第2章
01 カーディル領
昨夜は、ずいぶん長い夢を見た。
「できたのか、エイル」
「おうよ、とっくだぜ」
「見せてみろ」
「よーく、見てくれよ。あとで文句を付けるのはなしだかんな」
少年は両手を腰に当ててじっと料理長を見た。
「……成程。言うだけのことはあるな。いったい、どんなことを言って閣下を丸め込んだのかと思ったが謝罪しよう。この仕込みに文句はない」
「だろ?」
少年は満足そうに笑った。
この厨房は、彼が以前働いていた場所に比べるとずっと狭い。つまり、用意する皿の数もぐっと少ないということになる。これならば、全員分を仕込んでおけと言われても自信があった。
「判った、それじゃここで働いてもらうことにしよう」
四十過ぎほどの料理長は少年にひとつうなずくと、手招きをした。さっそく仕事が与えられるのだろう。
長い夢だった。
アーレイドを出てから、〈塔〉を去るまでの。
リャカラーダという男。シーヴと名乗った。〈
ただ、ひたすらに、怖ろしかった。
あんな絶大な恐怖を感じたことは初めてだった。
自分が何をしたのか判らない。判ったのは、これまでしてきたように――あとに残す者にろくな説明もできぬままで逃げ出したのだ、と言うことだけ。
目覚めたのは見知らぬ天井の下だった。
屋敷の主は何も聞かずにエイルの滞在を許してくれた。彼はそのまま客人となることもできたが、働かずに飯を食うなど罰当たり、それどころか有り得ないことだと思っている彼は、頼み込んでここで働かせてもらうことにしたのだ。
次に動きたいと――動けると思うときまで。
あのときは本当に、驚いた。
すっかり彼女の住処となった塔へ戻って、まさかほかの人間の姿を見るなど。
もしかしたら、伝説の塔を求める冒険家がやってくることがあるかもしれない、などと考えてみたことはあったが、まさか見覚えのある男が塔を訪ねてくるなど、夢にも思わなかった。
一
東国の第三王子を名乗った男が、どうしてこの塔の前にいる?
ほんの一カイかそこら目にしただけのリャカラーダをはっきり覚えている自分を奇妙には思わなかった。
ただ、驚いたのだ。
そして言葉を交わし、知った。そう思った。彼はほかでもない、リ・ガンを探しにやってきたのだと。
それは、そのことについては、間違いではなかった。
判断を間違ったのはリ・ガンの方だ。彼が〈鍵〉であること、〈鍵〉がリ・ガンを求めることには何の問題もないことは、リ・ガンに伝わらなかったのだ。
それは、歯車が狂っているから。
(ではお前が)
(俺の――
リャカラーダ、いや、シーヴと言ったか。彼の、あの言葉。そのあとに何と続いた? 翡翠へ導くもの? 翡翠の力を手にするための、触媒?
リ・ガンをただの触媒、モノとしか見ない存在に支配されれば、その後は一生を魔術の陣に閉じ込められ、ただ生かされ続けることになるだろう、とリックは言った。そうするであろう者から隠れ、逃げよと。
あの王子がどういうつもりであるのかは、エイラは知らなかった。だが、知ったときにはもう遅いのかもしれないのだ。
そして男に捕まりそうになったとき、頭が割れそうなほどの大きな音で響いたあの呼び声は、エイラに逃げ道を提供した。少なくともエイラはそう判断していた。
(ココダ)
(我ハココダ)
ではあの声がリ・ガンの行く先を左右するという〈鍵〉なのかもしれないと、少年は寒い南の城で思っていた。
鍵を探し、宮殿へ行く。
下町の少年でしかなかった一年前の彼が聞けば、下らないと言うことすらせず、鼻で笑うであろうその「使命」。それがいまや、彼のものだった。
しかし彼はいまだにその片鱗さえ果たしていないではないか。彼がやってきたのは、恩ある相手を疑問のうちに残したままで、ただ捕まるまいと逃げてきたことばかり。
こうして、逃げついた先がこのこのカーディル領だった。
逃げた。
ほかでもない、彼が探すべき〈鍵〉から。
歯車は狂い続けている。
リ・ガンがまだ目覚めていない。
このリ・ガンは、目覚めることを怖れているから。
「――エイル」
「伯爵閣下」
廊下でかけられた声に反射的に礼をした。その人物が寄ってくることは、彼が廊下の向こうから姿を見せたときには判っていた。
「要らん、要らん。ずいぶん礼儀正しいようだがな、我が客人。俺の城ではそんなものは不要だ」
伯爵と言われた四十前後の男は面倒くさそうに手を振ってそんなことを言った。
波立った茶色の髪を後ろでひとつに束ねる繊細な細工の結い紐、整えられた口ひげは、見るからに彼が位を持つ人物であることを語る。上等の編み上げ靴や質のよいマントも然り、だ。
エイルがこれまで過ごしてきた地に比べるとこの南の地は極寒と言えた。建物は隙間風など入らぬように造られていて、室内に限って言うなら北の地より暖かい部屋もあるくらいだったが、一歩外に出ればアーレイド育ちなど一
もっとも、ここでは使用人たちにもしっかりした防寒着が与えられており、エイルにも一着が与えられていた。この親切は南の風習と言うよりはこのゼレット・カーディルの気質だったが、エイルはまだそのようなことは知らなかった。
「本当だぞ、エイル。お前は俺の客だと言っているのに、厨房へ仕事をもらいに行ったそうだな?」
焦げ茶の瞳が悪戯っぽく光ると、若々しく見える。エイルは肩をすくめた。
「だって、何もしないで世話になる訳にはいきませんから」
「その心根は立派だが」
ゼレットは唸る。
「俺はつまらん。こうして雪の季節になれば旅人など訪れてこない。お前は、天から我が白き館へと降ってきた格好の退屈しのぎだと言うのに」
この年最初の雪嵐の日、
降ってきた――或いは落ちていた、倒れていたと言うが、自分ではろくに覚えていなかった。
〈塔〉がどこかに投げてくれたのだろうかとも思ったが、この距離は〈塔〉の能力を超えている。その証に、いまでは〈塔〉の声も聞こえない。ならばこれは「エイラ」の力だろうか。こんなに遠くまで跳べるほどの秘力が自身にあるとは信じ難かった。ならば? あの呼び声もまた力を貸したのか?
となれば、ここは「それ」に程近い、ということになるのだろうか。
〈翡翠の宮殿〉。それとも〈鍵〉。
判らない。「エイラ」であればもう少し見えるものがあるだろう。だが彼はそれを避けた。もちろん、エイルの姿で拾われたせいもあったが、「エイラ」でいれば彼女に見えるものがある分、何者かも彼女を見やすいかもしれないではないか。
ともあれ、こんな奇妙な出来事があれば、エイルは矢継ぎ早に質問、それとも尋問を受けてたところでおかしくない。それどころか、そうあるべきだ。しかしゼレットは何も訊かず、いたいだけ彼の屋敷にいてかまわないと言ったのだ。
エイルは感謝を覚え、その言葉に甘えていた。事情を説明しろなどと言われてもろくにできないし――言いたいことでもなければ、彼自身、判らないこともあった――何よりも少年は、この伯爵に親しみを感じていたのだ。
「仕事はいいんですか、伯爵」
「ゼレットと呼んでくれと言ってるだろう」
「……
「固いな、子供のくせに。可愛くないぞ」
礼儀を失すれば不機嫌になるシュアラ王女殿下には閉口したが、そのおかげで学ばされた礼儀作法がすっかり身に付いた少年は、最低限の敬称すら嫌がる伯爵閣下にも困った。
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