08 衝撃

「ああ、シュアラ王女殿下。我が名はいささか呼びづらいでしょう」

 だがもちろん、彼はそれに目を伏せるほどは純真ではなかった。笑みを返しながらそんな台詞を述べる。

「リア、或いはラーダと呼ぶものもいます。どうぞ、如何ようにでも」

 母王妃は彼をリアと呼び、姉王女や妹姫などは彼をラーダと呼ぶ。リャカラーダ、と呼ぶのは父王と忠実なる城の家臣たちだけだった。人数的には、それがいちばん多いかもしれなかったが。

「まあ」

 王女は首をかしげた。何故そんなことを言うのか判らない、と言った顔だ。

「わたくし、殿下のお名前を素敵だと思いますわ」

 「シーヴ」は意外に思った。そんなことを言った人間はこれまでいない。彼自身、シーヴの名の方が余程気に入っている。彼は王女に礼の仕草をし、ふと、王女の脇にいる先ほどの娘を見た。

 いることは判っていた。

 目にしなくても――判っていたのだとは、気づかない。

 娘は彼の動きを逐一見ているようだが、別にこれは彼にとって、珍しいことではなかった。

「殿方からは解放されましたの?」

 シュアラの問いに肩をすくめる。

「どうやら殿様方のご興味は、東方の政治や武術にあるようでして。私は継承位も低ければ、武術も堪能ではありません。諸侯方には飽きられたようですな」

 実際には、飽きたのはリャカラーダの方であることは言うまでもなかった。

「まあ、それではわたくしにお話しくださいな」

 シュアラが言う。

「殿下の街の人々、暮らし、ご覧になっていらしたビナレスの街の数々を」

「おや」

 彼はまた、意外に思った。

「そのような話は退屈ではありませんか?」

「とんでもない。わたくし、とても興味がありますの」

「それでは」

 彼はふと、悪戯心を出した。

「一曲、ご一緒していただけませんか? 踊りながら語らうというのも一興」

 第一王女に前もった約束もなく踊りを申し込むというのは、なかなかに勇気の要ることだろう。事実、貴族の若者たちはまだ誰一人として王女にそれを申し入れていない。遠来の「王子」に遠慮しているのか、それともこの姫君は踊りなど好まないのだろうか?

「光栄なお申し出ですけれど、殿下。わたくし、この子を放っておく訳にはいきませんの」

 シュアラは少し困ったように言った。ずいぶんと、田舎娘に親切な王女様であることだ、と彼は思った。

「それなら、そちらの姫君もご一緒に。彼女に適切な踊りの相手はおりませんかな?」

「そうね。……ひとり、いるわ」

 シュアラはにっこりと笑ってそう言うと、広間のどこだかに視線をやってすっと片手を上げた。寄ってきたのは、先の護衛だ。

「お呼びですか、殿下ラナン

 リャカラーダは眉をひそめそうになるのを――堪えた。

 王女専属の護衛、と言う推測はどうやら当たっているらしい。この男は貴族の群れのなかでシュアラ王女だけをその視界に捕らえ、彼女の所作ひとつで希望を理解する。

騎士コーレス、か)

 貴族たちの舞踏会で護衛に当たっていることを思えば、平民なのだろう。ただ、その身から発するものは、単なる王女付きの騎士で終わらせるには惜しい、と思わせるところがあった。

「リャカラーダ様と踊るわ。この子を放っておけないから、お前が相手をなさい」

「畏まりました」

 その背後では娘が赤くなったり青くなったりしている。

(スルみたいだな)

 シーヴはこっそり、苦笑した。

(これは、王女殿下に気に入られれば、苦労するぞ)

 自分のことを棚に上げて、或いは自分を省みて、シーヴはそう思った。

 本日の主役たちが舞台に上がりそうだと見て、宮廷楽士たちは定番の舞踏曲を演奏し出す。東国ではあまり聞かれない曲だが、幸い、教養として知っていた。リャカラーダはシュアラの手を取ると、臆することなく広間の中心へと進み出た。

