02 健全な青少年のくせに

「じゃあ、ゼレット様セラス・ゼレットでどうですか」

「どこでそんなにたたき込まれたんだお前は。王陛下の居城ならともかく、俺の館に存在するのは雇い主と雇われ人程度の関係であって、俺にぞんざいな口を利いたと首をはねられることはないんだぞ」

 そう言われても、二十近く年上の、しかも命の恩人に対等な口を利く気持ちにはなれない。平民同士であっても「さんセル」くらいはつけるだろう。

「ときに、エイル。カティーラを見なかったか?」

「カティーラ、ですか?」

 エイルは首をかしげた。伯爵お気に入りの侍女か誰かだろうか。

「どんな娘です?」

 少年が尋ねると、伯爵は面白そうに片眉をあげた。

「彼女はな、気ままで気位が高い。しかし甘えどころは上手に判っていて、仕事中の俺にぴったりくっついていることもしばしばだ。ほかの女は大嫌いだから、下手に可愛がろうと手を出せば、ものすごい目をして思い切り、噛み付く」

「噛み……」

 エイルはぽかんとし、次に得心がいった。

「ああ……そういう名前なんですか」

 時折、伯爵の足元にまとわりついている白猫を思い出した。

「カティーラ、って聞いたことありますぜ」

 エイルは記憶を呼び覚ますように手を頭に当てた。

「確か、星の伝説だったかな。五色ごしきの姫」

「そうだ、なかなか博識だな」

 感心したようにゼレットは言った。

「いや、どっかの吟遊詩人フィエテの歌で聞いただけですよ」

 それが心に残っていたのは、その五色のうちの一色が翡翠色と表現されていたから、というだけだ。

「七色と言う伝説もある。そうなると、虹の女神レアキル・ルーと混同した伝承も生まれるようでな。詳しくは忘れてしまったが、興味があるなら吟遊詩人フィエテを呼ぼう」

「いやっ、別に俺、興味なんて」

 エイルは慌てて手を振った。実際、その歌に興味などないのだが、彼は驚いたのだ。またも困った、と言ってもいい。

 伯爵が何と言おうとエイルは使用人として分をわきまえているつもりだった。しかも、きちんと雇われた訳でもないのだから、言うなれば押し掛け使用人。そんな相手のために吟遊詩人を呼びつける伯爵様など、聞いたことがない。

「よいではないか。今日は雪が酷いし、しばらくおさまらんだろうが……小やみになったら、よし、そうだな。吟遊詩人と、女も呼ぶとしよう。客人よ、どんな女をお望みか?」

「俺はっそんな」

「そう照れることもあるまい、可愛い坊やだな。サリタール娼館の娘はみな、別嬪だぞ。少し気位が高いところがあるが、それを陥とすのも男の腕だ。コツを教えてやろう」

 ゼレットが、どちらかというと女性を好む――有り体に言えば女好き、と言うよりももっと簡単に言ってだというのは別に隠しごとでもなかったので、ここにきて数日と経たぬうちにエイルにも判ったことだった。

 毎晩のように違う女が呼ばれ、下は十七から上は四十六まで、使用人に商売女は言うに及ばず、食料を納品に来る町の娘やら芸を見せに訪れた踊り娘やら、果てはたまたま商いにやってきた商人トラオンの一家の娘であることもあった。この屋敷内に、伯爵の「お手つき」でない女はいないのではないかと思うほどである。

 と言っても彼は地位をかさに着た無理強いなどはせず、その伊達男ぶりで女に声をかけるだけのようだったが。

「あの、俺は、遠慮しますから」

 エイルが逃げるように一歩後じさってそう言うと、ゼレットは笑った。

「何だ何だ。若いのに隠棲したようなことを言うんじゃない。できん訳ではないのだろう?」

「どっ、どこに触ろうってんですかっ」

 笑いながら伸ばされた手を焦りながら避け、エイルはゼレットを睨みつける。下品な界隈の酒場ならばともかく、伯爵様の居城で閣下自身にそんなことをされるとは――姫君のお話し相手に任命されるのと同じくらい――想定外だ。エイルの慌てようを見ながらゼレットは大笑いした。

