06 母と息子

 解いた荷をまとめるのは簡単だった。

 もともとろくに持ってきていない上、彼の気に入りの服は「汚い」とヴァリンに捨てられた。城内で過ごす分には制服で事足りたが、こんな目立つ格好で城下に戻る訳にもいかない。エイルは、当座に、と一着だけもらい受けた古着に腕を通す。同じような背格好の使用人にもらったものだが、これまで着る機会はなかった。

 トルスに一言話をしていこうかと思ったが、そんな気分にはなれない。もちろん、レイジュやイージェン、ファドックにも同様だ。怒るか、呆れるか、彼らがどのように思うのか判らなかったが、こうして帰る支度をしている内に彼の怒りはどんどん増幅されてきて、そんなことはどうでもよくなっていた。

 汚れた頭陀袋のような荷袋の口をきゅっと縛ると、それを背負う。

(街に、帰ろう)

 城下、と言う言葉すらいまは使いたくなかった。それはまるで、シュアラの下、という意味に思えたのだ。

(そうさ、最初っから間違ってたのさ。俺にゃ向かない)

(ただ働きってことになるけど、まあ、衣食住はもらったんだし、ちょっとした経験だったと思えばいいさ)

(もうこれ以上、こんなところにいるもんか)

(高貴なお姫様なんて、もうこりごりだ)

(下賤で結構、俺は俺に適した場所に帰るよ)

 怒りにまかせてすたすたと歩き、すれ違った使用人が不審な表情をするのにも気づかない。気づいたとしても気にしなかっただろう。

 教わっただけでまだ一度も使っていなかった使用人用の裏口へ向かうと、顔見知りになった兵士が挨拶をくれる。それに曖昧な笑顔で応じて、彼は地味な扉を開けた。門番がお仕着せを着ていないエイルを奇妙に思ったとしても、まさか彼が仕事を放棄して逃げ出すのだとは思わない。使用人が城の使いではなく、自身の用事で城下に買い物に行くこともない訳ではないのだ。

(ああ――すっとした)

 「城」の圏内を出て深呼吸なぞする。

(また〈柳揺らす風〉亭に部屋を取らなきゃな。ああ、手持ちのラルがほとんどないや……私服用にくれるって言ってた金、さっさともらっておきゃあよかったな)

 時間ができたときに受け取りにいこうと思っていた自分の迂闊さに少し腹が立つ。

「――花はいかが? 恋人を訪れるのなら手ぶらじゃ駄目よ」

「はい、朝摘みのロータで作ったできたての薬水だよっ、二日酔いを避けるにはこれがいちばん」

瓏草カァジをやるパイプはどうかね、紙巻と一味違うこと、間違いなしっ」

 日の暮れかけた城前の大通りは、賑やかな声で満ち満ちていた。少年はほっとする。この喧噪を懐かしく思うなんて、考えてもみなかったことであるが。

 物売りたちがそれぞれ勝手な口上を並べ立てるのを聞くともなしに聞いていた彼の頭に、ふと母の姿が浮かぶ。

 そうだ――もう二旬、ひと月近く家に帰ってない

 忙しさにかまけてひと月以上連絡ができなかったこともあったが、息子が帰った夜、母がこっそり安堵の涙を流しているのを見た。気丈な母を泣かせるなど、彼の本意ではない。

 母アニーナとその息子エイルの絆は強かったが、他の家族と比べて抜きん出ていると言うほどでは、ない。エイルほどの年齢になれば父や母に理由なき反感を覚える少年少女も多いが、それはふた親が揃い、なおかつある程度以上満たされている家庭においてだ。母ひとり子ひとり、それも子供の頃から自身の食い扶持のために街で働いてきたエイルにとって、母というのはとても大事な存在だった。

 両親の顔も知らない子供や、安心して眠れる場所のない子供もいる。それに比べればたとえ一夜の宿代すら稼げなくても、街の外れに帰れる場所があり母が待っているというのは、慰めでもあり幸福なことでもあった。

