07 人ではない

 いったい――。

 どうやって、そこにたどり着いたものか、さっぱり判らない。

 ただ、主を失って以来、〈塔〉は常に去った主の消息と、同時に新しい主の気配を探し続けていた。

 その魔術師が作った砂漠の町スラッセンが「逃げる者のための町」であるなどという話はかけらも知らなかったが、ならばやはりその塔も逃げるための場所、だったのか。

 エイラが、いまだ遥か遠く東にある〈塔〉の呼びかけに気づいたのは、ふらふらとカックスの町をさまよい出て数日と経たぬうちだった。

 それが塔の力なのかそれとも翡翠なのか、はたまた砂漠の魔術師のものかエイラ自身のものかは判らない。「運命」の力などと言う曖昧なものかもしれないし、それらが全部混ざったのかもしれない。

 ともあれ、エイラは〈塔〉に呼ばれ、招かれ、大魔術師ヴィントであろうとそう簡単には飛び越えられぬ空間を越えて、未知の世界へ足を踏み入れた。

 砂漠。

 海の向こうに続く果てしない水平線なら知っている。見渡す限りの草原も、街を出て知った。

 だが、見回せば必ずほかに何かがあった。水平線に呑まれそうになっても振り返れば見慣れたアーレイドが、草原に取り残されても目を凝らせば見知らぬ遠い街が、見えたものだ。

 だが、この砂だけの世界には他に何もない。

 圧倒されるまでの静寂と孤独。

 ただ、隠された塔だけが、しかし彼女の前からは姿を隠すことなくそこに立っているだけだった。

「早く入るがいい」

 砂風の音だけに包まれていた彼女は、突然聞こえたその声にびくりとなる。

太陽リィキアに痛めつけられて死ぬために私の声に答えたのか? そうでなければ早く陽射しを遮るところに入るといい。ぬしが私の新しい主になる気があるのならば」

「誰だ」

 当然の疑問として、彼女はそう口にした。

「……魔術師か」

 この問いは、世界の――魔術師リートの理を知るものが聞けば奇妙に思ったろう。魔術師には魔術師が判る、と言うのはリートたちには当たり前すぎるほど当たり前のことだ。教わるの何のということではない。何しろ「判る」のだから見落としようがないのだ。

 なのにエイラには判らない。

 彼女自身のうちには、特殊なものといえど、魔力と呼ばれるものがしっかり存していたから、よほど注意深く観察されない限りは術師であることは疑われようもなかったが、逆は少し――難しい。面と迎えは彼女にも見えるものはあったが、姿を隠されてはいかんともしがたかった。

「姿を見せたらどうだ」

「話は入ってからでもできる」

 声は困ったように言った。

「こうしてここまできて今更、罠にかけられるかとおののいているのでなければ、頼むから入ってくれ。ぬしがそこで倒れても、私は助けることができないのだから」

 警戒を捨てた訳でもないし、まだ自分の身に何が起きたのかも判ったとは言えなかったが、殴りつけるように強烈な太陽が彼女を打ち倒してしまおうとばかりに熱線を放っていることだけは確かだ。

 彼女はその塔に近寄ると――数歩を歩んだだけで頭がくらりときたのは驚きだった――輪っかの形をした取っ手に手をかける。少なくとも、それで死んだりすることはなかったようだ。

 戸はいささかきしみながら数ファイン開いたところで、彼女を招待客とするのを考え直したかのようにぴたりととまった。

「……さび付いてるようだな。主の魔力もそこまでは及ばなかったと見える」

 声がため息混じりにそう言うのを聞いて、エイラは少し警戒心が解けるのを感じる。彼女を中へ入れて何か騙したいのならば、扉くらいすんなり開けなくてはならないだろう。

 エイラは思い切り力を入れ、体重をかけて戸を押し開けた。扉は数トーア間だけ抵抗を見せたが、すぐに降伏をする。

 薄暗い石の床に足を踏み入れたエイラは、征服した戸を閉めながらほっとしていた。確かに陽射しはきつく、あのまま立っていたら倒れただろう。

「……で」

 こほん、とばかりに声を出す。

「どこにいる?」

「ここだ」

 声がどこから聞こえているものか、判然としない。彼女はきょろきょろと見回した。

「何だよ、からかってるのか?」

 むっとして見回す。だが、誰の姿も見えなければ、気配も感じられない。

 何度かのやりとりをして、その声が〈塔〉自体のものであると聞いたエイラは、もちろんと言おうかそんなことが信じられず、納得行くまで塔の隅々をのぞきまわって歩いた。

 ようやく彼女が諦めた――納得した、と言うよりはこちらのほうが近かった――のは、扉をくぐってから半刻も経っていただろうか。

「疑い深いな」

「だって、どうして塔が喋るんだよ」

「魔術の勉強が足りないのではないか、新たなる主よ」

「新たな……主だって?」

「何と。私の話を何も聞いていなかったと言うのか」

 〈塔〉だというその声は嘆くように言った。

「ぬしは、私の主たることを了承してこの地にやってきたのだろう」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ」

