第3話 白銀の宮殿
第1章
01 エイラ
ビナレスを南下していけば、果てなき世界の果てなき
その麓ともなれば一年を通して雪嵐が吹き荒れると言うが、その辺りまでまだ
とは言うものの、季節は真冬へ向かおうとしていた。
空気はすっかり、冷たい。一カイも外にいれば、身体は震え、手足が凍える思いをするだろう。
朝から降りはじめた今年七度目の雪は吹き出した風に舞い、気温はますます下がっていくかのようだ。分厚い雲は、今年最初の雷雪を予感させた。
「どうやら、荒れるな」
しっかりと設計され、すきま風の入ることのない窓の外を見やりながら、男は呟いた。
「嵐になるかもしれん」
「まだ早くはございませんか?」
寝台から身を起こした女は、驚いたようにそんな台詞を返す。
「まだ、五の月でございますよ」
「もうすぐ月も変わる。それに、雪の女神は気儘なものだ」
「わたくしはもう、戻りませんと」
「そうだな、姿は見えぬが
男はそう言うと寝台に戻り、女の髪に口づけた。
「いけません。そうやって……またお呼びがあるのではと期待をさせる」
「いかんのか? またお前を呼んでは」
「困った方ですわ。期待がしぼんでいくのを見るのはつらいもの。期待をせずに済む分、ことのあとで冷たい男の方がましというものです」
「ふむ。覚えておこう」
そう言う男に困ったように笑いながら、女は寝台を降りる。衣服を身につけ、簡単に身を調えると男に礼をして部屋を出ていった。
それを何となく見送ったあと、彼は添え付けられている棚に手を伸ばし、無造作に置かれていた
「荒れるな」
話す相手のいなくなった部屋で男がそう呟いた、瞬間だった。
目を向けていた窓が好天の真昼のようにばっと光ると同時に、大音響が建物を揺るがす。男は驚いて立ち上がった。
「これは」
吸い始めたばかりの瓏草を躊躇なく小鉢に押しつけた。
「落ちたな」
「
嵐の到来にしては、先に女が言ったようにいささか早い。だが実際に、雷神がすぐ近くに落ちた。準備が整っていない箇所も多いし、落ちた先が火事にでもなれば大事だ。彼はすぐさま、行動に移った。
果てのなき広大なる世界、フォアライア。
世界の南に位置するファランシア大陸は、東に
ファランシア地方は隅から隅まで砂だらけで、その南端ですら熱砂の舞う不可思議な地だと言うが、ビナレスでは自然の理の方が強い。即ち、南に行けば行くほど気候は厳しく、寒くなるのだ。
彼女が旅をはじめたのはまだ夏の終わりであったし、出発地点である故郷は気候の穏やかな街だったから、砂嵐も雪嵐も彼女には――少なくとも、まだ――縁がなかった。
それに第一、気候のことなどよりも大問題がある。
この格好、だ。
黒いローブに――細い手足。
もともと、がっちりとした体格だとは世辞にも冗談にも言えなかったが、それにしたって女の身体に比べればずっとましであった。
街の暮らしで培った体力はどこへ行ったのだろう?
彼女の足はあっけないほど簡単に疲れ、徒歩の旅に呪いの言葉を吐かせた。周りに誰もいないから言える言葉だ。下町の少年ならばともかく、
疲労を紛らわす簡単な術を行使しながら道を行き、ようやく北の隣町にたどり着いたときはそこが天国に見えたものだった。
(術を使うにはこの格好の方が楽にこなせるけど)
(これで人前には……出たくないもんだなあ)
彼女の姿を見たことがあるのは、師リックとその
術を磨くよう、師は言った。だから彼女は、この姿でいる。
正確に言えば彼女は魔術師とは異なる存在だったのだが、魔術師の格好をしている方が「修行」にはなるし、魔術師ではない「ただの女」の格好でいるよりも厄介ごとも少ない。そのはずだ。
若い女が一人で旅などしていればどんな輩がどんな目的で目をつけるか、下町育ちの身にはよく判っていた。想像するだに怖ろしいことだが、それは、普通の女がそのような目に遭うのを怖れると言うのとは少し訳が違った。
全てが、初めてだ。
ひとり旅どころか、アーレイドを離れたのも初めてであるし、そうなればほかの町はもちろん、旅人用の宿を見つけることも、魔術師として余所の協会を訪れて仕事をもらうことも、何より――女であることが、初めてだ。
当たり前である。
どんな下らない冗談を思いつく人間だって、エイル少年が娘になるなど、考えつくものではない。
