2 「呼び捨てにしろよ」

「呼び捨てにしろよ」


「え…っ?」


「…呼び捨てにしろ、っつったの」


 いきなり神さんに真顔で言われて、あたしは眉間にしわを寄せる。


「か…神…」


「バカか。下の名前で呼び捨てろっつってんだ」


「そ…そんな」


「不自然だろ?結婚前提に付き合ってんのに、『神さん』なんて」


「………『千里さん』…は?」


「だめ」


 不自然じゃないと思うけどな…『千里さん』って。

 だけど、あたしの周りに結婚前提で付き合ってる人なんていないから、その普通がよく分からない。


 みんな…呼び捨て合ったりするものなのかな…

 継母さんは、お父さんを『貴司さん』って呼んでたから…あたしの中でも『千里さん』が普通な気がするんだけど…


 首を傾げて悩んでると。


「敬語もやめろよ」


 ピシャリと言われてしまった。



 金曜日。

 九時まで帰れないあたしを、神さんはこうして車に乗せて走ってる。



「趣味は」


「え。」


 曲作り。

 なーんて…言えない。


 この前…


「音楽やってる女って苦手。俺の歌とか、いちいち評価するから」


 …そう言った神さん、かなり目を細めて嫌そうな顔してた。

 きっと、音楽してる女の人と付き合って、嫌な思いをしたんだ…って思った。



「や…やっぱり、生け花…かな」


「…休みの日とか、何してんだよ」


「お茶たてたり…」


「…マジかよ」


 赤信号で止まって、神さんはハンドルに寄り掛かる。

 そしてその横顔からは『趣味合わねー』って声が聞こえてきそうだ。


 …趣味…


 神さんの趣味は…やっぱり音楽なのかな。

 あたしも堂々と言ってみたい。

 あたしの趣味は音楽で、曲を作ったり歌ったりするのが好きです。

 将来はシンガーになりたいです。

 …って。



「…神さんは?」


 勇気を振り絞って問いかけてみたものの…


「千里って呼べってば。俺もおまえのこと知花って呼ぶから」


 話しはやっぱり、そっちに戻った。


 …だけど。

 ドキドキしてしまった。

 みんな、あたしのこと呼び捨ててるけど…

 神さん、いい声してるから…なんて言うか…ほんと、ドキドキしちゃう…



「呼んでみな」


「……ち…千里?」


「よし、あとは敬語だな」


 よし、って…

 一回呼んだぐらいじゃ慣れないよ~…

 そう思いながらも、課せられた大きな宿題みたいな気がして。

 あたしは心の中で『千里、千里…』と繰り返してみた。



「…どこ行くの?」


 ふと気が付くと、車はすでに街のはずれまで来てる。


「俺のお気に入りの場所」


 そう言ってー…神さ…千里は、前髪をかきあげた。


 お気に入りの場所があるって…素敵だな。

 素直にそう思った。

 そして、その場所に連れて行ってもらえる事も、ワクワク…

 …ワクワク?


 …恋人って言っても偽物だよね。

 なのに…ワクワクするものかな。


「……」


 突然湧いた感情に黙り込む。

 だけど…

 今まで時間潰しに悩んでたあたしを、時間が足りないって思わせるほどの事をしてくれる人。

 まだ会うのは三回目だけど…

 いい人だよね…きっと。


 うん。

 友達との約束にだってワクワクする事はある。

 同じ目標を持った人だもん。

 そんな感情が湧いても不思議じゃない。



 あたしが一人で納得してると、しばらく走った車はその場所に到着した。



「…三日月湖?」


 古い看板の向こうに…とてつもなく、きれいな湖が広がってる。


「いいとこだろ」


 あたしの見開かれた目を見て、千里が嬉しそうに言った。


「すごい…こんな所、初めて…!!」


 本当に、すごくきれい!!

 今までこういった場所に来た事のないあたしは、目の前に広がる景色に、ただただ感動するばかり。


 水面に映るのは、暮れかかった空。

 流れる雲さえも、まるで鏡に映したみたいで…

 そこが湖だって忘れてしまいそうなほど。

 …本当に、きれい。



 あたしが湖に見とれてると。


「知花」


「え?」


 え…って思った時には、もう千里の腕の中だった。


「!!…だっ…あ…あの…っ」


 どうしていいかわからなくて、ドキドキしたまま困ってると。


「恋人同士って、こんなんだぜ?もっと普通にしてくれよな」


 って…千里が耳元でささやいた。


 恋人同士…


「…そ…そそんな…急に言われても…」


 きれいな湖を前に、こんな場面…まるで映画みたい…って思いながらも。

 あたし、なんとも想ってない人と、こんなことしちゃってる。って、少しだけ自分を軽蔑したりして…



 …でも。

 千里って、何だか安心できる。

 それもこれも、あのマンションに住みたいっていう同じ目的があるせいなのかな…



「寒くないか……?」


「あっ…」


 ふいに、千里があたしの髪の毛を触った。

 知らん顔をすればいいものを…ウィッグを撫でられる事なんてなかったあたしは、慌てて千里から離れる。


「…おまえ、髪の毛かたいな」


「わ…悪かったわね」


 千里が胡散臭そうな顔で、あたしを見る。

 今まで、誰にもバレたことのないウィッグ。

 何だか、今のは不自然すぎて…おかしく思ったかも。


「…なーんか、隠してるな?」


「なっ何も!?」


 思わずムキになってしまって、千里がじりじりと迫り寄って来る。


「な…何よ…っ」


「髪の毛が薄いとか、そういうのでかつらか?」


「な…ななっ…何言ってんの?」


 ムキになってるせいか、いつの間にか敬語じゃなくなってる。

 だけど今はそんな事より…どうかいくぐれば!?

 これがバレたら、結婚なし!!って言われたり…



「秘密を持つな」


 ごちゃごちゃ考えてる所に千里が真顔で言って、あたしは後退していた足を止める。


 秘密を持つな…?


 …あたし…秘密だらけだ。

 もしかしたら…もう、ダメかもしれない…



「…あたし…」


「何」


「……」


 覚悟を決めて…ウィッグを取る。

 中から零れ落ちる赤毛を見て…


「……え?」


 千里は、驚いた顔をした。


 今までクールな顔しか見てないから…少しだけ、得した気分…なんて言ってる場合じゃないよね…


「な…なんだ?」


「…これが…地毛なの…」


「どうして、隠すんだ?」


「…昔から、こうしろって躾けられてるの…」


 千里は近寄ってあたしの髪の毛に触れると。


「いい色じゃねーか。俺の前では、これでいろよ」


 って…


「…え?」


 見上げると、千里は…あたしの髪の毛を手にしたまま、優しい目。


 もうダメかも。って思ってたあたしは、その思いがけない言葉に…少し震えた。



「…このままで…?」


「ああ」


 返事と共に、再び引き寄せられた。

 本当は拒みたい…気もするけど…

 あたしは初めて誰かに認められた気がして…少しだけー…目を閉じてしまった…。

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