10 騎士ごときが

「シーヴ様?」

 突然そんなことを言い出した主人に、スルは困惑する。

「あの。やっぱ、ミンがいた方がよかったんじゃないですか?」

 少年の言葉に笑った。

「傍らに女もいないのにこんな台詞を言えばおかしいか? 言っておくが、俺は毎晩女を抱かなけりゃ気が済まんほど好き者でもないぞ」

 少年は少し顔を赤くしたが、シーヴはそんなスルを振り返ることはしなかった。ただ――その満ちていく月を見ている。

「おかしな気分だ。〈翡翠の娘〉が近いような気がする」

「じゃ、じゃあここの姫君が予言の?」

「いや」

 シーヴはやはり、夜月を見上げたままで言った。

「あの姫ではない――ように思う」

「どうして……ですか」

 スルは遠慮がちに声をかけた。シーヴが、彼を相手に話しているような気がしなかったのだ。

 王子は何かを――自身を探るかのように呟き、スルの応答を必要としていないかのようだった。

「判らない」

 シーヴは返答したが、やはりそれはスルに答えたと言うよりも自らに語りかけているようで、その声はくぐもっていた。

「〈予言〉は本物だ。ならば、その娘に行き会えば必ず判るはずだ。そう、思っていた」

 シュアラ・アーレイドは翡翠の城の姫かもしれないが、彼の翡翠の娘ではない。そんな気が、していた。

 ならば――?

 何かが、引っかかった。

 自分は何かを見落としては、いないか? そんなふうに自問した、その瞬間である。

 ぱあんっと何かが割れるような音がした。

 シーヴはびくりとして――そのような音などどこからも聞こえていないと気づく。スルに問いかけようとして、言葉を失った。

 何も見えない。

 世界は、真っ白になった。

「シーヴ様!?」

 スルがびっくりしたような声をあげ、ぱっと彼の側に寄るのが判る。――と、視界は戻ってきた。

「いまのは……」

「どうしたんです、お疲れなんですか? そんなふうにふらついたりして」

「ふらついた? 俺が?」

 尋ね返して、そうかもしれないと思う。

 ほんの数トーア、彼は世界から遮断された。いまのは、いったい何なのだろう?

 答えは、出ない。

 だが――。

「ちょ……シーヴ様、どこへ!」

 スルの声は聞こえなかった。シーヴは素早く身を翻すと、与えられた夜着のままで部屋の扉へと向かう。

 無造作にそれを開ければ、脇に控えたふたりの護衛兵は目をまん丸くし、それを取り繕うように何か御用でしょうかと問うた。この役割をするウーレの若者を連れてこなかったことを一リア後悔し、リャカラーダは尊大に、構うな、と言って広い廊下を歩き出した。

 そう言われても兵としては放っておく訳にもいかず、彼を追ってくる。

「お待ち下さい、殿下。そのように……出歩かれては」

 まさかシャムレイの王子として歓待したあとに彼に害を為そうというものもいるはずがない。護衛などは名ばかりで、素性と目的のはっきりしない王子の見張り同然に決まっている。

 だが王子が突然その部屋を飛びだすなどとは思わぬだろうし、仮に客人をとどめる権限を与えられていたとしてもそれを行使する勇気はなかなか出ぬだろう。

「お待ち下さい! どちらへ」

「知らぬ!」

 兵の必死の呼びかけに吐き捨てるように答えた。事実、彼は自分がどこへ行こうとしているのか知らないのだ。何かに導かれるように、シーヴは半ば駆け足で勝手の判らない城の階段を降りてゆく。

「シ……リャカラーダ様っ」

 スルの声が遠い。王子ならばともかく、召使いを押さえつけるくらいならば兵の判断でもできるのだろう。

 それでも振り返ることなく、心のなかでスルに謝罪して――傷つけられるようなことはあるまい――彼は歩を進め、ひとりの兵がおろおろとそのあとをついてくる。

(いる)

(どこだ――近いのに)

 ここにいる。この、同じ王宮のなかにいる。彼の〈翡翠の娘〉が。

 

