05 「恋敵」
幸いにして、広い風呂場にはほかに誰もいなかった。
と言うよりは、客人のために空けてあるのだろう。何しろ、シーヴとエイラが一緒に使うと思われていたくらいなのだから。
ともあれ、湯船に浸かって緊張と身体をほぐすことができたエイラは、ゆったりした気持ちになった。
翡翠が呼んでいる。
間違いなく、このカーディル城のなかにある。
だが、それは目には見えないだろう。
翡翠を呼び起こすのには、アーレイドのときと同様に〈守護者〉の助けが要るが、その前に翡翠を見つけなくてはならない。そして見えぬ世界の見えぬ翡翠への道を開くことができるのは、リ・ガンではなく〈守護者〉なのだ。現実の翡翠を見つけたあと、ゼレットにその幻の道を見つけてもらわなくてはならない。
(リ・ガンの話を抜きで、説明するのは無理だよな)
当たり前である。エイラも本気でそうしようとか、そうしたいとか思った訳ではない。
(どう、持っていったらいいかな……)
悩みかけて首を振った。
考えてみたところで、無駄なのだ。〈目隠し〉状態でいくら考えてみても無駄だ、と言うことである。それが外されれば、彼女が知るはずもなかった言葉と答えがするりと出てくる。これまでと同じ。
(よし)
心を決めると風呂を出る。
(ゼレット様に会おう。一対一で。そうすれば、きっと何か判るさ)
その考えは、どちらかというと苦労性の気があるエイラにしては楽天的のようだったが、考え倒したあげくの結論である。どうせ、そうするしかないのだ。翡翠を求めるときには〈鍵〉の力は必要ないし、シーヴとゼレットの間に立てばまた自分は混乱するに決まっている。
用意された夜着はエイラにとってはあまりにも女性らしいものであり、身につけるのが少々躊躇われた。と言っても着てきた服は洗濯のために持っていかれてしまっているし、部屋に戻ればともかく、ここにはほかに着るものはない。エイラは仕方なく、着たことのない型のそれを四苦八苦して着用した。そうして多少時間がかかっても、寒さに強い南国の城はしっかりと暖気が保たれており、湯冷めするようなことはなかった。
(ゼレット様は、朝の内は仕事が忙しいから……昼過ぎ、だな)
そんなことを考えながら、やはり暖かい廊下に出たエイラは――どきりとした。
ゼレットが、近い。
全くもって〈守護者〉というやつは、彼女の意表ばかりつく。クラーナの言を借りれば、翡翠の女神の意地が悪い、と言うことになろうか。
(どうする)
(……逃げるか)
一
(ええい、なるようになれ!)
エイラは覚悟を決め、カーディルの翡翠を守る男が歩いてくる方へと、自ら向かっていった。
「おっと。これは、
彼女に気づいたゼレットは一歩を引くと、すっと女性に対する礼をする。
「あの、おやめください、閣下」
エイラは言った。女性扱いはいまだに嫌であるし、やはり伯爵閣下にそのような礼儀を尽くされては困惑する。
「
「ええ、その、部屋で休んでます」
「ふむ」
ゼレットはエイラをじろじろと見た。その視線に含むものはなかったが、エイラとしては赤くなりそうになる。
「寸法はよさそうですな」
「ああ、ええと、お借り、してます」
上衣と下衣がひと続きになった女性用のその夜着は、どうにも足元が涼しかった。この姿であるときも、彼女が明らかに女物とされる服を着用したのは、シーヴにドレスを着せられたときといまだけだ。着慣れない。
「そのような美しい姿のご婦人がひとりで歩かれてはいかん。部屋までお送りしよう」
さっと差し出されたゼレットの腕を有難うございますと取ることは、彼女にはできない。
「いやっ、そのっ、城内におかしな真似をするものもいませんでしょう。ひとりで戻れますから」
「ふむ。我が臣下をご信頼いただけて光栄の至りですな。おそらく、いちばん不埒なのはこのわたくしと言うことになりましょうが」
魅力的な笑みをたたえられて手を差し出されれば、いまの台詞の意味がどうあれ、たいていの女ならば喜んでであろうがおそるおそるであろうが、その手を取るだろう。だがエイラにはできない。
「いいですって、閣下、本当に」
「臣下はご信頼いただけても、その主は信用ならないと。城内の誰に尋ねてもその通りだと言うでしょうな。大した眼力をお持ちだ」
ゼレットは諦めるようにその手をぱっと上にあげ、今度は従僕が客人を案内するように掌を上に向けて通路の向こうを指し示すように動かす。
