03 即戦力の参戦
どきり、と心臓が大きく跳ね上がって、少年はふかふかの寝台からがばっと起きあがった。
火が落とされてもう数刻経つ客室は、真っ暗な上に凍みつくような寒さだ。
少し離れた棚の上では小さな蝋燭の火が揺らめいて、慣れれば少しはものが見えるが、暖を取るにはほど遠い。
(どうして――気づかなかった?)
(いや……あれはあまりに……あれだから、いくら俺だってびびる)
初めて男に口づけられた衝撃の方が「それ」より大きかったからと言って、導師にも誰にも咎められる筋合いはない――と思う。
(そうだ、ゼレット様に初めて名を呼ばれたときにも、奇妙な感じがした)
(長距離の〈移動〉のせいで身体が疲れ切ってたからそのまままた眠ってしまって……忘れていたんだ)
(それに、あの人が近づいてくると、ファドック様に対してそうだったみたいに……姿が見える前に気がついた)
(同時くらいに「閣下がいらした」なんて声がするから、自分が先に気づいたと思わなかった、だけだ)
そして、初めてゼレットに触れた。
ここへきて一旬近くになる。ゼレットとは幾度も言葉を交わしたが、触れられたのは――思い出したくもない方法で、だったが――初めてだったのだ。
(伯爵様相手じゃ、握手もしないもんなあ……)
エイルは頭を抱えた。
ファドックの手を取ったときに感じたものに酷似していた。いや、同じだった。
ならば。
(〈守護者〉)
浮かぶ言葉は、リックに教わった知識なのか、彼の内に眠るものなのか。
(いったい、何の守り手だと?)
(もちろん――)
だから、彼はこの領地に跳んできたのではないのか?
(それじゃ、ここにいるのは)
(〈鍵〉じゃないんだ)
(順番が、滅茶苦茶だな)
ぶるっと身を震わせた。はっとなって、布団のなかに潜り込む。大きく起きあがったせいで、さっきまで溜め込まれていた温みは消え去ってしまっていた。
(何にしても、ゼレット様が本当に〈守護者〉なら)
(とにかく、手がかりだ)
機会を見て、何か「翡翠」に心当たりがないか尋ねてみよう――と思った途端、口づけが蘇ってげんなりとした。「エイラ」でいるときならばともかく、この姿でこんな問題に行き当たるとは思ってもいなかった。
(そりゃ思ってもいなかったこと、ばかりだけどさ)
(いくら何でも、こりゃないんじゃないか?)
まさかゼレットが部屋に入ってきて彼をどうこうしようと考えているとは思わないが、エイルは思わず扉に目をやり、明日からは魔錠をかけよう、などと思いつく。
伯爵が女のみならず男に興味があっても、エイルが彼に親しみを覚える気持ちに変わりはないし、初めて接吻を知った「娘」でもないのだからゼレットを意識してどうの、ということもない。
ただ、彼には判るのだ。
明日からゼレット伯爵は公然と、エイルに「そういう」ちょっかいを出すだろう、と。
厨房の朝は早い。
エイル少年には懐かしい空気だ。
隊商の調理を手伝ったときは旅路と言うこともあって雰囲気はだいぶ違ったし、仕込みなどは手伝ったものの、彼が必要とされたのは調理の経験がなくてもかまわないようなことばかりだった。だからこうして朝に目覚めて、さあ戦うぞ、という気分にはならなかったのだ。
「おお、早いな」
厨房をのぞき込んできょろきょろしていると、料理長ディーグが意外そうな顔をして彼を出迎える。
「本当にくるとは、思わなかったぞ。昨日で懲りたかと」
「何でさ」
エイルは首をかしげた。
「張り切りすぎて、疲れたんじゃないかとな」
「へっちゃらさ、あれくらい」
エイルは鼻を鳴らした。実際、ここはアーレイド城の厨房に比べればかなり小さなものだから、彼の台詞は強がりではなかった。しかしディーグはどう思ったか少年の強気な発言ににやりとし、それじゃ今日も頑張ってもらおう、などと言った。
カーディル城に暮らす人数は、そう多くない。
ゼレット伯爵その人と、その執務の手伝いをする男女が数名。その世話をする人間がそれぞれに数名。あとは掃除人やら馬丁やら庭師やら、城と伯爵の仕事の維持に最低限必要な人間が最低限の人数。警備には町から交替で
厨房の
厨房の仕事が一時に集中するのは西も南も変わらぬものだ。手伝いが入らないときはかなりの混乱状態に陥っていたらしいこの「戦場」は、エイルという即戦力の参戦によってカーディル城の食卓事情を一気に上昇させた。これは必ずしも少年ひとりの手柄ではなく、アーレイド城の下厨房で長年培われてきた、「迅速に」「清潔に」「できたてを」提供するための小技の数々のおかげだった。
ともあれ、彼はカーディル城の厨房にちょっとした革命をもたらし、少年はファドックが言った「トルスに仕込まれればどこへ行っても役に立つ」という台詞を実感することになる。
「ゼレット様」
片手で盆を支え、もう片方でとんとんと扉を叩く。
「お食事をお持ちしました」
「入れ」
壁の向こうからくぐもった声が聞こえ、エイルは盆を水平に保ったまま上手に扉を開けた。
「それと、東門の修理はどうなった」