「どんな話をお聞きになりたいですか?」

「そうね……リャカラーダ様はどのような場所を旅されましたの?」

「北は陸線まで。南はさほど遠くまで行っておりません。西は、こちらの海岸線まで、となりますか」

「まあ、夢みたいなお話ですわ。――東は?」

 リャカラーダは目を丸くした。だが少女は冗談を言ったようだ。くすくすと笑う。

大砂漠ロン・ディバルンには何もございません。あるのは伝承と歌物語ばかり」

「それも素敵ですわ。〈赤い砂〉の伝説は有名ですけれど、ほかにもご存知ですの?」

「ええ、幻の街に砂嵐の塔、大盗賊の亡霊、魔の流砂、目に見えぬ魔物に呪いの泉。お話しするには、一年あっても足りないかもしれませんな」

「それだけお話をご存知でしたら、吟遊詩人フィエテにもなれそうですわね」

「志したことはありますが、音程を外すので諦めました」

「まあ」

 もちろんこれも冗談であり、王女にもそう通じたようだ。シュアラは楽しそうに笑い続けている。

「そんな場所にほど近い、リャカラーダ様の故郷というのはいったいどんな街なのかしら」

「砂、ばかりですよ、シャムレイは」

 事実だった。

「北方陸線からの距離はここアーレイドとそう変わらないでしょう。しかし、シャムレイは熱砂の街です。大砂漠ロン・ディバルンが近い。大河を挟めばすぐその先です」

 王子が言うと、王女は神妙な顔をして、大砂漠など物語のなかだけのことかと思っていた、というようなことを言った。これだけ離れていれば当然だろう。リャカラーダはそれを笑うようなことをせず、自身も海を知らぬときは海に対してそう感じていた、などという話をする。

 優雅な曲に身を踊らせながら、こんなふうにどうと言うことのない話をする。これではまるで本当に、年頃の王女殿下を品定めにでもきたようだ。そんなことを思ったシーヴは内心で笑った。

「ここはいいところですね」

 話の穂を継ぐように、言う。そろそろ、その話をしてもいいだろう。

「街の名も美しい。――翡翠ヴィエル

 そう口にしたのは自らであるのに――急に心臓が音を立てたような気がした。

「王子殿下は魔術の言葉にもご堪能でいらっしゃるのね。ええ、アーレイドは翡翠」

「不思議ですね」

 だがその動悸はすぐに去った。それ故、王子はそれを特に気にすることはしないまま、続ける。

「このあたりで翡翠が採れるとは聞きませんが、かつてはあったのですか?」

「いいえ、ありませんわ」

 王女は首を振る。

「ただ、美しい玉が伝わっていますの。南方からそれを持ちきたものがアーレイドを作ったと言われております」

「建都の礎という訳ですね」

 返しながら――また鼓動が早くなるのを感じた。

「美しいのでしょうな」

「ええ、それはもう。儀式のときにだけ取り出すのですけれど、アーレイド王家のもの以外には見せられぬしきたりなのが残念ですわ。見せたいと思うこともありますもの」

「私も見てみたいものですな」

 何気ないふうに言いながら――本音を語った。

「その、翡翠のなかの翡翠アーレイド・ヴィエルを」

 口にした瞬間――何かが走った。まるで鞭で殴られたかのような強い衝撃。だがそれは身の内から湧き上がったもので、外からでは、ない。

 何かが聞こえた。

 声が聞こえた。

 だが、言葉は何も耳に残らなかった。

(気のせい、か?)

「――ファドック?」

 王女の呟きが聞こえた。

 見ると、すぐ近くにいた──いたことなど見ずとも知っていたとは、彼はまだ判らないのだ──先の騎士と娘に王女が声をかけている。娘は酷く青い顔をしており、倒れる寸前と言った様子だ。

「どうしたの。真っ青だわ」

(初めての宮廷で、慣れぬ舞踏などすればそうなっても当然かもしれないな)

 自身の衝撃と比較することは何故だかせず、リャカラーダはそんなことを思った。

「何でも……」

 弱々しく首を振り、掠れた声を出す。何とも痛々しい。リャカラーダは娘に手を差し伸べてやりたい気持ちになった。

 だが、自重する。それは、客人たる王子の役割ではない。

 娘のためにシュアラが求めた退場の許しを彼はもちろん与えた。ずいぶん心優しい王女様だ、とまた思う。「優しいふり」を狙って演じるのならば、やるのは身分の低い娘の身を案じるまでで、遠来の客人を放り出したりはしない。

 護衛と王女に連れられて娘は姿を消した。広間にいる誰もが、その扉が閉められるまで彼らを見ていた。リャカラーダも同様だ。

 だがシーヴは、扉の向こうに去ったその存在を去ったあとまでも──見つめ続けていた。

 感じ取っていた。「その存在」がそこにいることを。

 だが、「その存在」とは――《何》だ?

「王子殿下」

 かけられた声に現実が返ってきた。

「シュアラ王女様の代わりとはとても参りませんけれど、よろしければわたくしたち、西の暮らしに退屈している女たちに何かお話をしていただけませんこと?」

「──喜んで、させていただきましょう、姫様方」

 彼はにっこりと笑った。こうなれば、彼は「リャカラーダ」の第二陣を行うだけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る