06 キド伯爵
その大広間は、先だって
実際には、高さを取って広く見えるように作られているだけでそう変わらないのだが、建築の知識などない少年にはそう見えた。城が広いとは思っていたが、こんな空間まで収められていたとは驚きだ、と。
明るく優しい魔術の灯が豪奢な絨毯や家具調度、飾られた絵画や彫刻、気合いを入れて着飾り、部屋に入ってくる貴族たちを照らす。
エイルにとって何とも有難いことに、通常、貴族の殿や姫が大広間に入るときに告げられるお触れは彼には勘弁されていた。これは別にエイルの心情を慮ってではなく、この試み――企み――を知るものはごく少数だからだ。公式のお触れで身分を偽らせることはできない。
見知らぬ姫がシュアラの近くに行けば不審に思う者も当然いるだろうが、田舎から遠縁の姫が出てくるという話はそう珍しくなく、夜会やこのような行事に行き当たればそれに参加させてやろうと主が思うのは自然なことだ。そう言うときは派手なお触れなどしないし、キド伯爵の縁の者だと判れば、ファドックの、ひいてはシュアラの近くにいることも奇妙には思われまい。
(そういや)
エイルはふと思った。
(ファドック様とキド伯爵とやらの関係は、よく知らないな)
彼の縁と言うことになっている初老の伯爵は、エイル――それともエイラをどう思ったとしても、何も言わずにそのエスコート役をファドックから引き受けた。こうして伯爵の隣にいれば、特別の紹介をしなくてもキドと関わりがある姫であろう、と誰もが勝手に思ってくれる。
キドはもちろん、この企みを知っているはずだが、賛成の上なのか渋々なのか、見て取ることはできない。エイルが穏やかな顔つきのこの白髪の紳士と言葉を交わす機会などこれまでなかったが、今日もこうしていたところで、それは同じだろう。エイルは声を出す訳にいかないのだから。
緊急に開かれた宴は、それでもアーレイドの伝統に則って正式に行われた。他都市の王子を迎えるとなれば当然のことだが、これは、アーレイドが秩序だって治められていることを王子に示すことにもなった。
貴族たちが整列して待っているところに王と王女が入室し、定められた手順で定められた諸侯が陛下と殿下に礼をする。そして客人の登場だ。
噂の、東国の王子。
リャカラーダ・コム・シャムレイ第三王子をエイルが初めて見たのは、この瞬間だった。
噂通りの浅黒い肌。それを否が応でも引き立てる純白の長衣は完璧な採寸を以て作られているらしく、ともすれば引きずりそうに見えるのに決して床に触れなかった。頭に白い布を巻いているという話だったが、それは屋外でのことらしい。王子はその黒髪に何も身につけておらず、その柔らかい髪は彼がさっと歩を進めるたびにふわりと波だった。薬を塗って髪をなでつける習慣のある彼らから見ると不作法にも見えかねないが、
薄い唇と暗い色の瞳からは表情を読みづらかったが、冷たい印象はなく、ただひたすらに――異国を思わせる。
エイルは身が引き締まるのを感じた。
王と王女に礼をし、凛とした声で挨拶をする姿を見れば、王族を騙った
だがそれでも、この二十過ぎほどの若い男が何を考えているのかは判らないのだ。
異国の印象は興味の対象であるとともに、彼が未知の存在であることを痛いほどに思わせた。
エイルはその王子から目が離せなかった。
印象は強いが取り立てて美男子と言うほどでもないし、仮に美男子だったとしてもぽうっと見とれるような趣味はない。
ただ、彼の目はリャカラーダが広間に姿を現した瞬間からそこに釘付けとなり、えも言われぬ緊張を覚えただけだ。
(では――)
(これが、その男か)
そんな思いが浮かぶ。
(何者なんだ?)
