第1章

01 まだ慣れぬ時期

 そこは、戦場だった。

 もちろん、彼は本当の意味での戦など知らない。ビナレス地方のどこかでは今日も不穏な剣戟が響いているかもしれないが、アーレイドはここ何十年も平和である。町以外の世界を知らない少年は、戦士キエスが命を賭けて戦う様子など、吟遊詩人フィエテの歌や語り部トラントの物語でしか知らなかった。

 それでも、そこはやはり、戦場と言うに相応しかっただろう。

「――エイルっ、菜草はまだかっ」

「いまっ、できたっ、はいっ」

 少年は包丁を置くと、ざく切りにした深緑色の菜っぱを丸器に移して、彼に声をかけた男に手渡した。

「よし、次は皿を洗っとけ、溜まってるぞっ」

「はいよっ」

「おい、エイルっ」

「はいはいっ」

「何度も言ってるだろう、包丁の刃は奥を向けて置いておけ」

「あっ、そーかっ」

 洗い場に向かおうとした少年は慌てて振り返ると、その声の主と衝突する。

「うわっとっ、ごめんトルスっ」

「慌てるな。怪我のもとにしかならん。皿洗いが一段落したら休憩をとっていいぞ」

「え、でもまだ忙しいじゃん」

「どたどたする新米がひとりいなくても調理に影響は出んよ。何、近頃は飯の時間が遅れるのにみんな慣れっこだ」

「おいおいトルス、それをいちばん嫌うのはお前さんだろうがよ!」

 煮方から声が飛んだ。違いない、と調理場がどっと湧く。

「そうだ、俺は仕事が滞るのが嫌いだ! 判ったらとっとと手を動かせーっ」

「おうよっ」

「任せとけっ」

「よーし飯が炊けたぞー」

 午前中の厨房は、戦場だ。正午前後のそれぞれ一刻頃、空き時間を見つけて使用人たちが昼飯をとりにくる、それまでに料理のあらかたを用意しておいて、腹を空かせた彼らに熱々の――と必ずしもいかなかったが、少なくとも冷え切っていない――皿を提供すること。それがうまくいけば、この戦は勝利だ。

 エイルはほんの数日ですっかりそれがどんなにたいへんなことか知った。

 だが厨房の戦士キエスたちは決して殺伐とはせず、日々の戦を楽しんででもいるようだった。

 野菜の下拵えやら皿洗いやらがエイル少年に与えられた仕事である。彼は幾度か街の食事処で同様の仕事をやったことがあったが、広い店でも一度に客が三十人もくるようなことはあまりない。もちろん、大きな酒場の夜ならば有り得るが、それらがみな酒ではなく食事を注文することなど皆無だと言っていい。つまり、いちどきに百人からの飯を用意するような事態は有り得なかった。

 アーレイド城の使用人が何人いるのかは知らなかったが、それくらいはいるだろう。この忙しさを思えば、それくらいはいないとおかしい、とエイル少年は思っていた。

 実際には「全員」ならばもっといたが、全員が必ずやってくる訳でもなければ、休憩時間に街へ行き損ねた兵士などがくることも珍しくない。つまり、用意しなければならない皿の数は日によってまちまちだ。

 それをいかに読んで、その日仕入れられた材料を使い、どれだけ安価かつ良質なものを作れるかが料理長の腕だ。どうやらトルスは調理の腕のみならず、そうした見極めに関しても一級品だった。ここで仕込まれればどの厨房に行っても困らない、と言ったファドックの台詞はおそらく、そう言うことも示しているのだろう。

 だがエイル少年はまだ慣れぬ戦場にてんてこ舞いであり、そのような――将来の展望めいた――ことなど考えている暇はなかった。

 体力的には、まだ慣れぬ時期、と言うのがいちばん疲れるものだ。

 山となっていた洗い場の鍋やら木皿やらをどうにかすると――次から次へと汚れ物は出るから、すっかりきれいにするという訳にはいかなかった――エイルはトルスの言葉に有難く従うことにする。今日も戦はまだまだ続くが、だからこそ少し休んで繁忙時に備えなければならない。素朴な器に水を汲むと、少年は休憩のための小部屋に向かった。


 エイル少年がアーレイドの町から突然この城へと連れてこられて、一旬が過ぎようとしていた。

 シュアラ王女殿下とのご面会のあと、エイルは女中頭のヴァリンに大目玉を食らい、最低限の礼儀を教え込まれることになった。ヴァリンはそれを教えずにエイルをシュアラの前にやったことを嘆いたが、それを聞いたファドックは、彼女はエイルが本当に口の利き方を「知らない」とは思わなかったのだろうと笑って言った。