 出会えば必ず判るとそう信じてきた啓示なのか。

(こんなにはっきりしたものを見逃すものか)

 予言を信じて旅をすると言うそれは嘘ではなかったけれど、シャムレイに閉じこもっていたくない口実のひとつでもあった。予言という曖昧な言葉から形成されるそれがどれだけ彼に力を与えるものかは判らなかった。

 ここまで激烈なものが彼を襲ったことはなかったのだ。このような衝動に駆られ、後先を考えずに走り出したことも。

(どこだ)

 彼の足は先へ先へと進もうとしており、ものの一カイも彷徨ってはおるまい。

 だが、足は止まった。彼の目の前に現れた、人影がそれをとどめた。

「――どちらへ行かれるのです、殿下」

 背後の兵が安堵したように息をつくのが判った。

「何者だ。我が前に立ちはだかるのならば、その名と身分所属を明らかにせよ」

 尊大な態度のままで、リャカラーダは問うた。見忘れた訳ではない。先の宴の席にいた、シュアラの護衛。

「ファドック・ソレス。シュアラ・アーレイド第一王女殿下付の護衛騎士コーレスにございます」

 宴のときよりも簡素な制服を着た騎士は、臆することなくはっきりと告げた。騎士であろうと考えた自身の予測が当たっていたことに満足するよりも、彼はかっとなる。

「騎士ごときが、王子の行方を塞ぐか。身の程を知れ」

「畏れながら、殿下」

 ソレスと名乗った騎士は怯まず、続ける。

「ここはアーレイド城。殿下の宮殿ではございませぬ」

「ならばどうする。勝手な真似をする王子を捕らえ、拘束するか」

「――必要とあらば」

「ほう?」

 もし腰に剣を帯びていたならば、リャカラーダはそれを抜いたやもしれなかった。だが彼は、そのまま寝台に横になるだけの格好だ。武器になるようなものは、胸飾りの留め針ひとつ、身につけていない。

「言うではないか、騎士コーレス。ならばやってみせろ、我が道を塞ぐものは、許さぬ」

「殿下」

 一方でソレスは帯剣していたが、それを抜く気配は見せなかった。少なくともまだ、というところだろうか?

 ソレスは先の言葉を繰り返した。途端、シーヴははっとなる。

 もう、消えていた。

 あんなにはっきりと「ここにいる」と告げていた感覚が、まるでうたた寝から無理に目覚めさせられる前に見ていた夢のように、掴みどころなくかき消えていた。

 浮かんだ単語を疑問に思う余裕はなかった。〈それ〉が消えたことの方が彼には衝撃だったからだ。

「何処へも……行かぬ」

 シーヴはそう答えると、踵を返した。後ろにいた兵がほとんど反射的に道を空ける。シーヴはそれに気づいた風も見せず、駆け下りるようにしてきた階段を一歩ずつ登っていった。ソレスに促された兵がまた同じようについてきていることにも気づかない。いや、気に留めなかった。

(消えた。そして)

(もうこの館にはいない)

 不思議なほどの確信が彼を訪れた。

 背後に置いてきた騎士が何を思うかなど想像することもないまま、シーヴは廊下を引き返していく。

 兵に押さえられたままでいたスルを解放させ、部屋に戻ると、ぱたんと音を立てて戸を閉めた。

「あの……シーヴ様、何があったんですか?」

 少年の言葉には答えなかった。彼自身、何があったのか判らないのだから。

 判るのは、ただひとつ。

 もう、ここにはいないこと。

 彼の探し物はその目から隠され、彼には見つけられない。

 少なくとも、いましばらくは。

 彼にこのような確信を抱かせるものは何なのだろう。

 夜の魔力。

 翡翠の――力。

 狂っている。歯車が狂っている。助け、支え合うはずのものたちが、互いを疑い、警戒し、一歩間違えば血を流し合うところだった。

 彼はそのようなことは何も知らぬ。だが同時に、知っている。

「――スル」

 王子は、ゆっくりと声を出した。

「支度をしろ」

 彼は、朝を待たずにこの城をあとにすることを決意していた。

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