08 心地よい隠れ家

 そこは、何とも心地よい隠れ家だった。

 一歩出れば、冬などという言葉を知らぬ太陽神の刺すような陽射しか、遮るもののない地をあっと言うまに冷やしてしまう夜の女神の冷気か、どちらかに間違いなくさらされる。だと言うのに、塔の中は何とも穏やかで過ごしやすい。

 そして――誰もいない。

 誰もいないのに、話す相手はいる。

 エイラは、アーレイドを出て初めて、完全にくつろげる時間を持つことができたのかもしれなかった。

 〈塔〉は、他者を傷つける力こそ持たぬが、少しの距離ならば目指す対象を引き寄せたり放り投げたりすることができるらしい。〈魔術師〉が自らの力を使わずとも、砂漠の西部へ行けるようにするためだと〈塔〉は言っていた。

 そんなふうに話をすれば「魔術師がふたつの心を持つ」という話は間違いだったのだと気づく。塔には〈塔〉と魔術師というふたつの存在があったのだ。

 彼は〈塔〉にそんな話もした。全てを話した。少し不思議に思いつつも、間違ったことをしたとは思わなかった。〈塔〉ならば誰にも彼の絶対の秘密をばらすことはないと思ったのだが、何故そんなふうに思えるのかは判らなかった。

 〈塔〉は、自らは下僕ではないがお前は主だというような言い方をしただけで、服従の誓いなどはしていない。主がいないと寂しいのだなどとも言ってエイル――そのときはエイラだったろうか?――を反応に困らせはしたが。

 いつの間にか、彼にはひとつの形ができていた。

 即ち、塔にいる間は、エイラは魔術の勉強――魔術師の残した書もあれば、〈塔〉もまあまあの師匠だった――に励み、できた魔術薬をエイルが街に行って売ってくる、という流れだ。

 それは意外にも安定、かつ安心できる方法のように思えた。何故なら彼はエイラの姿がリ・ガンの化身であるかのように感じていたからである。実際には、リ・ガンとは彼、または彼女、それとも、「それ」の全てを含んだものを表すと言うのに、エイルはそうと気づかず、またはそんな事実に目をつぶろうとしたのだった。

「エイル」

 〈塔〉の呼びかけに、「少年」は振り返る。その声は塔のどこから聞こえてくるとも判らないのに、うしろから呼びかけられた気持ちになるというのは不思議なものだった。

「何だよ」

「今日は、どこへ行く?」

「そうだなあ」

 エイルは首をひねった。

 〈塔〉は、大河の東岸――ここが大砂漠ロン・ディバルンのただ中、つまり大河の東であることは認めざるを得なかった――までならば人間を送る力を持っていると言い、魔力を乗せてもらえれば大河の西にも送れるというようなことを言った。

 初めは胡乱な顔でそれを聞いたが、砂漠を歩けば確実に死ぬ。ずっとここにこもっていても、食べるものがなくて――水だけは、前の主が残していった魔法の水鉢がこんこんと新鮮な湧き水をどこからか引き寄せていた――死ぬ。ならば遅かれ早かれ塔の力を借りるしかないのだし、大河のこちら側に放り出されてもどうしようもない。

 一か八かの賭けをしたのは塔へやってきて数日と経たぬうちで、それを成功させて以来、三日に一度は大河付近の町を訪れていた。

 まずはミエットに通ってクラーナの足跡を求めたが、当然と言えば当然、そんな吟遊詩人を見かけたという相手にも行き当たることはできず、彼はその人探しをけっこう簡単に諦めた。

 いまでは、塔の話をした吟遊詩人はクラーナだっただろうという不思議な確信があった。だがそうであるならば、その話は彼女を東に導くという役目を果たした。だから、クラーナはもうミエットにいないだろう、という奇妙な確信もまた、あったのだ。

