09 月の光

 宴は遅くまで続いたが、いかに主役と言っても最後までとどまっていなければならないことはないどころか、むしろ彼が去った方が喜ばれるだろう。と言うのは、彼がいない方が「東国の王子」の噂話がしやすいはずだからだ。

 彼がマザド王に退席を告げ、王もまた臣下を残して賑わいから去ることを決め、最も高貴なる人々が姿を消したのは、十の刻になるならずのことだった。

 あとに残してきたアーレイドの貴族たちがいったい彼にどんな評価を下すのかなど知らぬし、興味もない。王子は疲れなど感じておらぬような颯爽とした足どりで、あてがわれた部屋まで案内されてから警護の兵と侍女――どの娘もなかなか粒揃いだった――を下がらせた。そしてリャカラーダは再び、シーヴとなる。

「お帰りなさいませ! どうでした、シー……殿下っ」

「もういい」

「はい?」

 スル少年は首をかしげる。

「シーヴでいい」

「よかった。助かります」

 スルは心底安心したように言った。王子は面白がる。

「どうした? 何かやらかしたか?」

「そうやって、失敗を前提に尋ねないでくださいよ」

 少年は、それも楽しそうに、と付け加えた。

「何人かの使用人と少し話をしましたよ」

「ほう?」

 何をやらかした、とシーヴが再び言うと、スルは頬を膨らませる。

「シーヴ様、と言いそうにはなりましたけど、ごまかしました。変には思われなかったと思います。向こうはいろいろ東方の話を聞きたがりましたけど、それもあんまり答えないでアーレイドのことを聞きました。僕の言葉なんて作法にかなっちゃいないけど、風習が違うんだろうと思ってくれたみたいです」

「そうか、上出来だ。で、何を聞いた」

「シーヴ様が知りたいのは翡翠ヴィエルのことと、お姫様のことでしょうね?」

 スルは嬉しそうにそう言った。

「アーレイドが翡翠の意味を持つって話は、みんなはあんまり知らないみたいです。それとなく話題にしてみたけど、首をかしげてた」

「そうか。知っているのは王族か魔術の知識のあるもの、というところだな」

 言いながらシーヴは、部屋に設えられている玻璃棚の前に行くと適当に酒瓶と杯を取り出した。

「お前も飲るか」

「はいっ、有難うございますっ」

 西方ならば考えられぬことだろう、主人が従僕に酒を注ぐなど! 東方――シャムレイでも、多いとは言い難い。だが、砂漠にほど近いシャムレイでは、水は高貴なものと見なされており、その采配をするのは主人と言うことになった。

 実際には、主人はお前も飲んでよろしいと許可を出すだけで、注いだり運んだりするのは従僕の方であることがほとんどだ。ただ砂漠の民と言われるものたちの間では、下のものにそれを任せるのは常識外れとまではいかなくとも、怠惰であると思われていた。

「姫君は、二の月に十八を迎えるそうです」

「誕生祭が近いとか言う話は街でも聞いたな」

「何だ、ご存知でしたか」

 少し落胆したように、スル。

「いいからお前が聞いたことを言ってみろ」

 シーヴが杯を差し出して言うと、スルはそれを受け取りながら口を開いた。

「何でも、姫君は十八歳で結婚するって噂ですよ」

「ほう? そりゃ聞かなかったな。婚約者は誰だ」

「いないんです」

「何?」

「噂はなくもないけど、どれも決め手に欠けるって。そこへ来てシャムレイの第三王子のご訪問でしょう。そう言う目的なんじゃないかって声がほとんどみたいですよ。どうすんですか」

「どう、ったってなあ」

 シーヴは杯に口をつけた。

「まさか、それが定めだなんてんじゃないだろうな?」

 シーヴは馬鹿にするように笑って言った。

「〈翡翠の娘〉に出会うと予言され、それなら運命の先手を打ってやると探しに旅に出て――そうしなければ出会わなかった姫君に求愛するのが俺の道だってのか?」

「僕は知りませんけど」

 スルは困って言った。

「それでどうだったんです、肝心の、そのお姫様は。シーヴ様のお眼鏡に適いました?」

「まあ、美人ではあったな。気取った美女というより、少女めいていて可愛らしい、というやつだ。年の合う異国の王子より、具合の悪そうな友人の娘を気にするくらいだから、自身の結婚のことは気にしていないのか、それとも、自分では決められないと諦めてるのかもしれないが」