「やはり照れとるのだな、少年! 恥じらい、大いにけっこう。安心するがいい、お前の評判が傷つかないよう、きれいどころをこっそりと部屋に送ってやるからな」

「……どこまで本気なんですか、ゼレット様」

「私はいつでも本気だとも、少年よ」

「それなら申し上げますけど、本当に! お断りしますからね」

「何故だ」

 予想以上に強いエイルの語気に、ゼレットは全く判らないと言うように肩をすくめた。

「健康な若者が溜めこむようでは、身体にも悪い」

「あのですね。そう言うときは自分でどうにかします」

 きっぱりというエイルに、伯爵は目を細め、じろじろと少年を観察するようにした。

「ほう、自分で」

「……あっ、いやっそういう意味じゃありませんよっ」

 ますます慌てて、伯爵の誤解を打ち消す。

「だから、自分で街に行くとか、女の子に声かけるとか、しますよって意味でっ」

「判った判った」

 自分の提案が拒否されたことに不満を抱く前に、エイルの動揺が楽しくて仕方がないらしい。ゼレットはうんうんとうなずいた。

「お前、春女を買ったことはないのか」

「一度だけなら、ありますけど。別に大したことなかったです」

 子供扱いされたくなくてそんなふうに言った。実際、あまりいい思い出ではないのだが。

「ふん。運悪く外れを掴んだんだろうな。任せろ、とびきりの女を用意してやるからな。お前にはちょっと年が行ってるが、一度あの女を知れば世界が変わるぞ。一概に、若い娘の肌の方がいいとは言えなくな」

「だからっ、ゼレット様っ」

 放っておけばこの話題が延々と終わらなさそうな気がして、エイルは伯爵の弁舌を遮った。シュアラ相手なら「無礼」に当たるところだが、ゼレットなら怒ることはない。

「あのですね……俺には、その、帰りたいところがあって」

 どう言い訳したものか迷いながらエイルが言うと、伯爵は数トーアきょとんとし、それからにやりと笑った。

「決まった娘がいる、と?」

「いや、そういうんじゃないですけど……」

「約束でもしたか」

 脳裏に浮かんだのは、アーレイド城の気儘な姫の顔であった。彼は首を振る。シュアラとはそうした関係ではなかった。

 もしかしたら、あと半年あのままアーレイドで過ごしていたら、目覚めかけていた彼の庇護欲は恋愛感情に発展したかもしれない。だがそうなれば、それはつらい恋だ。相手は王女様なのだから。

「約束は……」

 約束ならば、した相手はシュアラではない。帰ると約束をした相手は、母のほかには――。

(ここに、戻ってくるな?)

(――必ず)

「してません。その、女の子とは、何も」

「ふむ」

 ゼレットはじっとエイルを見た。エイルは奇妙な既視感を覚える。

 姿も、身分も、言動も、どこにも似たところなどない。なのに何故かゼレットは、エイルにファドックを思い出させた。

「そうか、では」

 言うと伯爵は少年にすっと近寄り、少し身をかがめた。顔をのぞき込まれた形になるエイルが何事かとばかりに心持ち顔を上げると、それはちょうどいい形になった。そのまま、伯爵の口ひげの感触が唇に当たっても、たっぷり三トーアは何事が起きたのか判らなかった。

「――だっ、がっ、なっ、ななな何すんですか、はっ、はくっ、伯爵っ!?」

 口づけをされたのだとようやく理解が至った瞬間には少年は文字通り飛び上がり、幸いにもそれが本格的になる前に、そのまま廊下の壁まで逃げるように――と言うより、実際、逃げて――後退する。

「ふむ」

 だがゼレットは平然としたままだ。

「女の子と約束しなかったなら、男としたと言うことだろう。健全な青少年のくせに女を避けようとするのも、これなら納得がいくと思ったんだが」

「おおお俺はクジナじゃないです!」

「ふむ。外したか」

 それは残念だ、などと言ってゼレットはにんまりと笑った。

「新しい境地に挑戦してみたくなったらいつでも言うといい。お前みたいな可愛い子なら歓迎だ」

 ゼレット・カーディルの、あまり知りたくもなかった側面を知らされたエイル少年はそのまま壁に張り付きながら、楽しそうに廊下を歩み去る男の背中を呆然としたままで見送った。

 いったい何故、こんなに違う男に北西の護衛騎士を思い出すのか――その理由に少年が気づくのは、この素敵な思い出が夢に蘇ったその日の夜のことだった。

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