 厨房での戦は午前と夕刻にあるが、それ以外の時間で彼は、侍女のレイジュに簡単な礼儀作法を習うこととなっていた。いかにアーレイド市民と言えども、彼としては王女に忠誠を誓ったつもりはなく、王女という地位のわがまま娘に礼など尽くさなければならないことには多少不満があった。とは言え、それが処世術というものよ、とのレイジュの台詞には同感だ。

「内緒よ、エイル」

 そう言ってレイジュは声を潜めた。

「殿下のお気に入り、ってことになってる私だって、嫌になることはあるわ。気分次第で優しくされたり、当たり散らされちゃ、ね。でも王女殿下に仕えているとなれば名誉だもの。侍女は所詮、侍女でしかないし、名誉なんてくだらないと思うかもしれないけど」

「ないよりは、あった方がましだよな」

「そうそう、判ってるわねえ」

 レイジュは満足そうに言った。この手の割り切り方はたいてい、女に多い考え方のようで、リターもよくそんな言い方をした。同年代の少年はそんな少女の言葉にげんなりとしたものだが、エイルにはその感覚が判った。

「でもさ、もっと、判ってることだってあるぜ?」

 エイルは澄ました顔をして言ってみせる。

「レイジュが、嬉々としてシュアラに仕える理由」

「なっ、何よ」

「ファドック様、だろ」

「やあだ」

 レイジュはそう言ったが、ちっとも嫌ではなさそうだった。

「エイルったら。そうよ、そうに決まってるじゃない。シュアラ様の近くにいれば、必然的にファドック様のお姿も拝見できるわ。これがいちばんの好待遇ねっ」

 ファドックという名の護衛騎士コーレスは、侍女たちにたいそう人気があった。それはエイルにも判る。顔立ちも背格好もよければ、剣の腕もかなりのもので、王女のいちばんの気に入りだというのにそれを悪用するようなことはなく、誰にでも誠実かつ優しい。言うなれば、「人気がない理由」がない。

 強いて言うならばシュアラに忠実すぎるところだろうか。王女に意見しても怒声を浴びずに済むのは父王マザド・アーレイド三世を除けば乳母のヴァリンとファドックくらいのものであったが、彼は滅多なことではそうしない。たいていのものが、いくら何でもそのわがままは酷いと思ったところで、ファドックはまず王女の命令を聞いた。だがこれは王女の騎士なれば――当然かもしれぬ。

「それに、重要な点はファドック様が平民だってことねっ」

「それがよく判んねえんだよな」

 エイルは首をかしげた。

「何で、平民のがいいんだ? 貴族様の方がいいんじゃねえの?」

「貴族の若様が侍女に優しい、となればそれは高得点だけど」

 レイジュはちっちっちっと指を振った。

「若様だったら、いずれどこかの姫様にかっ攫われちゃうでしょ。その点、ファドック様は大丈夫。キド伯爵のもとにおいでだけれど養子になるだの爵位を継ぐだのって話はないし、どこぞの男爵令嬢が色目使ったって平民相手じゃ父君が許さないものね。安心なのよ、安心」

「どっかの姫さんじゃなくたって、あれだけの人だ。恋人のひとりやふたり、いるだろう?」

「甘い。甘いわエイル」

 レイジュはにっと笑った。「シュアラの気に入りの侍女」としてしずしずと仕えているときには想像できない笑顔だ。

「若手の兵士たちを訓練して、ファドック様ご自身も近衛隊の訓練に参加して、警備の計画をまめに見直したり、何かと人に頼られて、もちろんシュアラ様の近くにもおいでになって、そんなファドック様に時間があると思う? たいていの女はシュアラ様が追い払うし、たまに城下に行かれることもあるけれど、特定の女はいない! はずよ」

「それは、どうだろうな?」

 少し意地悪をしてやりたい気持ちになってエイルは言った。

「城下には行くんだろ。逢い引きするにゃ、一刻あれば充分だぜ」

「お黙んなさい。私を誰だと思ってるの。『ファドック様を慕う会』があれば私が会長よ。ファドック様の行きつけの酒場くらい、知ってるんだから」

「……そりゃ、失礼」

 エイルは謝罪の仕草などした。

「……ファドック様も気の毒だなあ……」

「何よう」

 思わずエイルが本音をもらすと、レイジュは不満そうに頬を膨らませた。

 そんなこんなでレイジュとはすっかり仲良くなっていたが、レイジュがファドック一筋なのは誰の目にも明らかであるし、エイルとしてもここへ女友達を作りにきた訳ではない。

 城下町であれば彼らの意志とは関係なく、ふたりを冷やかし、からかう者もいるだろう。しかし城に暮らす者は、使用人であれどそれなりの誇りと品を持っており、下世話な噂は――少なくとも大っぴらには――しなかった。

「ほらっ、いいからもう一度やるわよ。私をシュアラ様だと思って、入室の礼から、はい!」

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