「この天候で資材の到着が遅れております。届いたところで濡れた木では作業ができないでしょう。晴れ間か、春を待つしかありませんな」
「仕方あるまい。町憲兵を増やして対応しろ」
「了解いたしました」
そんなやりとりを聞くともなしに聞きながら、エイルは小さな卓にふたり分の食事を置いた。伯爵自身のものと、執務官のひとりであるタルカスのものだ。
「雪狼の群れはもう去ったな」
「南へ戻ったようです。あれの心配は当分要らないかと」
「やれやれと言ったところか。あとは――おお、何だ、エイルではないか」
ようやく少年に気づいたゼレットは視線をタルカスからエイルに移す。
「どうした。ああ、飯だと言ったのか。何もしなくていいと言っておるのに、配膳までやるとは面白い奴だな」
「何もするななんて言われたら、退屈で倒れちまいますからね」
少年はそんなふうに言うと
「お前も一杯
「仕事中ですから」
澄まして言うとタルカスは笑い、ゼレットは唸った。伯爵は立派に職務中だ。
「笑うな、タルカス。俺はウィストくらいで酔ったりせんぞ」
「そうでしょうとも、閣下」
三十半ばほどのタルカスは主人よりも先にさっさと卓につくと、焼きたての
「ウィストを一本、ひとりで一気に空けたって、顔色ひとつ変えませんものね」
「
「お言葉ですが、俺には伯爵を酔わせてどうしようという気はありませんよ」
少年の言葉にタルカスは大笑いし、ゼレットは苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「ではお前はどうだ、あまり酒には強くなさそうだが」
言いながらゼレットは卓に近づき、簡素な昼飯を見やった。
「まあ……そうですね。ウィストなんて上等のもんは滅多に飲んだことないですけど、ライファムを二杯も飲んだら真っ赤です」
「それはいいことを聞いた。今宵はともに飲もう」
「お断りします」
エイルがきっぱりと言うとゼレットは残念そうな顔をし、タルカスは笑いを堪えようとして失敗している。
「笑うなと言っておろうが。俺が振られるのがそんなに楽しいか、執務官」
「楽しいに決まってます。俺の目当ての娘を何度閣下に取られたか」
「つまらんことを根に持つな、せいぜい、二度だろう」
「馬鹿言わんでください、十回じゃ利きませんよ」
「それはお前の精進が足らんのだ、俺のせいにするでない」
「閣下のせいですよ。決まってるじゃないですか」
今度はエイルが笑いを堪える番だった。タルカスの姿を見かけたことはこれまでにもあったが、いかにも真面目な執務官という様子だったから、こんなにぽんぽん「主人」に言い返す男だとは思っていなかった。
「お前まで笑うのか、エイル。俺は不幸な男だ。気に入りの少年には振られ、生意気な部下に馬鹿にされて。慰めは傍らの白猫だけときてる」
見ると、卓についた伯爵の足元に、いつの間にかカティーラが座り込んでいる。
「その台詞、女どもが聞いたら嘆きますよ。それとも喜ぶかな。わたくしがおります、閣下、なーんて」
「それ以上調子に乗ると、タルカス。お前がぐずぐずしてる間に俺がマーチェを口説くぞ、いいのか」
「……勘弁してくださいよ、もうちょっとでうまくいくんだから」
部下が天を仰ぐと伯爵は満足そうにうなずき、面白がっているエイルを見た。
「食事は済んだのか」
「これからです。厨房に戻って」
「何だ何だ。自分の飯も食わんと人の世話とは」
「忙しかったんですよ」
「飯をあと回しにしてまで、働いていたいのか?」
茶化した台詞に肩をすくめる。
「逆ですって。俺は、働かなきゃ食えない暮らしをしてたんですよ。下町ってのは生存競争が激しいんです」
「下町?」
ゼレットの眉が意外そうに上げられた。
「てっきり、どこぞの立派な城ででも働いとったのかと思ったが」
「え? ああ、まあ」
エイルはまた肩をすくめた。そう言えば、ゼレットには何も話していないのだ。
「下町のガキが、城で働くようになるってこともあるって訳です」
「そうか」
伯爵は特に追及はしなかった。
「俺はお前の過去には興味ないからな。あるのは現在と未来だ。今宵、でもよいが」
「ええと。じゃ、俺は戻ります」
口調を変えたゼレットがこれ以上妙なことを言い出さないうちにとばかりに、エイルは踵を返した。
「あとで下げにこいよ。タルカスがいなくなってからな」
「……ご自分で持ってきてください」
振り返るとそう言う。ゼレットがいつもそうしていることを知っての台詞だ。伯爵は、下心がばれたか、などと笑う。
「エイル」
扉を出ていこうとしてかけられた声に、また振り返った。
「次に食事を持ってくるときは、お前の分も持ってこい。三人なら安心だろう?」
苦笑してエイルはうなずいた。おかしな真似さえされなければ、ゼレットと話すのは楽しい。
「夕刻にくるときは、カティーラの飯も忘れずに頼むぞ」
四人前を運ぶのは大変かもしれんがな、と言って伯爵はまた笑った。
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