02 仕事だこれは仕事だ
シュアラのもとに出向いたのは、あれからまだ二回だ。
彼も忙しいが王女殿下も忙しく、新しいおもちゃにかまうことのできる時間が少なかったらしい。ヴァリンとレイジュの教育で最初の面会のときよりは「礼儀」なるものを身に付けた少年だが、王女様の許容範囲にはほど遠く、彼は再び、
一方でエイルも、入室や退室の礼だの、許しがあるまで何ラクト内に近寄ってはならないだの、馬鹿らしいと思える決まりごとを覚え、最低限度にそれをこなした。だが、姫様の望む態度ばかりとっても仕方ない。それは――言うなればレイジュたちの仕事であって、彼の仕事ではない。
初めての会見のあとはいささかむっとし、半ば呆れたエイルだったが、考えてみれば腹を立てるほどのこともなかった。ちょっとした商家のひとり娘程度でさえ、下町の少年を見下し、馬鹿にする。それを思えばアーレイドの第一王女殿下は、商家の娘あたりとその階級差に比例するほど尊大だということはなかったのだ。となれば、シュアラのわがままなど可愛いものである。
そう考えられるようになったエイルは、少年を礼儀知らずだの品がないだのと言い立てる姫君にも、本気では腹を立てなくなってきていた。――逆に言えば、やはり少しは腹が立つ、といったところかもしれないが。
また、「口の利き方」については彼自身が諦めた。敬語というのは尊敬する相手に使うもので、同い年――しばらくはひとつ年下――の娘がたまたま王家に生まれていたからと言って、どうしてそんなものを使わなければならない? もちろん、それが処世術だとの理屈は判っていたし、試してもみた。だが慣れない方法で話そうとしたところでろくに言葉が出てこない。求められているのは「街の少年」が話す「街の話」なのだから、優先するならば本来の彼だ。
そのような判断をヴァリンが知れば叱責したろうが、ファドックは笑って許した。
「いいんですか? 姫さん、怒ってたでしょう?」
「シュアラ姫はご存知ないだけなのだ、エイル。ご自身をはじめとする周囲の人間が、丁寧で上品な話しぶりをしている、と思われているのではない。それのみをご存知なのだ。だからお前の口調には、お怒りになるのではなく――」
ファドックは肩をすくめて言った。
「戸惑われているだけだ」
「そんな可愛らしいもんには見えませんけどね」
「いずれ判る」
ファドックは、よくその言葉を口にした。
「いずれ判る」「いずれ慣れる」。そのたびにエイルは、そういうものだろうか、と首をかしげたが。
ともあれ、エイル自身のままでよい、とのファドックの言葉を頼りに、エイルはシュアラへと接することにする。さすがに完全に普段通りではなかったが、王女殿下の前としてはかなりの無礼に当たる調子ではあった。
「あのさ、姫さん」
エイルはシュアラをそう呼んだ。怒るだろうかと思ったが、意外にもシュアラはその呼びかけを面白がったようだった。
「街で俺を見かけたんだって聞いたけど、たまには姫さんも城を出る訳?」
ぎこちない敬語を使うよりも、極端に下品な言葉を使わないようにする、くらいの心がけの方が簡単だ。シュアラは聞き慣れぬ下町の物言いに「戸惑っ」たりしていたけれど、その口調のときの少年の方がよく喋るらしいことに気づいてからは文句を言わなくなった。
ファドックが何か王女に――それとも、エイルに――助言をしたせいかもしれなかったが、三度目の会見では、シュアラはエイルの言葉遣いに関しては失礼だとか野蛮だとかは言わないようになっていた。
「出ないわ。当たり前じゃないの」
シュアラの返答はあっさりしたものだった。
「王女はもちろん、位の高い姫ならば城や屋敷の外には出ないものよ」
そんなことも知らないのね、と付く。これがいつも余計だ。
シュアラが街のことを知らないからと言って、エイルは一度だってそれを馬鹿にしたことはない。内心で呆れることはあるが、知らないのは当然だと思っている。だがシュアラには、エイルが城やら宮廷作法やらに疎いことが当然であるとは判らないらしい。
「この前の訪問が生まれて初めてよ。不思議なところよね。でも面白かったわ。市場って言ったかしら、あんなに人が大勢いてよく息が詰まらないものだわ。あの場所で、ものを買うのでしょう。
「……はあ」
ここで、それはよくご存知ですね、などとおべっかは使えない。市場でものを買う。金を払う。それは当たり前のことだ。当たり前すぎる。
「俺はよく、その市場で働いてたんですよ」
「まあ、働くですって? 何を売っていたの?」
「まさか」
エイルは肩をすくめた。
「俺は
「まあ」
シュアラはまた言った。
「荷物を運ぶことが仕事なの? それで……何て言ったかしら」
「何がですか」
「ええと……そう、お金を『稼ぐ』だわ。それで稼ぐことができるの? よく判らないわ」
「ああ……と」
エイルは天井に顔を向けた。最初の会見のときを考えれば、三度目のやりとりは何とも順調に進んでいたが、彼らは互いの「常識」が違いすぎる。そして、それに気づいているのはエイルのみときている。