「何だ、ふられたんですか、シーヴ様」

「お前……言うに事欠いて何てことを」

「だってそうでしょう、お姫様はシーヴ様を放ったらかしてお友達の世話をしてたっていうんなら」

「うむ、シャムレイに対する侮辱だな」

 王子は真面目な顔をして言うが、もちろん巫山戯た言葉だ。

「違いますよ」

 スルは否定した。

「それはつまり、シーヴ様が受けなかったってことです」

 少年はさらっと言って、王子がじろりと彼を見るのに気づき――慌てて言った。

「ち、違いますよっ、そうじゃなくて! 僕が言ったのは、ここの姫様にはシーヴ様の魅力が伝わらなかったんだなってこ」

 スルの言い訳だか本心だかにシーヴは手近にあった枕など投げつけるが、もちろん仕置きのつもりなどないので、少年がそれを受け止めるに任せた。

「もちろんそんなつもりできた訳じゃないが、父上としちゃ早く俺を厄介払いしたいだろうし、西国の王女との縁談なんてあったら喜んでまとめそうだな。案外、これが縁で、なんてこともあるかもしれん」

「な、何を冷静に言ってるんですか」

 スルがまたも慌てたように言うと、今度はシーヴは怒ったふりはせず、肩をすくめる。

「そう言うもんさ。第三王子なんぞ、シャムレイ付近の姫君とこじんまりとまとまるか、さもなきゃどっか他都市に婿入りだ。それ以外の道は……そうだな、兄上たちを倒してのし上がりでもするか?」

「シーヴ様」

「どうした、泣きそうな顔をして」

 シーヴは茶化すのではなく――驚いて言った。意図的に意地悪を言うことはあるが、いまは特に苛めた覚えはない。

「駄目ですよ、俺たちを置いていこうなんて」

「何だって?……俺がいつ、そんなことを」

「ウーレは砂漠の民ですから。こうして、たまに旅に出るのは楽しいけれど、もしシーヴ様が砂漠のないところに住み着いてしまったら……僕たちはシーヴ様から離れなきゃいけなく、なくなっちゃいます」

「何だ、ミ=サスを捨てようってのか? 酷いな」

「あ、あれは砂漠の誓いです、シーヴ様。砂のないところでは、意味を持たない」

「判ってるさ」

 シーヴは嘆息する。

「俺だって、ウーレの一員のつもりなんだからな。だが所詮、石畳に住む街びと、お前たちにとっては客人と言う訳か」

「なっ、何言うんですかっ。ウーレは、仲間と認めなければどんなに敬愛してもミ=サスとは認めないし、ウーレの女をラッチィとすることも認めません。ご存知のはず」

「ああ、そうだな」

 彼は、ウーレに二心のないことを知っている。彼らが心からシーヴを砂漠の子と呼び、敬愛してくれていることを疑いはしない。

 だが彼は、どんなにそれに近しくても――ウーレではないのだ。

 では彼は――何だ?

「……シーヴ様?」

 黙ってしまった自らの主人ミ=サスを心配そうに見やり、少年はおそるおそる声をかけた。だがシーヴは何も答えず、そのまま自身の考えの淵に沈み込んでしまったかのようだった。


 少し経つと、風呂ウォルスの支度ができたとアーレイドの侍女が告げに来る。

 提供された豪奢な風呂場に、先の湯浴みについてこなかったスルは目玉が転げ落ちるのではないかと思うほどにその両目を開いたものだ。

 この数月前にひとりの少年が、常に風呂に水を張られているような贅沢さに驚いたことなど彼らは知らない。だが、下町とは言え水の豊かな場所に住む少年が使用人用の風呂に驚愕するのだから、砂漠の少年が王族用のそれに触れればその驚きがいかばかりだったか、想像もできぬほどである。

 アーレイドに西、つまり海にはもちろん塩分がある。しかし、海に近い街では、海水から塩を抜く魔術が発達しているらしい。ごく普通の市民であっても、安価でその術や魔法薬を買うことができるという話を聞いたことがあった。

 シャムレイでも風呂の習慣はあるが、それは王侯貴族でなければ体験できぬ最高級の贅沢だ。もちろんシーヴは知っていたから驚きはせぬし、西方の他の街でも経験はあるから、シャムレイのように美女が湯室に侍らなくても不満は言わない。

 スル少年は初めての経験にすっかり興奮し、シーヴがいくらからかっても全く気にならなかったようだ。少年は何度も王子にシーヴと呼びかけそうになり、シーヴは上手にごまかした。幼名であることを説明してもいいのだが、その習慣がない地域で一から話すのは面倒でもある。

 そんなふうに賑やかに湯浴みを終えて広すぎる部屋へと引き返せば、大きな窓からヴィリア・ルーの光が差し込んでいた。

「世界の何処からでも」

 シーヴは誰にともなく呟く。

「女神の美しさは、一緒だな」

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