07 今度、教えてやろう
「ふうん、そんなにお姫さんに気に入られちゃったの、この馬鹿は。ならどうぞ、とっとと持ってってくださいな、セル。ときどきは顔見せに寄越してくれれば、この母は何も言いませんよ」
「少しは息子の意を汲めっ、鬼母っ」
「嫌だねえ、この子は。母さんが馬鹿息子といい男のどっちを取ると思ってんのさ」
「彼が仕事に慣れれば、もちろん空き時間は好きなように使えます。彼は下僕でも囚人でもないのですから」
ファドックはアニーナに返答をしたが、目はエイルに向けたままだ。
「無理矢理連れ戻すつもりでよく言いますね、ファドック様っ」
エイルは悲鳴のような抗議の声を上げる。
「もちろん、それが姫のご命令だからな。こい、エイル」
「……嫌だって言ったら?」
「お前自身が言っただろう」
ファドックは笑いもせずに言った。
「無理矢理、連れ戻すまでだ」
鍛えた右腕が少年の左手首を掴んだ。エイルは無駄と思いつつ抵抗を試みるが、言うまでもなく無駄であるばかりか、アニーナが楽しそうにファドックに協力するのだから逃げようがない。
「観念して行っといで、エイル。お前から投げ出すこたないよ、お姫様があんたに飽きるまで、遊んでくればいいじゃないか。せっかく迎えにきてくれたっていうのに、その態度は何だい」
「これが迎えか、これがっ」
「どうするんだ、エイル。母君のお許しはいただいたが、お前自身は」
しっかと手首を掴んだままで、ファドック。
「……俺は」
エイルはもう一度、その左手に力を込めた。
「嫌です、よっ」
言うなりぐっと左腕から身体をひねってファドックから逃れようとするが、叶わないどころかそのまま左肩を押され、舞踏でもしているようにくるりと一回転してしまう。と思うと今度は両手首を掴まれ、しまったと思う間もなく――騎士の肩に荷物のように担ぎ上げられる。
「そんなふうに力を入れたり大きく呼吸をするようでは、簡単に攻撃を見抜かれるぞ。――今度、教えてやろう」
「ちょっと! こりゃないでしょっ。俺は酒樽じゃありませんよっ」
「そりゃあ、酒樽はそんなふうに文句は言わないだろうからね」
息子を指さして笑いながら母は言い、エイルを脱力させた。
「判った、判りましたからっ。下ろしてくださいって! 逃げないからっ」
「誓うか?」
どきりと――した。
誓う。
「……逃げないっ、逃げませんっ、何にでも誓うし、おばちゃんの説教でも何でも受けるよ、だからこれはやめてくださいっ」
だがエイル自身、何にどきりとしたのか判らなかった。気を取り直すように、そう叫ぶ。
「ヴァリン殿のことか」
ふっと笑い声がした。エイルは安堵する。護衛騎士ファドックから、その接頭語が――取れたように思えた。
「いいだろう」
ひょい、と逆さまだった視界が正常に戻る。いくら身体ができていないとは言え、エイルも十八歳の男だ。そうそう力持ちにも見えないのに、ファドックは軽々と彼を上げ下ろしする。何だか少し、悔しかった。
「トルスの罵声も覚悟しておけよ」
「判ってますよ、あとレイジュに笑われることもね」
諦めたように――実際、諦めた――エイルは言うと、ファドックを見上げる。すぐ目の前に下ろされたのだから、その距離は二十ファインとない。それに気づいてどきりとした。何となく、一歩下がる。
(誓うか?)
蘇る言葉。
誓う。
――何に?
