05 俺は――帰る
宮殿。
ここは、
だが壁面が
翡翠の宮殿。
その響きはずいぶんと詩的で、
彼は幾度か、旅の吟遊詩人にそんな歌か話を知らないか、尋ねてみた。だが芳しい答えが返ってきたことはなく、〈宮殿〉と〈色〉の関わりについても判らなかった。その後に出会った他の占い師に尋ねてもみたが、心のふた色などという表現を使うものはいなかった。
――彼はいまでは少しだけ、
ふたつの色。双生児との予言は、やはりそれと何か関わるのかもしれない。そんなふうに思うようになっていた。
男と女のようなそれ、というのは正直に言ってよく判らない。ふたつの思いを同時に抱くというのも、判るような判らないような、判断に迷うところだ。
曖昧なことを言って気を引く占い師の手口だと切り捨てるには、しかしずっと気にかかっていた。
確かに、たまには、ある。相反するふたつの思いが、互いに寄りかかるように同時に浮かぶこと。そこに、混乱や矛盾はない。
しかし、誰にでもあるようなことではないのか? 少年はそんなふうに思いもした。
だがそれより、人に言えない理由は、これだ。男女のようなふたつの心。
それが何を意味するのか、エイルには判らない。ただ、男である彼が男に惹かれれば、クジナだろうと疑われ、からかわれることは想像に難くない。
男を愛す男クジナ、女を好む女ラムド、それらは迫害こそされないが、「変わった趣味」だとは思われる。よもや自分がその趣味を持っているのではないか、と悩むことはなかったが、そうではないのだと、「違う」のだとどうやって説明できる?
何度目になるか、ごろりと寝返りを打った。
老人の言葉がなければ、彼は自身をクジナなのではないかと考え、初めてそう考えたときにはどんなクジナの者でもするように、酷く悩んだだろう。
だが占い爺はそうではないと言った。それは彼の定めなのだと。
意味は判らない。男が男に惹かれる定めなど、クジナの定めとどこが違う?
エイルは息を吐いた。
この宮殿にきて、気になっていることのひとつはそれだ。
エイル少年は、ファドック・ソレスに惹かれてはいないだろうか?
イージェンのように敬意を持つのならば自然だが、それとは違うようだった。だが、かと言ってレイジュをはじめとする侍女たちがファドックに憧れるそれとも、異なる気がする。
彼は思い出していた。いや、忘れられなかった。
ファドックに初めて名を呼ばれたとき、ファドックの名を聞いたときに走った衝撃。
あれは、何だったと言うのだろう。
少年は知らぬ。
だが、何かが彼の運命であるのだとしたら、それはアーレイド城ではなく姫の護衛騎士であるのかもしれぬというような、言葉にならぬ感覚があるだけだった。
カチン、と無遠慮な音を立てて陶の器が対の皿の上に置かれた。シュアラの眉がひそめられる。
「……何だよ」
もう、エイルはシュアラに丁寧な言葉を遣うことも忘れはじめていた。
「なってないわ」
王女殿下は例によって高みからそう言う。
「せっかくのよいお茶が不味くなるじゃないの。無作法の証だわ」
「無作法だって?」
エイル少年もまた、眉をひそめた。
皿に乗せられた器から茶を飲んで、置かれていた場所に戻しただけで何が礼儀にもとるのだろう。街では皿付きの器などという上品なものはなかったが、城の厨房では少ないながら見かけるものだし、対として使うのだと教わった。間違ったことはしていないはずだ、というのが少年の頭にある。
「姫さんの作法じゃ、何だい。出された茶は一気に飲んで、逆さにして皿に蓋でもしなきゃなんないのかよ」
「何を言っているの」
レイジュ辺りならば笑うところだろうが、もちろんシュアラは機嫌を悪くするだけだ。
「お前の立てた、下品な音のことを言っているのよ」
「音お?」
エイルには、何か音を立てたという認識すらない。
「姫さんは何度も俺に、俺が何を言ってるか判らないっていうけどな、俺だって姫さんの台詞は判んねえよ」
「まあっ」
いい加減、シュアラもエイルの物言いに慣れはじめてもよさそうなものだ。エイルはそんな風に思った。だが王女殿下は変わらず王女殿下のままである。
「お前も、そろそろ宮殿の雰囲気に馴染むのではないかと思ったのに」
だがシュアラの方も同じように考えていたらしい。どうやらお互い様だが、エイルはそれを認めたくないし、シュアラは気づいていない。
「いったい……どんな教育を受ければお前のような乱暴な口を利くようになるのかしら」
「あのさ、姫さん」
エイルは呆れた声を出すことをそろそろ躊躇わなくなった。
「俺はこれでも、気ぃ使って喋ってるし、それに下町育ちにしちゃ言葉遣いはましな方だぜ? 有り得ないけど、万一にも姫さんがアーレイドの――城下の酒場にでも行ったらさ、言葉が通じなくて世界の果てにきたんじゃないかと思うだろうな」
「お前よりも礼儀知らずがいると言うの?」
シュアラはエイルを馬鹿にするように笑うが、エイルとしては力が脱けるところだった。
「そうだわエイル。街のこともだけれど、私、お前のことを聞いてみようと思っていたのだわ」
「俺の?」
目を上げる。
「そうよ、例えば」
シュアラはふと思いついたように言った。
「お前の家族は? 両親はいるの?」
「そりゃまあ」
エイルはうなずいた。
「たいていの人間にゃ、いるでしょうよ。なくすことはあっても、最初からないってこた、ないでしょうね」
「……私をからかっているの」
エイルは少し驚いた。「何を言っているのか判らない」とくると思ったのに。
「とんでもない」
ただ、声に出してはそう言った。
「こういうのは軽口、ってんですよお姫様」
他者をからかうと言うよりは、自分の台詞を茶化すといったところだが、シュアラにそろは伝わるだろうか?