 中心街区クェントルからエイルの生家までは、ゆっくり歩いても三カイほどだ。エイルはなけなしのラルで母に土産を買い――余裕があれば酒でも買っていきたいところだが、いまは実益を兼ねて、腹を膨らます食べ物だ――てくてくと街を歩いた。太陽リィキアが北西の方に姿を消すと、まだ少し肌寒い時間がやってくる。

「母さん、帰ったよ」

 小さな蝋燭の灯がともる懐かしの我が家の戸を開けると、エイルは帰還を告げた。暗くなればもう籠編みはできない。アニーナはひと休みしているか、夕飯の支度でもしているはずだ。

「――エイル?」

 驚いた声が返ってくる。

「うん。連絡しなくて悪かっ――」

「何だい、お前、お暇をもらったのかい? それとももう、お暇を『出された』んじゃないだろうね?」

「……はっ?」

 炎が揺らす母の影は二旬前と変わらぬが、エイルは言葉の意味を理解しかねた。

「何?」

「何、じゃないよ。この馬鹿息子は。何の因果かお姫様に気に入られてお城に上がったんだろう? 当分、帰ってこないかもしれないけど心配しなくていいって、そう聞いてたのに」

「なっ何で知ってるんだよ!?」

「馬鹿息子がひとりいなくなったって、こちとら別に騒ぎゃしないのにね。わざわざ知らせてくれたのさ、親切なもんだ」

「あのなっ。毎日倒れるまで働いてささやかな銭稼いで、腹空かして帰ってきた息子にそれかよっ。〈かぎ爪通り〉の親父の饅頭、俺ひとりで食うぞっ」

「ああ、悪かった悪かった、冬の夜は寒いだろう、こっちにおいで」

「もう春だよっ」

 ころっと態度を変えて猫なで声を出す母に叫んで戸を閉め、エイルは紙袋を差し出した。

「はいよ」

「母さんはいい息子を持ったよ、好物が同じっていうのはささやかな幸せだねえ」

「どっちかが我慢しないで済むもんな。他に何か食うもん、ないの」

「まずいときに帰ってきたよ、あんたは」

 アニーナは顔をしかめた。

「お隣からとっときのコットを分けてもらったところさ」

「やったね」

 エイルは口笛を吹くと小さな卓をのぞき込む。

麺麭ホーロはちょっと固くなってるけど、まだ食べられるよ。汁物があればよかったけど、まさかあんたが帰ってくるとは思わないもの」

「母さんの稼ぎにたかる気はないって。籠を売って帰ってきたんなら、きっちり給金分はもらうけどさ」

「もちろんさ、働いたら、もうらうもんはもらわないとね……さあ、饅頭が冷める前に宴にしよう。話はそれからだよ」

 この小さな家の母と息子の応酬は、大方こんな感じだった。「話はそれから」と言っても、食べながらアニーナは矢継ぎ早に息子に質問をし、エイルの方もこれまでの出来事を母に語るのに異論はなかった。