 好奇心に動かされて次に訪れたのはヨアだ。大河沿いの町はよく似ているが、北と南では手に入る薬草や、飯も異なった。彼は幾つか気に入りの食事処や屋台を見つけつつ、薬草師の真似事をしながら、街の時間を過ごした。

「ヨアにしよう」

「シャムレイ辺りには、行かぬのか」

「ん?……ああ」

 〈塔〉に問われてエイルは考えるようにした。

 シャムレイという街を訪れる気持ちにはならなかった。

 本当のことを言えば、そこはとても気になる街であった。

 だからこそ――訪れるのを怖れた。

 彼を呼んでいるような気さえしたのに、彼はそれを啓示と取らず、警戒していたのだ。

 アーレイドを訪れたあの男がその街の王子であると名乗ったことをエイルは覚えていたが、だからこそ判らなかった。

 訪れるべきなのか避けるべきなのか。はっきりと判るまでは行くまいと思っていた。

 歯車は狂っている。

「帰還は」

「そうだなあ、朝市で薬を売っちまおう」

 ヒースリーに習った薬草は残念なことに東の地ではほとんど見られなかった。しかしエイラは塔の前の主である魔術師が残した書物に薬草事典を見つけ、中心部クェンナルの薬草師の言葉を思い出しながら粉や塗り薬にする技術を学んでいた。

 魔術師協会リート・ディルにはあまり行きたくなかったが、そんなことで罰せられるのも馬鹿らしいので魔術薬の販売許可証だけは取っておいた。薬草を魔術薬に応用させることなども思いつき、もしかしたら本当に薬草師としてやっていけるかもしれない、などと能天気にも考えはじめていたくらいだ。

「で、昼飯を買って帰ってくる」

「早いな」

 エイル少年の周りには、気軽い雑談が集まる。それを好んで、少年は夕刻くらいまで街にいることが多かった。

「ちょっと試してみたいことがあるんだ。魔術の方でね」

「勉学が進んでいるという訳だ。よいことだな」

「まあな」

 エイラの知識や技を磨くことが〈翡翠の宮殿〉につながる。エイルとして過ごす方が気楽であっても、それに溺れればますます遠くなるだけだ。宮殿も――アーレイドも。

「よし、それじゃ」

 エイルは目を閉じた。静かに深呼吸をして、もうすっかり慣れてしまった術を行う。それは、彼だけの、特殊な術。

 その数トーア、自分が光にでも包まれているような気になる。

 だが実際は、そんな「魔法」めいた現象は起きていない。

 ただ、見る者が気をつけて見れば――主には魔術師が、ということになるだろう――通常の魔術の法則とは異なる不可思議な波動が感じられるはずだ。

 初めの頃は、それは厨房に上がったばかりの頃のようにどたばたとしていささか悪目立ちする、みっともない波動だっただろう。しかしいまでは、それは余程じっと見ていなければ感じられぬほど、素早い「調整」――変化へんげだった。

 もちろん、「見て」さえいれば、その大きな変化に気づかないはずもないのだが。

「やってくれ」

 エイラはこれまたすっかり慣れた手つきで衣類を締め直しながら言った。エイラは「エイル」よりも少し身長が低く、ぐっと細身だ。薄い茶色の髪はより薄く金に近くなり、その長さはぴったり肩まで、あるのだった。

 この姿は好みではない。だが魔力を使うにはこの方がいい。これで街の暗がりへ行って、またすぐエイルに戻るのだ。

 こんなことをしていても、自分はただの人間だと言えるのか?

 浮かぶ疑問は打ち消した。

 自分は、自分だ。

 本当に、そうなのだろうか――?

 塔の最上階から見える殺風景な視界がすうっと薄れていった。三ティムほど色のない世界を通れば、そこはもうヨアだ。

 エイル少年は、日常となりつつある薬売りの暮らしへ足を向ける。

 そして昼前に塔へ戻れば、「客人」が待ち受けていることなど、彼女はまだ知らなかった。

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