10 それなら、名乗ろう

「二重……」

 シーヴは繰り返す。

「魔術師と、薬売りの二重か。何故、そんなことをする。魔術師ならば協会ディルに薬を売れば一定の報酬がもらえるのだろう」

「聞かないのでは、なかったのか」

 今度は茶化すように〈塔〉は言った。やられたとばかりにシーヴがうなり声を発すると、笑って続ける。

「彼女はあまり、協会を好かない。協会は彼女を測るから」

「測る?」

「彼女が本来の意味で魔術師ではなく、リ・ガンであることは彼女と師の間だけの秘密だ。リ・ガンのことは魔術師たちの間にも滅多なことでは知られていないが、主は正体を知られることを怖れ、知りそうな人々に近づくことを避けている。だから、こんな〈塔〉は好都合だったと言う訳だ」

「……何故、彼女はここへ?」

 訊かぬと言ったものの、話に出ればつい尋ねてしまう。

「それは」

 〈塔〉はどこか寂しそうに、言った。

「彼女の運命が導いたから、ということになるのだろうな」

「……ふん」

 彼女の運命。彼の行く道。これらはどうつながり、どう関わる?

(まだ判らない)

(まだ、はじまったばかりだ)

 シーヴは思う。

(いままでは、啓示や道標の導きが必要だった。だがこれからは)

(俺がこの目で、この足で、俺の〈翡翠の娘〉を探しに行くことができる)

「シーヴ」

 不意に、よく響くその声の調子が変わった。まるで、彼の心の動きを見て取ったかのように――。

「いまだ。。行けるぞ」

 青年は聞き返さなかった。手早く頭布ソルゥを巻き付けると、準備の整っている荷袋を担いだ。

「どこへ行けばいい」

「上へ」

 見晴らしの小部屋へ行け、と〈塔〉は言った。


 魔術師の造った砂漠の塔を訪れて、それは三日目の夕だった。

 即ち、〈翡翠の娘〉エイラが、ほかでもないシーヴを怖れてここを離れたときから、丸二日と数刻が経っている。

 彼女がその魔術でどこへ飛び去ったものか?

 それは判らない。

 だが彼の行くべき場所はひとつ。

 こんなにもはっきりと浮かぶ、それは〈翡翠の宮殿〉。

 塔の一番上にある小さな部屋は、東西南北をほぼ全域見渡せるほどに開けていた。天井を支えるため、申し訳程度の窓枠や柱があるだけで、最上階と言う体裁さえ取るつもりがなければ別に屋上でもかまわないのだろうと思われた。雨も風も陽射しも何もかも、これだけ開いていればろくに防げないし、事実、床も壁も日と風の爪あとがありありとしていて、引き戸の下の、厳しい天候から隔離された「内部」とはだいぶ異なった。

「景色を楽しむにはちょっと気候が厳しいようだが」

 まるで客人に言い訳するかのように〈塔〉が言えば、客人の方は肩をすくめる。

「絶景を望むのに快適な環境を要求するなんざ、図々しいってもんさ」

 王侯貴族でもあるまいし、などと言ってのけた。

「絶景と言っても砂ばかりだが」

「上等なもんだよ」

 シーヴは満足そうに言う。

「海を見るのも嫌いな船乗りがいるか? 砂地は俺の故郷だ」

 砂の国の王子はそう言って、熱い風を嬉しそうに受けた。

「しかし、何だ。ここから砂風に乗せて飛ばしてくれようってのか?」

「似たようなものだ。どうやら魔術への親しみは薄いな、砂漠の子よ」

 シーヴが不信感を隠そうともしないので、〈塔〉は子供を諭すかのすように言った。

「その力に頼らなければ、ここから出られぬのだぞ」

「判ってるさ、誰も断るなんて言ってない」

 本当は嫌だと言わんばかりの青年に、人ならぬものは笑った。

「そこに立て。そう、その窓枠からつながる影が十字に交わるところ」

「ここか」

 だが心は決まっている。彼は文句を言う気などはなからなかったのだし、魔術を得意としないだけで禁忌を感じている訳ではないのだ。

「よいか」

 夕刻の砂漠を抜ける風はまだ熱を帯び、少し緊張した肌を温く撫でた。シーヴは目を閉じ、そして開けた。

「――やれ」

 閃光が彼を覆った。その光のなかに音はなく、彼はこれまでに二度経験したものと同じ感覚を味わう。世界から、遮断されたと。

 だが同じ感情を覚えたと言っても起きたことはそれぞれ異なっていた。過去の二回はどちらも、「気づけばいつもの世界だった」という、自身をしっかり持っていなければ白昼夢でも見たのではないか、夢魔リリサーヴ・ルーの飼う獣レッディに化かされたのではないだろうか、と首をひねりそうな。

 だが、これは異なった。

 まるで、全身の骨がややわらかく溶けてしまったかのような。同時に、全体をぎゅうと引っ張られて、すぐにまた引き伸ばされでもしたような。

 胸が詰まり、息ができなくなる。

 無音の突風が彼を襲い、上下も左右も判らなくなる。

 立っているのか、倒れてしまったのかさえ。

!)

 不意にそんな感覚を覚えて、シーヴは焦った。閃光の世界は、一気に暗黒の世界になった。腑がぞっとするような落下感を覚えながら、彼の意識は閉ざされた。


 熱を――感じる。

 太陽ではない。太陽ならば、その熱は全身ところ構わず降り注ぐはずだ。身体の片側が寒い、などということはない。

 ならば、この熱は太陽ではなく――。

 彼は目を開けた。まだ、視界がぼんやりとしている。

「気がついたみたいだね」

 柔らかい声がした。

「そのまま。じっとして。とんでもないものを体験したんだから、もう少し休まなくちゃならない。全くあの爺さん、初心者相手に無茶苦茶な真似をするもんだ」

(誰だ……何を言っている……?)

 ぱちぱちと薪のはぜる音がした。

「心配しないで。ここはミロンの集落だ。君は、君のよく知る人間の世界に帰ってきたんだよ」

(ミロンの……だと)

 何度か目をしばたたくと、声の主の顔が目の前にあった。彼よりいささか上だろうか、優しい顔をした若い男。

「お前は……」

 声が出せない。全身が重い。まるで、高熱を出して寝込んだときのようだ。

「しいっ。いいから静かに寝ているんだ。ゆっくり休めば治るよ。君は若いし、ここは君の属する砂漠だ。砂の神は、そうそう砂漠の民に意地悪じゃない」

「だれ、だ……」

 ようやくそれだけ、声を出す。男が肩をすくめるのが見えた、と思う間もなくどうしようもなく重い瞼が再び瞳を閉ざす。

「仕方がないな、それを聞くまで休む気はないって言うんだね?」

 ため息混じりの声がする。

「それなら、名乗ろう。この名前が君にとって意味があるとも思えないけれど。僕の名はね」

 夢うつつを彷徨いながら、シーヴはその歌うような声に耳を傾けた。

「クラーナ」

 すうっ――っと意識が閉ざされていった。だがそれは、先のような未知の世界へ引き込む黒い腕ではなく、眠りの世界へと誘う穏やかな道標だった。

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