03 何か裏が
エイラは必死、だった。
心の準備も何もできていない。
クア=ニルド――或いはクラーナを何度呪ったか判らないが、そうしたところで何の解決にもならないことは百も承知だ。
カーディルはそう大きな町ではないから、東門から伯爵の館までは数カイもかからないくらいだ。だがエイラには、それが一刻であるかのように感じられた。
その間、ゼレットとのやり取りは全てシーヴに任せ、どうやらシーヴが伯爵閣下のお眼鏡にかなったことを知るが、それを面白く思う余裕などない。シーヴが時折こちらをのぞき込むこともやめさせたかったくらいであり――そうすれば、必然的にゼレットもエイラを見る――しかしエイラは、大丈夫だから気にするな、と言うくらいしかできなかった。
「驚いたね、伯爵様とは」
案内されたカーディル城の客室で――そこは数月前に「エイル」少年が過ごした部屋に相違なかった――エイラを椅子に座らせると、王子殿下はそんなふうに言って口笛を吹いた。
王城の客間と違って備え付けの飲み物棚などはなかったが、小さな卓の上に湯の入った保温容器と茶葉が置かれている。例によって東国の青年はエイラに茶が要るか尋ね、彼女がうなずくのを見るとそれを淹れた。
「もう平気か?」
「……最初から、平気なんだ」
エイラは渋々と言った様子で答えた。シーヴが不思議そうな顔をする。
問題はいろいろだがまずはひとつ、である。
シーヴにどう、説明をすればいいのだろう?
「あの、な。このカーディルが目指す場所であることは言ったよな」
「ああ。だからこの近くに『投げられた』んだろう?」
苦々しい顔をしてシーヴは言った。
「あのクソガキめ」
「旅程が短縮できたんだからいいじゃないか」
「それはそうだがな」
誰かの思うままにされているようで気に入らない、と言う。シーヴらしいと思ってエイラは笑った。
「それで更に言うと、カーディルのなかでも目指す場所はこの城だったんだ」
「また宝物庫にあると言うのか?」
シーヴは面白そうに言った。
「この城にそんなものがあるとも思えないけど」
ゼレットの位は伯爵だが、その割には小さな領土と館だ。或いは、小さな領土の割に伯爵位を得ていると言うべきなのか。
もっとも、爵位と領土をもらったのは彼ではなく彼の先祖だ。どういう事情があったにせよエイラは知らぬことだし、ゼレットもどうでもいいと考えているに違いない。だいたい、広い町とそれがもたらす税という名の富などゼレットの性に合わないかもしれない。
「ここのはちょっとややこしくて……隠されているんだ」
「どういう意味だ」
「失われたって言ってたけど、そうじゃない。ここに在る。ただ、見えないだけで」
巧く言えないけど、とエイラが言葉を濁すと、シーヴは陶の杯を彼女に渡しながら尋ねた。
「『言ってた』。誰が」
「そりゃ」
ゼレット様が、と言いかけてとまる。
(ああ、だからややこしいって言ってるんだ!)
ゼレット・カーディルを知っていると告げるのは簡単である。数月前に、塔で出会ったシーヴから「逃げて」彼に拾われ、そのあとで〈鍵〉の危難を知ってバイアーサラへ跳んだ、などと説明をするのは。いくら突飛な出来事に聞こえてもそれは事実だし、シーヴ自身も砂漠へだの雪原へだの「投げられた」経験を持っているのだから疑いはすまい。
だが、ゼレットが知っているのは「エイル」なのである。
「そりゃ」
エイラは繰り返す。
「その」
「ゼレット様が、とか言うなよ」
青年の皮肉にエイラは杯を取り落としかけた。陶器の中身が動揺した音を立てる。
「……おい」
シーヴは目を細めた。
「まさかお前は、ここの城でも働いていて、やっぱり帰還を知られたくないから魔術師リティで通してくれ、なんて言い出すんじゃないだろうな」
「……
「呆れるね」
半ば冗談だったのに、とシーヴは深く息を吐いた。
「ご、ごめん」
「謝らんでもいいが」
青年は口の端を歪めた。
「いったいお前はどんな波瀾万丈の人生を送ってきたのかと思うよ」
「……この半年だけだよ」
今度はエイラが息を吐いた。
「でも今更リティもないな。あんたは私をエイラだと閣下に紹介したんだから」
「あのとき顔も上げなかったのは、そのせいか」
シーヴはうなった。
「心配したんだぞ」
「ごめん」
「……その謝罪は受ける」
シーヴはむっつりと言った。
「だが、どういうことだ。エイラの名を告げても、特に何の反応もなかったじゃないか」
「その……前にも、言っただろう。見た目が、違うんだ。それにその……実は名前も」
エイラがどうにか答えると、シーヴは「名前も」と繰り返し、やはり判らないと言いたげな顔で彼女をじっと見た。
「まあ、いい。突き詰めないでおこう。それでどうするんだ。目的地なのはいいが、『エイラ』のままで行動できるのか」
「するしか、ないな」
エイラは嘆息した。
「いちばん問題なのはゼレット様だけど」
エイラが言うと、シーヴの唇がまた皮肉げに歪んだ。伯爵を名前で呼ぶのは、護衛騎士にそうするよりももっと親しげに聞こえるだろう、ということは判った。
「いいだろう、私が誰をどう呼ぼうと」
「いいさ、もちろん」
「閣下って言うとあの人は怒るんだ、仕方ないじゃないか」
エイラはそう続けたが、何だか言い訳をしているような気分になって、やめた。何故、シーヴにそんな言い訳をしなければならないと言うのか。
「まあ、別人だと思わせたいんだから、閣下って呼ぶけどさ」
それはつまり、別人にならば閣下と呼ばれてもゼレットが怒らないということで、ほかでもない「エイラ」が伯爵に気に入られていたという意味ではないか、とシーヴは思うが、何も言わずに済ませた。
「どうにか、何とか、なると思う。さっきのは突然だったから驚いたけど」
「俺も驚いてるよ」
シーヴは言った。
「見ず知らずの旅人を伯爵閣下がいきなり城に招くかね?……何か裏が、とは言わんが」
青年は腕を組んだ。
「『裏』より『下』があるかもしれん。……気づかれようとそうでなかろうと、気をつけろよ」
シーヴの言いようにエイラは苦笑した。まさしくゼレットはそういう男であるが、この場合、気に入られたのはシーヴである、と説明してやるべきだろうか。
(やめた)
内心で可笑しく思う。
(たまには、あんたの困る顔が見たいよ)
少しして、調子がよければ夕食はどうか、とゼレットの伝言を使用人が伝えてきたときには、エイラの心は決まっていた。
何のためにここにきたのか? 翡翠のためだ。その呼び声に応じてやってきたのだ。
ゼレットに気づかれたくない、などという理由で部屋に閉じこもっていても仕方がない。彼女は――彼らは夕餉の招待を受けた。
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