02 いずれ判る、かな

 そうして旅を続けるうち、エイラであることにも違和感を覚えなくなってきていた。

 心の内では「俺」と言う言葉を使うが、口に出すときに「私」と言うのも自然にできていた。こんなことで城の侍女レイジュに教わった口調が役に立つとは思わなかったが、何が幸いするか判らないものだ。

 ビナレスは、広い。

 他大陸のようにそのなかを小さく地方づけるという習性はなく、ひとは大雑把に方角を言うか、王や領主を戴く街町の名を使って、その付近を呼ぶしかなかった。つまり〈東国〉だの、アーレイドの辺り、などである。

 東西南北に分けづらいまんなか付近はただ中心部クェンナルなどと呼ばれており、エイラが「アーレイドの辺り」を離れて向かったのはそちらの方向だった。

 魔術師リートエイラとして道中の仕事を見つけることは難しかった。多くの民は迷信を含めた畏れのため、或いは、何だかよく知らないが胡散臭い、と言った理由で魔術師を敬遠する。

 魔術師を欲しがる隊商トラティアがないこともなかったが、それは護衛として役に立つ魔術師がほしいのであって、彼女のような新米では話にならない。

 「エイル」であればどんな雑役でもするからただで、または格安で馬車に乗せてくれるよう交渉できる。トルス仕込みの調理の技はささやかとは言え、旅路では重宝されるはずだ。

 女であり魔術師であるというだけでこんなに生きづらいとは思わなかった、などと嘆息する日々であった。どちらもたいへんな違いであるはずだが、彼女としては、中身は一緒なのに、という思いがあるのだ。

 中身は一緒。

 だが、本当に?

(ふたつの心)

 エイラは首を振った。

 ふたつの身体を持てば、それでもう、充分だ。


 中心部と言ったところで、それは単に大陸の中心という意味であったから、商業やら何やらが段違いに発展しているようなことはなかった。

 クラーナの足取りとも言えない足取りを追って――ほかに進む道が見つからなかった――大陸を東方へと旅していくことは、なかなかに興味深いことではあった。

 もともとが好奇心は強いのだし、ただの「エイル」であったのならばその快活さでもって彼は隊商の少年たちと仲良くなり、大人たちにはからかわれるように可愛がられただろう。

 だが、彼女にできたのは、どうしても嫌われる魔術師のローブを脱ぎ、通常の賃金を払って――痛手だ――乗り合いの馬車を使うことくらいである。酒場と違って女に声をかけようとする酔っぱらいはいないし、旅の間にちょっとした楽しみをと考えた若者がいても、仏頂面で愛想のない返事をすれば簡単に諦めた。

 そうしてアイメアという名の大都市までたどり着いたのだが。

 この生活は、苛々が募った。

 アーレイドを出て、もうひと月以上が経っただろうか。

 「エイラ」でいると、魔術的な意味では安定がある。こちらの身体の方が術を扱いやすいことは判っていた。だが、ずっと人の間で暮らしてきた身には、ろくに話す友人もいなければ、笑う合うこともない生活はつらかったのだ。

 魔術師協会リート・ディルに顔を出しながら、それもだんだん気が重くなってきた。

 仕事をもらえるのは有難いが、彼女としては、万一に「正体」を見破られてはと思うと――協会に出入りする傾向のある真面目な術師には、リ・ガンなどという「無名の伝説」を求める者はないだろう、と師は言ったが――長居するのは気になった。

 それに魔術師同士はろくに言葉を交わさない。彼女自身はそうと意識しなかったものの、誰とも親しくなれない日々というのは大いなる精神的苦痛を伴っていたのだ。

 気づけば食は細くなり、そうなれば自然と手足も細くなる。ただでさえ少年のものよりも体力のない身体はますます疲れやすくなり、疲れ切ったと思って寝台に転がっても寝付きは悪く、ちょっとした物音でも目覚めた。

 そろそろ、限界だった。

 〈翡翠〉の存在を感じるのに、どこにそれを探しに行けばよいのか判らない、という焦燥感もそれに拍車をかける。

(もう――こんなのはだ)

 彼女がそう思ったのは何も投げやりになったのではなく、このまま行けば遠からず破綻をきたす――肉体にか、精神にか、両方だろうか――という本能的な防御反応であったのかもしれない。

「おばちゃん、何か酒! 強いやつ!」

 久しぶりに無造作に出した声の、何と心地よかったことだろう!