「例えば、店主は……食事処の店主としましょうか。芋を一箱買ったとします。で、それをかついで店に戻って、また市場へ行って今度は赤魚を買って店に戻って、また市場へきて次は黒魚を買ってまた戻って……これじゃ効率が悪いってもんでしょう? 市場の時間は限られてるし、いい品はどんどん売れてなくなってく。芋と魚二種類だけで、どんな料理を作れってんです?」
「それはそうだけれど」
シュアラは不可解だ、と言う顔をする。
「下男に運ばせればいいじゃないの」
がっくり、ときたがそれは見せないようにする。
「あのですね姫さん。んなもんを雇っとく金があったら食事処の店主なんてやってないんですよ」
「……お前の言うことは、よく判らないわね」
「ああ、だからですね」
エイルは少し苛々するが、仕事だこれは仕事だ、と呪文を唱える。
「そこで俺が声をかける訳ですよ、
本当は少し違う。朝の大きな市場では、ちゃんと規則があるのだ。
荷運びを必要とする人間は、まず荷扱いの
ちゃんと仕事をしなければ
だが、そんな話が王女様に通じるのはまだ先になりそうである。
「何となく、判ったわ」
どこまで本当か――シュアラ自身は、判ったと思っているのだろうが、何をどう判ったのか、エイルは疑わしかった。
とは言っても、驚きだった。
こうして王女様と面と向かっていることはもちろん、内容はともかくとしてちゃんと話ができていることが何より、驚きだ。
「そうすっと、姫さんは、俺を市場で見かけた訳?」
「何ですって? ああ、いえ、違うわ。何とか言う大きな通りで……
「ああ……ザックかな」
「何ですって?」
「その町憲兵の名前だよ。とろくて、何で町憲兵になんかなれたのか判んねえけど、いい奴さ」
「とろ……?」
「えっと、何つーのかな」
王女様の知らない言葉を使ってしまうと説明に手間がかかる。
「ちょっと抜けてるっつうんかな。身体はでかいけど、あいつが凄んだって誰もびびらないどころか笑っちまうような……と、また言っちまった」
エイルは頭をかいた。「でかい」だの「びびる」だのは、やはり殿下相手に通じない。通じなければ「口の利き方を知らない」と言われることはないが、彼女の知らない野蛮な言葉遣いをする、と言われるのは好きでなかった。
「んで? 俺はザックといて、何か姫さんの目に付くようなことをしたんですか? 覚えてねえなあ」
説明を求められる前にエイルは言った。説明するのはかまわないが、王女殿下が下町の言葉など覚えても何の役にも立たないどころか、ヴァリンにでも伝われば大ごとだ。半刻に渡る小言を食らいかねない。
「何も特別なことはしていなかったわ」
エイルが何を言っているのか判らない、と言うようにシュアラは言った。
「ずいぶん、楽しそうに笑い合っていたわね」
「そうだったかな」
ザックに限らず、誰かと話をすれば笑っていることは珍しくない。シュアラ相手のときは、どうやら別だが。
「それで?」
「何を言っているの?」
シュアラは眉をひそめた。エイルが何を促したのか判らないらしい。
「だからさ。俺がザックと楽しそうに笑ってて、それで何?」
「何を言っているの」
ふたりは、互いに繰り返すことになる。
「それでも何もないでしょう。私は、お前と話がしてみたいと思ったの。それだけよ」
「はあ」
エイルは拍子抜けした。たまたま、通りがかりで目にしただけ。目立ったのはエイルよりも町憲兵の制服を着た大柄なザックの方なのだろう。彼は自惚れるような気質は持っていなかったが、ザック青年よりも自分の方が見た目がいいだろう、くらいのことは考える。
(姫さん)
内心でこっそり、舌を出す。
(そう言うのは俗な言葉じゃ、ひと目惚れっていうんすよ)
もちろん、そんなことを本気で考えた訳ではない。ちょっとした冗談だ。下町での応酬ならば、気軽に言っては平手打ちを食らうくらいの、何てことのないやりとり。だが王女殿下に言うには、冗談にしてもきつすぎる。エイルは思わず笑いをもらした。
「何を笑うの」
だが案の定、と言おうか。その笑みはシュアラ王女のお気に召さなかった。
「私の目にとまって、幸運だとは思わないの? お前は感謝こそすれ、そんなふうに笑う謂われはないはずだわ。やっぱり失礼な男なのね。せっかく、拾ってやったと言うのに――」
「あのなっ」
さすがにこれにはむっときた。声が大きくなる。
「俺は確かに姫さんに比べりゃ……いいや、そのへんの街の人間に比べたって貧乏人かもしれないけどなっ。それなりにやってんだっ。勝手に『見初めて』金で雇っておいて、お恵み有難うございますと泣いて感謝しろって!? 馬鹿な話もたいがいにしやが」
いつものように王女の目が見開かれ、次に眉がひそめられ、頬が紅潮しはじめた。エイルはぐっと言葉を飲み込む。仕事だ、これは仕事なのだ。
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