒業アルバムを広げてみたが、当然ながらその名前は載っていなかった。救ってもらった、と言っていた。しかし、自分にはそんなことをした覚えがない。だから悩んでも結局答えは出ない。答えは出ないのに、美空のことばかり考えてしまう。走りながらも頭の中はそのことでいっぱいで、ぼーっとしながらダラダラと走ってしまう。


 だから、やってしまった。


 それは突然だった。

 足を地面につけた瞬間、左足首が鋭い痛みを発して、踏み止まることができずに大樹はそのまま左足から崩れ落ちて転倒した。痛みに歯を食い縛りつつ、周囲に視線を巡らせる。河川敷に住宅街という似たような景色が続いているが、それでもいつもとは明らかに違う景色だった。走りすぎてしまっている。普段ならもっと手前で走るのを止めているのに。考え事をしながら走っていたせいで、無意識の内に速度を上げてしまっていたということもあるかもしれない。

 周囲に人はおらず、倒れた大樹に気付く者はいなかった。大樹はひとまず、這って道の脇へ退いてその場にうずくまる。足首の痛みは治まるどころか、太い針で力いっぱい刺されているかのような痛みとなっていて、試しに足を地面に接してみるとそれだけで痛みは増し、これでは歩くことすら難しそうだった。それまで流れていた心地よい汗とは真逆の、脂汗と冷や汗が全身から吹き出す。痛みに目がくらむ。

 助けを呼ぼうにも、スマホは家に置いてきてしまっている。走るときはできるだけ身軽になりたいといういつもの癖だったが、それが完全に裏目に出ていた。以前、茉莉にスマホを肌身離さず持てと言われたことがあるのを今さらながら思い出すが、今思い出したところで何の意味もないのだった。

 無意識に浅くなる呼吸を、意識してしっかり呼吸するようにする。見る限り助けてくれそうな人はいない。とにかく戻らなければ。幸い、右足は大丈夫なようで痛みはない。時間はかかるだろうが、右足だけで歩けば、どうにか。

 左足が地面に触れてしまわないよう注意を払いながら、近くにあった距離標に掴まって身体を起こす。ただそれだけの動作が途方もなく辛い。嫌な汗が止まらない。

 掴んだ距離標を大樹は見る。いつもスタート地点にしている距離標の表記は覚えている。どれだけ走ってしまったのか暗算する。


 五キロ――現役時代に幾度となく走ったその距離。それが今、大樹には途方もない距離に思えた。

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