「では、こちらへどうぞ」
手は取らないにしても、「送る」のはやめない気だ。エイラは嘆息するとその手の動きに従った。
「風呂にいらっしゃったのでは、ないのですか」
カーディル城にはふたつの浴室がある。男女で分けることもあるし、先程のように片方を客人用とすることもあった。伯爵は専用の浴室を持っていたが、毎日決まった時間に使う訳ではないのだから、指示して焚かせるのも冷めた湯を焚き直させるのも面倒だ、と言ってゼレットは滅多にそれを使わなかった。
「風呂はいつでも入れるが、貴女を送れるのはいまだけだ」
ましてや、と続いた。
「湯上がりの貴女を見られる機会など、もう二度とないのかもしれぬのだからな」
エイラは頭を抱えそうになった。「エイル」として口説かれるのもご免だが、この展開だって嬉しくはない。
不意に物音がして、ゼレットとともにエイラはその方向を見た。見ると、廊下の脇に置かれていた背の高い棚のいちばん上で、白いものが動いている。
「カティーラ。そんなところにいたのか」
「……閣下の
もちろんエイラは知っているが、そんなふうに問うた。ゼレットはうなずく。
「いささか、女性嫌いのところがありましてな、もし貴女が猫のような動物をお好きでも、手は出されない方がよい」
「そうします」
エイラは素直にうなずいた。「恋敵」として噛みつかれるなど、まっぴらである。
「ニャ」
天井近くで伸びなどしていた白猫はもう一度鳴くと、思い切った様子で一気に床へと飛び降りた。尻尾をぶんぶんと振っているのは、少し怖かったのだろう。
「寄ってくるとは珍しいな。腹でも減ってるのか」
「ニャ」
カティーラは
「これは、何とも珍しい」
エイラは天を仰ぎかけた。カティーラは動物特有の本能だか何だか知らないが、エイラの正体を見抜いているのだ!
(やっぱり、猫が話さなくてよかった)
以前「塔が話すのに猫が話さないなんて」などと考えたことを思い出し、エイラはそっと息を吐いた。そんな彼女の思いを知ってか知らずか、白猫はそのまま、廊下の向こうへと悠然と歩いていってしまう。
「……エイラ嬢、お尋ねしてもよろしいか」
「何ですか」
猫を手懐ける方法でも訊かれるのだろうか、などと思ってエイラは伯爵に顔を向けた。
「もしや貴女には、兄君か弟御がいらっしゃらないか」
「いえ」
予想外の問いかけに何も考えず即答してから、はっとなった。もちろん、ゼレットは「エイル」のことを言っているのに違いない。
「左様か。貴女によく似た印象の少年を知っておるのだが……」
案の定、である。エイラは焦った。いっそ、弟がいると答えた方が――よかっただろうか?
「ぐ、偶然でしょう」
「ふむ」
ゼレットは足を止めた。つられて、とまる。
「彼の名はエイルと言ったが、やはり偶然かな、エイラ嬢」
リティ、或いはリティアエラと名乗り直しておけばよかった、などと考えてももう手遅れだ。
「それほど珍しい名前では、ないと思いますけど」
「さもあろう」
どうにかエイラがそんなことを言うと、ゼレットはうなずいた。
「興味を持たれるのではないかと思ったのだが、そう即座に否定されるとは」
エイラは内心で自分を呪った。失態だ。どんな少年ですか、くらい訊くのが自然な会話というものだろう。
「こ、心当たりがないものですから」
「ふむ」
ゼレットはエイラをのぞき込むようにした。
「そうして戸惑われると、ますますよく似ている」
「あの、参りましょう、閣下」
エイラはその視線から逃れようと歩を進ませた。
「ゼレットと呼んではくれまいか……エイラ」
よくない傾向だ――とエイラはまたも心で頭を抱えた。
「できませんよ、そんな、伯爵様に」
ゼレットが動かないので、また仕方なく足を止めた。
「彼もそのようなことを言ったな」
繰り返し内心で自分を罵倒する。まさかゼレットが疑っているとも思えないが、関係がないと思わせたいのならば同じ反応をしてどうする!
「だ、誰だってそう言います」
「そうでもない」
「――それはつまり、たくさんの方にそう仰っている、と言うことですね閣下」
「これは、したり」
ゼレットはにやりと笑った。
「何とも鋭い眼力だ」
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