「まあ」
こっそり、思う。
(いまは伝わらなくてもいいや。いずれ、判るかもしれない)
これはファドックの言い様だ。エイルは何となく鷹揚な気持ちになっていた。
「俺の母さんはね、籠を編んでるんです」
「かご?」
シュアラはきれいな所作で首を傾げる。それだけ見れば、何とも人形めいて、可愛らしい。
「なにをどうして、いるですって?」
「籠、だってば」
エイルは繰り返す。ほら、こういった――と適当な器を指そうとした少年は、困惑した。
陶器の皿に茶器、はりの水差し、重厚な棚にはしっかりとした引き出しがつけられている。何かちょっとしたものを入れておいたり、ちょっと荷を運んだりするための、見慣れた簡素なそれは――意図してそうしたのかと思うくらいに、見当たらなかった
「見たことないってこた、ないと思うんですけどね。ええっと」
目の前にないものを言葉だけで説明するのは難しい。エイルは手で籠の形を作った。
「こういう……たいていは底が丸っこくて、細い竹や籐で作られてて、ものを入れたり、運んだり、調理場なんかじゃ水を切るのにも具合がよくて、使うけどなあ、姫さんの生活じゃ使わないか」
「よく判らないけれど」
聞き慣れた台詞を言って、シュアラは綺麗な眉をひそめる。
「つまり、下等なものということね」
「下等?」
かちん、ときた。
「そうでしょう。下賤の者が使う道具ということだわ。つまりお前の」
「下賤だって!?」
かっとした。この言葉は知っていた。幾度かヴァリンに言われたことがある。ヴァリンにそう言われても腹は立たなかった。いや、シュアラに言われたから腹が立つのでは――ない。
彼が馬鹿にされるのはいい。見下されても、下品だの乱暴だの野蛮だのと言われても、気にならない。彼女は王女殿下だし、彼は平民、それもシュアラの知る平民――使用人――に比べれば作法も知らず、教育もないことは判っている。だが彼はそうやって生きてきたことを恥じてはいない。だから、少女がどんな高慢な口を利いても気にならなくなってきた。
だが――。
母は、別だ。
父は、別だ。
「いくら王女殿下様だって、言っていいことと悪いことがあるんだぜ」
「何ですって」
シュアラは怒ったのではなく、普通に聞き返した。エイルの台詞は呟きのように小さく、彼女の耳に届かなかったのだ。
「俺は! 俺たちは、なあ!」
次には彼は大声で叫んでいた。
「贅沢な暮らしなんか知らないけど、それでも毎日楽しく生きてんだっ。頑張って、一日中働いても金なんか手元に残らない、でもな! そうやって生きてんだ! そんな俺たちから税金取って優雅に暮らして……それが高貴だってんならそんなん、クソ食らえっ!」
「まあっ」
もちろん――シュアラはそのような下品な言葉は知らない。だがそれでも、エイルが何か非常に強い言葉を使ったことは判った。
「俺は――帰る」
エイルは踵を返した。
「何ですって」
これは聞き返しであると同時に、不満も込められていた。
「お前、何をそう――」
「俺は、帰る!」
扉に向かいながらエイルはもう一度叫び、それを乱暴に開けると――その扉がこれまで受けたことのない扱いをした。即ち、思い切り、力を込めて、叩きつけるように、閉めた。
「エイル? どうし――」
「俺、帰るから」
香茶のための新しい湯を運んできた侍女の顔も見ずにそう言った。
「また今日も喧嘩ね? いいわ、それじゃ私もしばらくこの部屋に入らないようにしましょう」
侍女は笑ってそう言ったが、エイルは力なく首を振るとそれに背を向けた。
彼は帰るのだ。
――街に。
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