「何だい」

 少年の食べこぼした饅頭のかけらを布で拭きながら、母は呆れたように言った。

「お前、そんなことで逃げ出してきたのかい」

「あの姫さんを知らないから言えるのさ、んなこと」

 エイルは立ち上がると、ふたつの木の杯に飲み水用の桶から水を汲んでくる。

「情けないねえ、これがあたしとヴァンタンの息子かい。もうちょっと気骨のある子だと思ってたよ」

「骨なら目立ちすぎるくらいだよ。日がな働いて、ろくに食事もできず、やせ細って、泣きながら帰ってくれば鬼母の酷い仕打ち」

「なーんだ、細身を気にしてんのかい。ヴァンタンはすらっとしていい男だったよ。あんたは父さんに似たのさ、エイル」

 母親はどうやら息子を苛めることをやめたようだが、エイルとしては話がそれるに任せていく気にはならなかった。

「ちょい待ち。今度は母さんの番だろ。何で、俺が城につれてかれたことを知ってんの」

「言ったでしょうが。ご親切な使いがきたの」

「単純だなあ、お伽話でもあるまいし、あなたの可愛い一人息子がお姫様に見初められて城へ行きました、なんて馬鹿げた話を信じた訳?」

「女はお伽話が好きなのさ、エイル。……なんてね」

 息子の疑わしい視線を受けたアニーナは白状した。

「立派な殿方がきてね、丁寧に話をしてくれたよ。ラルまで置いていこうとしたけど、息子を売る気はないって怒ったんだ。そしたら、そういうつもりじゃなかった、ってまた丁寧に謝って。城の人間なんてみんなつんとしたのばかりだと思ってたけど、どうやらそうでもないね」

「まさか」

 エイルはその人物に心当たりがあった。だがまさか、姫の護衛騎士がわざわざこんなところまでやってくるだろうか? まさか。

「……ファドック様、じゃないだろうね?」

「そうさ、そんな名前だったよ。いい男だったね、あたしが十年若けりゃ放っとかないよ」

「ちょいっ、ちょっとっ、この辺、騒ぎになったんじゃないのっ? 城の制服着たファドック様が」

「いいや」

 アニーナは首を横に振る。

「セラス、セラス、って、偉い人なのかい? いい顔はしてたけど、服装は普通だったよ。丁寧ではあったけど、偉そうな口調じゃなかったし、肩いからして格好つけてる町憲兵レドキアなんかよりずっと、あたしらと同じ話し方をしたね。あれだけ態度が立派じゃなきゃ、城の人間だと言われても一笑に付すところさ」

「あのな母さん。聞いて驚くなよ、あの人はシュアラの護」

 コーレス、と言おうとして、エイルははっと外の方を見た。アニーナもつられて同じ方向を見やる。

「……どうしたんだい?」

 母が視線を息子に戻してそう問うても、エイルの視線はそのままだった。

「……嘘だろ」

「お前、何を言って」

 アニーナが続けて発した声に重なって、戸の叩かれる音がする。と思う間もなく鍵などかける習慣を持たない簡素な木の扉は音を立てて開いた。

「おや、この前の旦那セル

「夜分に突然、申し訳ありません、ご主人セル。あなたの息子さんがお帰りではないかと、思いまして」

「ご覧の通りだよ」

 アニーナはそう言うとそのまま固まったようなエイルを指さした。

「あんたみたいないい男ならいつきてくれたってかまわないけども、今日は何だい。うちの馬鹿息子を連れ戻しにでもきたの」

その通りですアレイス

 ファドック――もちろん、それはファドック・ソレスだった――は簡単にうなずいた。

「なっ」

 エイルはようやく、金縛りクルランが解ける。

「何だよっ。わざわざ呼び戻される理由なんか、ねえぞっ。シュアラにはもうちょっと品のいいおもちゃをあてがいな、その方がみんなうまくいくし、楽だろっ」

「今日は制服だねえ、セル。また、男っぷりがあがること」

 息子の、怒りだか悲鳴だか判らないような台詞を聞き流して、アニーナは言う。ファドックは礼なのか儀礼なのか、軽く会釈をするとそのままエイルの方へ歩を進めた。エイルは立ち上がると、思わず逃げるように後じさる。

「当てがないんなら俺が紹介してやるって! 姫さんが気に入るような、大人しくて頭のいいのがいいだろ、ファドック様、俺はもうあの姫さんの」

「駄目だ」

 ファドックの返答はすげない。

「お前を連れ帰れとの、姫様のご命令だ」

 駄目だ――と今度はエイルの方が心で思った。

 ファドックがシュアラの命令を実行しようと思ったのなら、そこには一分の隙も躊躇いもないだろう。

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