「急げば、片づけには間に合うでしょ。決まったらさっさと行きましょう」
出どころの判らない、それどころかいったい何なのかさっぱり判らない、奇妙な感覚に首を振って、エイルはそう言った。半ば、自棄である。
「そうしよう。それでは、セル」
「はいはい、またどうぞ、セラス」
にこにこしてアニーナは手を振り、息子にだかファドックにだか、片目をつむってまでみせた。四十に手が届く年齢でありながら、そうするとどこか少女めいてずいぶんと可愛らしく見える。ファドックは再び会釈をし、エイルは舌を出した。
小さな家の騒動が、薄い壁と夜の静寂を通して周辺にどう伝わったものか、舗装などないささやかな道に出たエイルは何となく近所の視線を感じる。町憲兵だか兵士だかにエイルが連れていかれた、という話をアニーナはどう説明するのだろうか。
「エイル」
「何です」
さすがのファドックも小言でも言う気なのだろう、とエイルは嘆息した。
「いい母さんだな」
言われた台詞を理解するのにたっぷり数
「……生意気なだけっすよ」
普通、こういうのは親が子供に使う台詞で、あまり逆はない。ファドックは笑った。
「このあたりの街区はいいな。まるでどこかの小さな町のようだ」
「あー……そうっすね。大通りからはだいぶ離れてるし」
ファドックの選んだ話題を不審に思いながらも、エイルは応じる。
「でも別に、いいこたないですよ。貧乏なだけで」
「そう思うのか?」
聞き返されて、言葉に詰まる。
「いや。俺には馴染みあるとこな訳だし、そんなふうに思ってませんけど、ファドック様から見たら貧村みたいなもんでしょ」
「私は平民だと言ったろう」
「でも、何とか伯爵のとこにいるって聞きましたぜ」
「いまはな。私はね、エイル」
騎士の声が奇妙な響きを帯びた。
「
「へえっ!?」
これはまた、意外なことを聞かされるものだ。エイルは声を上げた。
「幼い頃に両親を亡くし、幸いにしてキド伯爵に拾われたが、そうでなければこの街には来なかっただろう。いや、祭りのときに稼ぎには――来たかもしれないな」
「この街で育ったんじゃ、ないんですか」
「ああ。私の出身は小さな町だ。ここまで馬車で、何日かかったのだろうな」
「俺はこの街しか知りません。こういう」
周囲を示しながら、エイルは言った。
「ろくに日の当たらない南区の端っこで生まれて、まあ、中心街区から市場のあたりなら俺の庭みたいなもんだけど」
「外の世界を見てみたいと思ったことはあるか?」
「んなこと」
少年は不満そうに言った。
「考える暇があったら仕事を探すか、翌朝のために寝ますね」
「そうか」
苦労をしているな、などとはファドックは言わなかった。城なら仕事を探さなくてもいいだろう、というようなことも。
「私も――同じだな」
「はっ?」
思わず、間の抜けた声を出す。
「何でですか? ファドック様なら、そりゃ、もとは平民でも……いまも平民でも、下町の暮らしにないもんを持ってるでしょ。余裕とか、ゆとりとかってやつですよ。別に非難してるんじゃありませんぜ、俺だってそうなれたらいいなあとは思うし」
「……そうだな、そうかもしれんな」
「……ファドック様」
何だか、エイルは心配になった。
「もしかして、嫌なんすか。……護衛騎士」
「まさか」
ファドックは即答した。その声に翳りはない。
「私はシュアラ様を守るために生きている。そのことが」
とん、と肩に手が乗せられた。
「お前に迷惑を掛けるようだがな」
「んな、こと」
エイルはまた言った。
「いいっすよ。……俺」
エイルは、顔をしかめそうになるのをこらえて、言った。
まただ。
――何だろう? この、ファドックに触れられるたびに覚える、
「いいっすよ。……俺」
だが瞬時に消え去るそれは、痛みのようなものを残さない。彼はその疑問を突き詰めるより前に言葉を続け、だがその先を飲み込むと、違う台詞を口にした。
「俺、そうです。余裕ってやつが足りなかったんでしょ。シュアラに母さんを馬鹿にされて、ガキみたいに腹立てただけですから。ガキの台詞にむかついてるようじゃガキですよね。……あ、すんません」
隣にいるのはシュアラの護衛騎士であった、とエイルは頭を下げる。だがファドックは咎めるようなことは言わなかった。エイルの肩に乗せた手をもう一度とん、と叩いて下ろす。
エイルは安堵した。
叱責されなかったことにでは、ない。その言葉が口からこぼれ出なかった、ことに。
(俺、いいんです)
(俺は、ファドック様の)
(ファドック様の守るものを守ります)
すっと浮かんだこの言葉は――何なのだろう?
(――誓うか?)
何かが浮かんだ。ただその何かはあまりにも茫洋ととしすぎていて、エイル少年には掴み取ることができなかった。
ヴィエル・エクス。翡翠の宮殿。
何故この言葉が思い出される? ファドックに、その存在との距離の短さにおののいたのは、まさかあの老人の言う、「女が持つ心の色」の仕業だとでも?
(まさか)
彼は首を振った。
(ぞっとしない思いつきだね)
冗談ではない、と思う。たとえ占い師の言葉が真実で、それも真実のほんのかけらにすぎなくて、何かの秘密が彼の内にあるのだとしても――そんなふうには思えなかったが――やはりこれでは、ただのクジナとしか思えない。いや、エイル自身には判っていた。そうではないこと。
何かは判らない、まだ判らない、それでも老人の予言の裏、それとも奥に隠され、いまだ眠りについたままの、それは〈時〉を感じて揺らぎはじめては――いないか?
そう――それが以前に起きたのはもう百と二十年の過去のこと。
ただ少年は、まだ何も、知らぬだけ。
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