 酒場の女あるじは元気のよい声に振り返り、面白そうに少年を見やった。

「アストでもろうってのかい、坊や。やめておきなよ」

「何でだよ、そんなにガキに見えるのか?」

 「坊や」という言葉に安心できることがあろうとも思わなかった。エイルは思わず出る笑みを堪えながら適当な席に着く。

「疲れてるように見えるのさ、坊や。それと、腹も空かせてる。そんなときにアストなんぞぶち込んだら倒れちまうよ」

「そ」

 エイルは目をぱちくりとさせた。疲れているように見える、のだろうか。

「そうかな」

 だが女あるじは、その問い返しを少年の無知と取ったようだ。無茶はおやめ、と言った。本当のところを言えば彼はろくに酒を飲まなかったから、先の要望は確かに無茶だったかもしれないが。

「まずは食事をお上がり。酒がほしいならライファムくらいにしておくんだね。そのあとでも強いのがほしけりゃアストを出してやろう。それでふらふらになった坊やが酔いつぶれて身ぐるみをはがれても、あたしが忠告をしなかったとは言わせないよ」

 ほっとする。

 エイラの姿で食事処などに行けば、自然と身は固くなり、言葉は少なくなった。となれば、店の人間や周辺の卓との気軽な会話などできるはずもなく、たまに向こうから話しかけてきたとしても、いつも彼女は冷たくそれを終わらせた。ぼろを出したくないということもあったし、女性扱いされるのはどうにも抵抗があった。

 だが――やはりこれが、彼だ。

 少年は概ね、満足だった。久しぶりに飯を美味いと感じた、などと気づく。その途端に指摘された空腹を覚えて焼き飯などをがっつけば、それに感心したのか哀れにでも思ったのか、揚げ鶏の小皿がおまけについてくる。口に食べ物を入れながらそれに礼を言おうとして咳き込み、店の人間からも隣の卓からもからかわれ、そんなことに――満足だった。

 「坊や」「坊ず」と呼ばれることは全く気にならなかった。エイラの周りに作らざるを得なかった冷たい壁をひととき外した彼は、酔漢の何ともくだらない冗談にも大声で笑う夜を過ごしたのだ。

「あんた、旅の戦士にゃ見えないね、いったい何をしてるんだい」

 二十歳前の少年が剣も帯びず――或いは楽器や「杖」でも――ひとりで旅をしているとなれば珍しい。たいていは家族と一緒であったり、隊商トラティア芸人一座トランタリエの一員であったりするものだ。

 神官、或いは神官見習の巡礼と言う可能性もあったが、神職を志すものは滅多なことでは酒を口にしない。第一、雰囲気と言いものがある。エイルが神官だなどと言い出したところで誰もが笑うだろう。だがそれは、魔術師だと言っても、おそらく同じだろうが。

「うーん、俺はね」

 〈翡翠の宮殿〉を探している、も悪くないが、ちょっと詩的すぎると思った。

「人探し。ってとこかな」

「へえ、誰を探してる?」

「生き別れの兄弟とか、坊やを捨てた親とか、それともさらわれた恋人?」

 ひとりの客が言うと酒場の客たちは声をあげて笑う。馬鹿にされていると言うよりはやはり、からかわれているというところだ。

「あのなっ、こう見えても俺は十八だぞ十八っ。あんまり馬鹿にすんなよなっ」

 エイルが叫ぶと、意外そうな驚きの声が浮かぶ。

「十八!?」

「てっきり、十五になるならずだと……」

 確かにエイルは同年の少年たちに比べれば小柄で、アーレイドでもそれをからかわれたことはあるが、成人していないかと思った、と言われるはいささか癪である。

「そりゃ悪かったなあ、十八にもなりゃ立派な男だ」

「そうそう、冒険に旅立つにゃあちょうどいい年頃だ」

 まるで慰めるかのようにそんな言葉が飛んできて、エイルはふんと腕を組んだ。

「まあ、いいや。俺はクラーナって吟遊詩人フィエテを探してるんだけど。誰か聞いたことないか?」

「吟遊詩人なんて珍しくもないからなあ」

「名前まで覚えちゃおらんし」

 客たちはすまなさそうに言うと、エイルをからかったことも詫びてそれぞれの席に戻ったり、もう少し少年と話をしたりした。

 これまでにも、手がかりなど得られないことは承知で幾度かクラーナのことを尋ねてみた。アイメアは大きな都市であるから、万一クラーナがここを訪れたことがあったとしても、それを知っている人間にたまたま遭遇するとは思えない。だからこれは話の接ぎ穂のようなもので、「エイラ」としては話し方の練習になったし、いまは楽しく話ができればそれでよかった。