厳密に言えば魔術師ではないのと同様に、厳密にはこれは女の身体ではない。だが、少なくとも外見は、どこからどう見ても、女性だ。
こんな運命を考えた神はよっぽど暇だったのに違いない、と彼女はまた呪いの文句を――大胆にも神々に向けて、叫んだ。
おっかなびっくりはじめた旅は、しかし上出来だったと言えよう。
リック術師が持たせた紹介状は
魔術師のローブをまとえば人は近寄ってこない。それが寂しくなって幾度かローブを脱いだが、たいていおかしな男につきまとわれる結果となった。
「下町の少年」の言葉でそれを撃退したものの、そんなことをすれば目立つ。この姿であるときは、城の侍女のように――とまではいかないものの、それなりの言葉遣いをした方が得策だ、と言うことは学んでいた。別に、学びたくはなかったが。
「エイラ術師」
呼ばれれば反射的に顔を上げるくらいには、この名前にも慣れてきてしまった。ただ、長い髪はいまだに鬱陶しい。
リックから、魔術師としての名をどう登録するか尋ねられたとき、半ば自棄気味に口にしたのがその名だった。全く違う名を付けるよりは反応しやすかったが、そう呼ばれれば自身の本当の名はエイルであることを否応なしに思い出させられる。もちろん、忘れた訳ではない。忘れるはずもない。忘れたい訳でも。
「何ですか」
見ると、何度か見かけた魔術師が戸口から顔をのぞかせている。
「そろそろ、終わったかと思いまして」
言われてエイラは赤面した。簡単な魔術薬を二、三個作るだけの簡単な仕事なのに、ずいぶん時間がかかっている。
「あの、ちょっと失敗しちま……してしまったんで」
「でしょうね」
言い方は冷たいが、蔑む感じはない。〈魔術師〉と言うものに抱いていた偏見は薄れつつあったが、それでもこの「人種」があまり他者と関わりを持ちたがらないことは確かだ。
行き合えば話をすることもあるし、仲のよい魔術師同士もいたが、彼女には友と呼べるような術師はまだいなかった。
だがそれでいいのだ。個人的には誰かと馬鹿な話をして笑い合いたい気持ちがあるが、自分が抱える秘密――それとも運命――を思えば、魔術師と親しくなることがためになるとは思えなかった。
「貴女宛に書が届いています。終わったら、受け取るといいでしょう」
「書だって? 誰から?」
知らぬ、と言うように魔術師は肩をすくめた。
「判った……判りました。有難う」
エイラがそう言うと、術師は目礼をして扉を閉めた。
その書が気になるあまり、エイラはまた失敗をしかけたが、深呼吸をすると作業に集中した。必要なときにさっと集中できるこの特技は、身体の性差などに関係ない。
そうすれば、程なく作業は終わった。簡単なことだ。集中力に欠けていただけ。
仕事は仕事。金を稼ぐ手段だ。荷運びであろうと、魔術であろうと。
受け取った書の差出人は、リックだった。考えれば彼以外には有り得ないのだ、魔術師協会を通じて彼女に書を送るものなど。別にシュアラからの恋文でも期待した訳ではなかったが、ほんの少し、がっかりしたことは否めなかった。
しかし書の内容は、次の行き先を決めるに充分な内容だった。
正直なところ彼女は忘れかけていたが、リック導師が忘れるはずもない。エイル少年をリックのもとに導いた人物。そしてこれからも導くだろうと、そうあった方がエイラのためになるだろうと、リックは考えているのだ。
アーレイドの城から東町の伯爵の館に招かれた彼は、その後、東国を目指したと言う。
リックが知らせてきたのはそんな話だった。
(東国)
ふと彼女の脳裏に浮かんだのは、東国の第三王子を名乗った若い男の顔。だが彼女は頭を振ってそれを振り払った。この件には関係がない。そう思った。
東国。
あまりにも遠く、曖昧だ。
(でも)
(〈翡翠の宮殿〉を探すなんてのも曖昧すぎる。これは)
(指針だ)
そう感じた。
(だいたい、俺はここで魔術薬を作りながら日々を過ごすためにアーレイドを出てきたんじゃない)
(ここにいるのは……試しみたいなものだ。余所の街でも生活ができる自信はもうついた)
(なら)
(動くときだ)
エイラは師の書をしまうと、ささやかな報酬──もともと大した仕事ではない上、失敗して材料を無駄にした分はしっかり、差し引かれている──を受け取って、アーレイドの圏内から離れることを心に決めた。
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