02 このままでいたい

「……ファドック様。巧く言えないんすけど、俺」

 エイルはファドックの逡巡には敢えて触れず、自身の話をすることにした。

「あの……俺、酷く、悪い予感がするんです。その……シュアラとかアーレイドとかじゃなくて、俺、の話なんで、ファドック様にはどうでもいいかもしれませんけど」

「何を馬鹿なことを言っている。心配ごとがあるなら言ってみろ」

「ファドック様は聞きませんでしたか。あの王子、翡翠ヴィエルの話をしてた」

「聞こえていた」

「俺はそれに驚いて……でももっと驚いたのは。それを聞いたとき、雷神の子ガラシアどころか、雷神ガラサーンその人に打たれたかと思うような、衝撃を受けたこと、です」

 思い出しながら、エイルはようよう言った。

(でも俺は)

(あのとき、あいつに触れられた訳じゃない)

 それが、違う。これまでと。

(これまで? つまりファドック様と、クラーナ)

(違う)

(ふたりもまた)

(同じものではないのだから)

(何だこれは?)

(何故そんなことが判る?)

(いや、何故判らない?)

(俺が……最初に目覚めていなければならないのに)

「では」

 ファドックの声が彼の思考を引き戻す。

「かの王子もお前の〈翡翠の宮殿〉に関わりがあると?」

「まさか! いや、判んないっす、でも、んなの、馬鹿げてます」

「お前がそうして否定するから、私もお前を妄想狂だと思わずに済むのだがな」

「まあ、そう思われても仕方ないことばっか言ってますもんね、俺」

「そうは思わないのだ、と言っているだろう」

 ファドックは笑った。その笑いはどこか乾いていた。

「馬鹿げている、か」

「……ファドック様?」

「私は、あの王子殿下を見た。そして、彼を――警戒するなど馬鹿げていると、感じた。それが」

 男は言葉を切った。

「――怖ろしいのだ」

「怖ろしい、だって? ファドック様が?」

 目を丸くして繰り返すエイルに男は苦笑する。

「私には怖いものなどないように、見えるか?」

「……見えます」

 エイルが答えると騎士はまた笑った。それは先のものより少し明るかった。

「そう在るとよいな。怖れも迷いも知らねば、強く在ることができように」

「なに、言ってるんですか。ファドック様みたいに強い人を俺は……知らないのに」

「そうか。そう在ると――よいな」

 だが騎士はどこか上の空でそう返事をした――だけだった。


 ぱたん、と後ろ手で扉を閉めて、身体中の空気を全て吐き出すかのような深い吐息をついた。

 真夜中にはまだ早い。ヴィリア・ルーの光が差し込む窓に、少年は何となく近寄った。

 命じられて訪れた部屋で、シュアラは、エイルの苦労を知らなかったと謝罪をしたが、この日あまりに衝撃を受けすぎた彼は、こんな驚くべきことも簡単に受け流してしまった。

 リャカラーダの意図は判らないが、少なくとも王や王女に害を為そうということは考えていないようだ、だが警戒は怠らない、というような話を護衛騎士がし、シュアラはうなずいた。

 シュアラは何も気にしないで異国の話に耳を傾けていいんだ、と少年は言った。少女はそれをどう受け取ったのか、それには曖昧にうなずいて、これまた驚くべきことに礼の言葉まで口にした。

 どうやら「あんな格好」までしたエイル少年の評価は上がったようだが、恥を思えば決して心楽しいことではなかった。もしかしたら王女は、彼女のために剣を訓練したという少年に感動したのかもしれないが、当の本人はそんなことを思いもしなかった。

 王女と護衛騎士からもう休むようにと言われたエイルは、「エイラ姫」のことは既に知っている者以外には絶対に誰にも言わないとシュアラに約束させてから退出し、いまやすっかり習慣となった風呂ウォルスに浸かってから自室へと戻ったのだ。

(月が満ちる、な)

 まだ乾ききらない髪に触れながら、ぼんやりとそんなことを考える。

(何だろう、落ち着かない)

(苛々する……違うな、これは)

(不安、だ)

 月が満ちる。時が流れる。〈変異〉の年が動いていく。

 月の女神ヴィリア・ルー翡翠ヴィエル

 何だか少し似てる、などと少年は思いながら月を見つめる。城の奥、彼の広い自室の何倍もある部屋で、同じように月を見上げている者がいることなどは──知らぬ。

 月が満ちる。翡翠ヴィエルが、満ちる。

 

 彼の見ている前で、真白い月が──緑色に染まっていった。

 心臓が大きな音を立てる。

 城の宝物庫に眠る、美しい玉。

 そんな話が甦った。

 南方より──持ちきたと。

(翡翠の宮殿)

 ぐらりと世界が揺れた。静かなる夜の世界のなか、彼を支える者も彼の意識をとどめるものも、そこには無かった。

(回る)

(駄目だ、やめろ)

(くるな、俺は)

(俺は──このままでいたい)

 下町の少年のままで。城に上がっても、厨房の少年のままで。

 シュアラをからかい、からかわれ、ファドックやイージェンから訓練を受け、トルスに怒鳴られ、ヴァリンに説教を食らい、このままで──。

 だがそれは叶わぬこと。

 少年はエイルという名の存在でありながら、決してそれだけではなかったのだから。

 生まれたときから。

 それとも生まれる前から。

(やめてくれ!)

 うずくまる少年に翡翠の月が光を投げ続ける。

 その光がまるで針のように少年を刺した。いや、彼を刺激するのは月ではない。

 気づいているのだ。翡翠ヴィエルが。その、三つの存在に。

 呼んでいる。泣いているかのように。

 そう、呼んでいる。

(俺は)

 全身を激痛が襲った。

 痛み、と言うのとは少し違ったかもしれない。それは強烈なる──変化へんげ

(俺は──じゃない!)

 否定しても、無駄だった。判っていた。判りたくないだけ。

 ──何刻も時間が流れたように思われた。だが実際には、月の位置はほとんど変わっていない。

 衝撃は去った。

 少年は息を吐きながらゆっくりと身を起こす。

 彼に何が──起きた?

 不意に、彼の肩に触れるものがあった。エイルはびくりとしてとびすさり──誰もいないのを確認する。

 と、バランスを崩した。身体がふらついたのではない。下衣の裾を踏んだのだ。倒れ込んだ拍子に脱げかけでもしたのだろうか、と彼はそれを直し──また肩に触れるものに気づく。

 何だろうと手を触れながら、その感触と目に入ったものに呆然とする。

 さらりとした手触りは、そこにあるはずのないもの。彼の足下から続くその影は彼の影以外では有り得ないながら、見覚えの――ない。

(何──)

(何だ、これ──? いったい)

 理解し難かった。

 これは、彼が無知だとかどうとか言う問題ではない。たとえ、魔術を学んだシュアラでさえ、これにどう説明を付けられると言うのだろう。

(君に関わる『アーレイド』……それとも『ヴィエル』の意味)

(それは魔術の領域に近い)

(気になることがあったら、魔術師協会リート・ディルを訪れるんだ)

(リックという導師に、クラーナの紹介だと言えば)

 いつだかの吟遊詩人の言葉が、たったいま囁かれたかのように、エイルの耳のなかで響いた。

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