03 発現
――いちばん気がかりだったのは、自分自身でも笑ってしまうことに、母アニーナのことだった。
世話など無用と息子の給金を受け取らない彼女に無理矢理ラルを送りつけたところで叩き返されるに決まっていた。城ではエイルが文字を習う時間など結局なかった上、アニーナも文字など読めぬのだから手紙も出すことはできなかった。
だから、彼は休みのたびに生家を訪れ、豪華な――これまでのものに比べれば、という程度だが――土産を買っていったものだ。
それが、このひと月は連絡ひとつ入れられなかった。もちろん面倒に思ったのでもなければ、忙しさに紛れて忘れたのでもない。
外部との連絡は、一切できなかった。
初めのうちは禁じられてもいたが、何しろ彼自身、正直に言ってそれどころではなかったし、時間もなかった。
本来ならばじっくりと基礎から学び、少しずつ小さな技から覚え、繰り返し鍛錬していく。
だが彼には時間がなかった。師ももちろんそれを知っていて、可能な限りの速度で少年に知識と技を伝授していった。
と言ってもたかだかひと月だ。彼が手にする技などは実にささやかなものだった。
ただ、秘めたものだけが──尋常ではない。
あの日。彼が〈変化〉の訪問を受けたその夜のこと。
エイルはこっそりと城を出た。
下町で買ってあった大ざっぱな服は、その大きさがいささか合わなかったところでどうにでもなる。エイルは震える手で腰帯を結び、誰だったか、年上の使用人からもらった古着のフード付きマントをかぶって、裏口をくぐった。
しとやかな足取りで遠慮がちに、門番に申し訳なさそうに会釈をすれば、けしからぬ兵士が恋人を連れ込んだのだろう、とでも思われるはずだ。先ほどの女装がこんなところで役に立つとは思わなかった。
ともあれエイルは、息を切らせて深夜の
牢や檻に閉じこめられたという意味ではない。
それはその唐突かつ強力な発現を調整するためだった。
──そう、城の厨房の下働きをしている少年に魔力の発現が認められたため、魔術師協会がそれを保護して教育をする、というのが、魔術師協会がアーレイド城に対して行った説明だった。
嘘ではなかった。大方は。
あれから約ひと月。そろそろひと月半だろうか。
少年の先に見える道はまたも、想像だにしない方向へ傾いたのだ。
「準備はいいか」
「リック師」
エイルは振り向くと、叩かれた薄い戸を開けて初老の師匠を招き入れた。
城で彼に与えられていたものを思い出せば、ここは荷置き場にもならぬほどの狭苦しさだった。街で寝泊まりしたことのある最低限の宿よりは辛うじてまし、と言ったところだろう。
だが、エイルにはこれくらいがちょうどいい。
通常、協会に部屋を持つのは導師級の術師だけである。エイルが寝泊りを許されたのは、本来、外部の人間が協会を訪れたときなどに使われる小部屋のうちのひとつだった。
この部屋はエイルの仮の宿となっていた訳だが、それも、今日で終わり。
「あのー」
少年は遠慮がちに声をだした。
「俺の顔に、何かついてます?」
リック導師がじっと見つめていることに気づいたエイルは不審そうに言った。いや、と魔術師は首を振る。
「よくやったものだと思う、同時に、教え足りないことが多すぎる。このままお前を行かせてしまうのは、師として心配だ」
「まあ、心配なら多分、俺の方がしてますよ。はっきり言って、これ以上ないくらいびびってます」
「だろうな」
師は嘆息する。
「あ、でも、こっから出てくことが不安なんじゃないですぜ」
慌てたように少年は言った。
「行かなきゃならないんだから行きます。ただ、ちょっとだけこれが」
彼は、適当に印を切る真似をした。
「心もとないだけで」
「そうだろうな」
リックはまた言った。
「お前は
「あの、
「彼が必ずしもフィエテの姿をしているとは限らない。彼はお前を気にしているはずだから、いずれ顔を見せるかもしれないが、彼なりの独特な理由によってその気配すら見せぬかもしれん。お前のためには、彼の導きがあるとよいのだが」
導師はそう言うと、祝福の印を切った。それに返礼しながらエイルは、自分にこんなことまで覚える頭があったとは驚きだな、と考えていた。
宮廷作法だけでも十二分な驚きであったのに、まさか魔術師の仕草に――魔術そのものなど!