(だけど)

(いいのかな、これで)

 満ち足りて酒場を出た少年は、新たな宿を取った。この姿で「エイラ」のとった宿には戻れない。いまやすっかりその〈調整〉は覚えたのだからエイラとして宿に戻ることも簡単だったのだが、彼はまだ、そうしたくなかった。久しぶりの、下町ふうの言葉の応酬を忘れたくなかったのだ。

 だというのにひとりになると――少年はふと、不安になっていた。

 「エイル」が旅をして何になる?

 術を操り、翡翠を感じ取るのなら「エイラ」の方が得意なのだ。女の姿は嫌だなどと言って手がかりを掴み損なえば、後悔するのは彼自身になるだろう。

 迷っていた。唯一彼の〈正体〉を知る師リックは忠告、助言、警告の数々を彼に与えたが、命令はひとつもしなかった。だから彼はどうすべきか、決めかねていたのだ。

 アーレイドの街で、城で過ごしていたとき、彼は全ての行動を自分で決めていると思っていた。だがそれは錯覚で、彼は何らかの決まりごとに則って動いていたのだ。それが、旅に出ればどうであろう。右も左も――生きるも死ぬも、全て本人の決めごと次第だ。

 そして、自分自身での決めごとのひとつは、ひとつの場所にふたつの姿を取らないこと、であった。

 面倒のもとだし、自分自身の混乱のもとにもなる。

 ――初めて彼に〈変化〉が訪れたとき、その力は強烈で否応がなかった。彼は驚き、怖れ、混乱してリック導師に救われた。

 何が起きたのか、判らなかった。いまでも、判ったとは言いがたい。

 彼は、リ・ガンだ。

 少なくとも、師はそう言う。

 〈変異〉の年に揺れる〈翡翠〉を正しく呼び起こし、再び眠らせるのがその役割。だがリ・ガンはひとりでそれをこなすことはできず、〈鍵〉の力が必要だ。

 リ・ガンの力は〈鍵〉の意思に左右され、その二者の結びつきは強い。

 〈鍵〉でない者が翡翠の力を求めてリ・ガンを手にすれば、災いが起こる。

 そんな話を聞かされたから、どうだというのだ?

 知識としてそれを理解することなど、何の意味も持たない。彼自身が、目覚めなければ。

 エイラとして暮らすのは確かに面倒であり、疲れた。

 同時に、こんなに楽に感じることができるとは知らなかった。――翡翠を。

 聞こえる。感じると、いうのだろうか?

 翡翠がまどろんでいる。リ・ガンの訪れを待っている。エイラでいると、それが容易に感じ取れるのだ。こうして再びエイルとなると、日常の生活には安定を覚えても、翡翠を思えば――茫洋とした不安感に苛まれるだけだ。

 だから、彼はエイラの姿でいたのだろう、とふと思った。

 〈時〉が近づく。

 こんなにも翡翠の存在、その眠りを感じるのに、それがどこにあるか判らないと言うのは奇妙だったろうか。

(いずれ)

(判る、かな)

 彼は、西国の護衛騎士が少年に幾度か告げた台詞を思い出した。

(ファドック様)

(シュアラ)

 アーレイドはもう遠い。

(戻ると……約束をした)

(そのためには、俺がリ・ガンとして目覚めて、翡翠をどうだかすることが必要なんだ)

(いまさら、信じられないなんて言わないけど)

 男であり、女であることができる――できてしまう自分が、何の力も秘めていないなどと思うことはただの逃避だ。だが「リ・ガン」についてはやはり判らないまま。

(俺は〈翡翠の宮殿〉へ行かなけりゃならないんだ)

(そのためには「エイラ」が要る)

(「エイル」は時折の休暇……にでもするしかないな)

 そんなことをすれば、本当の自分はエイルである、ということを忘れてしまいそうだ。だが、そうするしかないだろう。

(〈時〉は近づいていると導師は言うし、俺自身、そう感じる)

(急がなくちゃいけないんだ)

 不安を覚えながら落ちた眠りのなかで、しかしエイルは、旅に出て以来、初めてぐっすり眠ることができたように思った。

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