 エイラは――目の前に「人」という目に見える形で相手がいないせいか、すっかり「エイラ」たることを忘れ、姿は女でも口調は完全に「エイル」になっていたが――慌てて言った。

「俺、何でここにいるのかもよく判らないんだぜ? 俺……確か、おかしな噂話を聞いて……」

 この数日分の混乱した記憶が少しずつ蘇ってきた。

「そうだ、逃げなきゃいけないって思ってその足で街を出て……そうこうするうちに、お前の声を聞いたんだっけ」

 ヒースリーにも何も告げずに出てきてしまったことに、ようやく思い至る。薬草師は怒っているだろうか、と思い、それより心配しているかもしれない、と考え直して申し訳ないことをしたと感じた。

 〈魔術都市〉とやらの人間が翡翠を探している。

 そんな曖昧すぎる噂話に動揺し、逃げようとして町を出る――ここまでは、いい。決して格好よくはないが、自分でもそうしたかったこと、そうしようとしたことは理解できるし、覚えている。何故、ハルガーディが話した伝説などを頼りと考えたのか。そして何故、その声が彼女に聞こえたのか。

「私が探していたからだ」

 〈塔〉はそんなことを言った。

「主よ、ぬしがもし野心を持って私を探そうとしたならば、私は隠れただろう。だがぬしは逃げようと『守護者』を求めた。だから私はお前に手を貸す気になった」

「……何かから逃げようと泡を食ってる連中なんて、ビナレスにごまんといるだろう。何も俺だけじゃ」

「そう。ならば大勢。魔術師にも少数。だがそのなかでお前がいちばん目を引くのだ」

 どこに「目」があるんだ、とエイラは茶化しかけたが、次の言葉に沈黙せざるを得なかった。

「何故なら、ぬしは、人ではないから」

 ――それに対する疑問の言葉、否定の台詞、抗議の声も、あげることはできなかった。ただ、二トーア、五秒、二十秒、一ティム、三分――沈黙を続けるだけ。

「……俺に、何を……見た?」

 ゆっくりとエイラが言えば、〈塔〉もまたゆっくりと答える。エイラが緊張を見せまいとそうするのに対し、〈塔〉は野生の獣をなだめようとするかの如く、落ち着いた声音で。

「人には発し得ぬものを」

「そう……言うのか」

 呆然と、彼女は呟いた。

「主よ、ぬしが何者なのかは知らない。だが、私も人ではない分、それはよく判ることだ」

「俺は、自分をそんなふうに思っちゃいいない! 俺は……ただの」

 ただの、何だろう?

 下町の少年? 厨房の下働き? 姫君の話し相手? 騎士見習い? 遅く目覚めた魔術師? 東への旅人? 薬草師見習い? 男、女?――リ・ガン?

 表わすのならば、最後の一語しかなかった。だが、ただのリ・ガン、などという表現は有り得ないものだ。「ただの王」「ただの大魔術師」そんな表現よりも奇妙だ。リ・ガンはひとり――それともひとつ――しか、存在しないのだから。

「……判んねえや」

 ぼそりと、呟く。

「俺が何もんなのかは俺がいちばんよく知ってて、で、いちばん判ってない。でもこんなのはみんな戯言みたいなもんで、俺は俺だなんて……そんな言い方をすることしか俺にはできない。でもいいや、仕方ないんだ……それで」

「まるで少年、だな」

 はあ?――とばかりに顔を上げ、自らの身体を思い出した。

「……ああ。あんたはどこまで知ってるんだ?」

 つい、そんなことを問う。〈塔〉は、もしできるのならば首をかしげたことだろう。

「私が知るのは、お前が逃げていること。そして、探しものをしていること」

「俺は、何を探す?」

「さあ」

 探るようなエイラの視線――どこに向けたらいいのか判らなかったが――が意に介された様子はない。

「警戒は時に重要だが、このなかでは馬鹿げたことだ。私はこうしてここにいるだけ。私は主に危害など加えぬよ」

 腕もないのに、どうやったら誰かを殴りつけたりできるというのだ?――などと、〈塔〉は言った。

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