どちらも、下町の少年にはかけらも関わりなどなかったはずだった。だというのに、向こうの方から否応なしに彼にちょっかいをかけてきた。彼の歩調を乱し、進む先を
いや、そうではなかった。
正しい道へ――導いたのだ。
「さあ、行こう」
「あの、さ、
エイルは少し迷ったように言った。
「やっぱ、こいつを着ないと駄目?」
「何を今更言っている。もう慣れただろう」
「そりゃ、このなかで着るのはね。でもこれを着て外へ行くって? 城へ?」
「魔力の発現があって、そのためにここに連れてこられた、のだろう、お前は」
「……そういうことになってるんでしたね」
「ならば、お前は
師の台詞に、少年は息を吐いて黒ローブを身にまとった。このひと月の間ずっと羽織っていたそれにはもう違和感を覚えなくなっていた。
城の制服にもいずれ慣れる、と少年に言ったファドックを思い出す。まさか彼がこんな格好に慣れるなどと、誰が思っただろうか?
通常、多くの場合は、どんなに遅くとも十二、三歳くらいまでに魔力の有無が判るものだ。それがたとえ世界を滅ぼすほどの大いなる力であっても、全く何の役にも立たない微細な力であっても、同じこと。
エイルは十八だ。その年齢になって
と言ってもたいていの――魔術師以外の――人間は、そのようなことは知らぬ。
エイルが厨房に姿を見せなかった朝、最初は、前日の疲れのせいで寝坊でもしたのだろうと思われた。昼を過ぎても少年が慌てて現れないことをみなが不思議がったとしても、戦場の料理人たちはその場を離れることはできない。一段落ついた頃にトルスがエイルと親しい使用人を見つけて少年の消息を問えば、部屋にはいなかった、てっきり早くから厨房へ出たと思っていた、と返ってきた。
少年が城にきたばかりの頃に引き起こした逃亡騒ぎを思い出した者も多く、その噂がなかなかの勢いでシュアラ王女とファドック・ソレスの元に届く、直前だった。
即ち、エイルという名の少年に魔力があると認められたと。年齢が行ってからの発現は当人にも周囲にも危険をもたらすことがある故、彼を協会で保護すると。
魔術師など、関わらずに済むのならば関わりたくないと思う者も多い。日々の暮らしに退屈を覚える上流階級の人間たちもそれは同じであり、王をはじめとするエイルの雇い主たる〈城〉が勝手に雇い人を連れていったと協会に抗議するようなことはなかった。
トルスだけが――少なくとも目に見えるところで――難色を示したが、もはや少年は城にはおらず、料理長は立派な働き手となってきた少年を手放すことを嫌でも承知しなければならなかった。
もしもシュアラがエイルを連れ戻せと言ったならば、ファドックは
少年が挨拶もしないで出ていった「無礼」にはひとしきり文句を言ったし、口には出さずとも親しくなった少年が去れば寂しいだろうとレイジュたち侍女も心配したが――これには、このところ抑えられがちだった姫君のわがままがまた戻ってくるのではないかと言う心配も含まれた――王女殿下は、魔力があると言うのなら仕方がないじゃないの、とあっさりしたものだった。それこそ、少なくとも表面的には、と言ったところかもしれないが。
そう、彼は誰にも何も言わずに城を出たし、魔術師協会は王室に嘘をついてでも、いや、嘘と言う訳ではなかったが、いささか隠し事をしても、少年を保護する方を選んだ。
「リ・ガン、などと言って判る者がおろうか? それが実在するものだと知った私ですから、伝承の片隅にあるその名を見つけるのに苦労した」
「『それ』自体に特殊な力はなく――ただ、翡翠を目覚めさせるための触媒」
少年は呟いた。
「リ・ガンが目覚め、〈鍵〉を得て、守護者と翡翠のもとへ行く。本当は、そういう順番のはずだった」
「――判るのか?」
「少しだけ」
エイルは曖昧にうなずいた。
「俺が『それ』だって納得した訳じゃない。でも、あんな……ことになったら、とにかく、物事が尋常じゃないってことは判る」
少年が自嘲するように肩をすくめると、師はどこか気の毒そうな顔をした。
リックは、たとえエイルに対する魔術的な興味を覚えていたとしても、それをあからさまにすることはなかった。少年がどんなに稀有な存在であるのか知っているのに――エイル自身は、いまだに知らないと言ってもよいくらいだったが――まるで彼が息子であるかのように接してくれた。
話を聞けば、「ひと」ではなく「もの」として扱われることがあっても不思議ではないというのに、リックはそうしなかった。だから、クラーナがリックを指名したのだ、などとは、知らぬ。ともあれ、おかげで彼は協会から逃げ出しもせずに――逃げ出すことなど不可能だったろうが――この期間を過ごせたのだ。
「では、行こう」
リックはまた言った。
「これはお前の最終試験も同然だと、判っているな?」
導師の言葉に、エイルは真剣にうなずいた。
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