シャムレイの第三王子。
いや、そうではない。
そんな言葉が、彼の何を表す? 何も表すものか。リャカラーダという名前も、彼を表しはしない。何故なら、彼は――。
幾たび目になるか、
マザド・アーレイド三世が、宴の開始を告げた。
宴がはじまれば、人々は楽しげに――もちろん、その品を崩すようなことはないままで、その列からあくまでも優雅に離れていく。
「客人」の席はマザドの隣、シュアラとふたりで王を挟むことになる。貴賓として当たり前の位置だった。
もしリャカラーダを疑うと言うのならばそれは危険な位置やもしれなかったが、その場所ならばアルドゥイスやファドックがすぐ近くにいても何も不思議ではないし、事実、彼らはすぐ脇に控えていた。
見知らぬ人々の笑いさざめく声。彼の触れたことのない世界。
一度だけ、吟遊詩人を招いた宴を経験したとは言え、それは仕事として、給仕としてだった。このような仮の、偽の形とは言え「出席」「参加」など、自身がするはずなどないと思っていた。当然ではないか? 想像だって、してみたことはない。
何とも居心地の悪い豪華な空間。少年はどうしていいやら戸惑う。早くシュアラの隣に行けぬものか。
これは必ずしも王女を心配したのではなく、貴族たちに彼の正体が見破られはしないか、と言う不安も占めていた。
キドの関係者などではないこと。姫君でもないこと。
正直に言えば、後者の方が怖ろしい。
エイルはこっそりと隣のキド伯爵を見上げた。
伯爵はそれに気づくと、じろりと言った様子でエイルを見やる。思わず首をすくめた少年――それとも姫君――を一
「ファドックが世話になっとるそうだな」
そっと低い声がかけられた。エイルは目を見開くと、ふるふると首を振る。どこをどうしたら、自分がファドックの世話などできるというのだ?
「お前の話は聞いている。一度会ってみたいとは思っていたが……こんな形とはな」
伯爵は苦笑し、「エイラ姫」は困るやら恐縮するやら恥ずかしいやらで、ひたすら身を小さくした。
「それにしてもずいぶんと美人に仕上がったものだ。早くファドックがお前を連れにくるとよいのだが。紹介してほしいなどと言われては、私もお前も面倒だからなあ」
そう言って白髪の多い頭に手をやると伯爵はまた優しく笑う。エイルもつられた。このような無茶苦茶な企みに乗ってくれているのだし、何よりファドックが信を置いている貴族なのだから決して悪い人ではないだろうと思っていたが、予想していたより親しみやすいようだ。
一方で壇上に目をやれば、この広間の中で最も高貴な三人は、何を語らうのか談笑している様子である。東国の話でも聞いているのだろうか。世界を知りたいと言うシュアラは、たとえそれがどんな法螺話だとしても喜ぶだろう。
広間では宮廷楽師たちが人々の聞き慣れた――エイルは初めて聞くが――定番の舞踏曲などを演奏しはじめ、人々は飲み食いする者、語り合う者、踊る者たちに分かれはじめた。
「これは、キド伯爵」
となると、当然、目新しい娘を連れているキドに話し掛けてくるものもいる。エイルは隠れるように立ち位置を一歩下げた。無論、隠れられるはずもなかったが。
「珍しいお連れがいらっしゃいますな。新しい奥方ですかな?」
この冗談にエイルは吹き出しかけたが、どうにか堪えた。伯爵の方はそんな馬鹿げた言い草にも余裕綽々である。
「レグ男爵もお変わりないようで。これは甥の嫁の妹の従妹でして」
キドはさらりとそんな台詞を吐く。
「年頃の娘に宮廷を訪れさせてやりたいと言う縁戚の願いを受けること、男爵も一度ならずご経験でしょう。だがまさか男爵は、娘御よりも年下のこの姫に踊りを申し込みにこられた訳ではありますまいな?」
「これは、やられましたな。なあに、私は諸侯を代表してやってきたまでですよ。伯爵のお隣に遠縁であろうと何であろうと女性がいるなど、久しく見なかった。閣下ご自身のお相手でなければ、かの
エイルがこれに抗議の声をあげずに済むには、全身全霊をかけなければならなかった。
冗談にしてもきつい。きつすぎる。方向性はいささか違うが、キドも同じように感じたようだった。
「ご冗談を。あれは何かあれば、まちがいなく嫁より姫を採るような男ですぞ。私なら、そんな男に娘をやろうとは思いませんな」
キド伯爵の冗談――それとも本気――にレグ男爵はひとしきり笑い、どうやら伯爵がそれ以上エイルを紹介することもなければ、彼女に相応しいどこかの若者を教えてほしいとも言われないことに気づくと、挨拶をして背を向けた。エイルはほっと息をつく。
「素っ気なくしたつもりだが、却って興味をひいたかな? では仕方がない。目立つかもしれないが、殿下のところに参るとしよう。よろしいか、
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