08 シュアラ王女殿下

 王女様とお会いするとなれば、それは面倒な手続きやらお触れやら何やらがあるのだろうと、それくらいのことはエイルも予想していた。実際の姿はろくに見たことがないとは言え、誕生祭などには絵姿があちらこちらに描かれたり、さまざまな噂も飛ぶ。

 曰く、絶世の美女。

 これには相当の世辞があるだろうが、おべっかの分を差し引いても美人であることは間違いないらしい。

 曰く、病弱の気がある。

 これは、王女が大きな祭りの際に露台に姿を現すくらいしかせず、王や存命だった頃の王妃のように華やかな馬車に乗って祭列に参加しないことからの、ただの噂だ。

 曰く、月の女神ヴィリア・ルーのように凛として誇り高い。

 ここまでくるとこれはただの憶測や、町びと――それも若い男――の希望、噂というより創作にすぎなくなってくる。

 要するに、市民にとって王女殿下などそう言う存在だと言うことだ。

 一言で言えば、縁遠い。「会う」ことなど考えもしない。

 もちろん、エイルだってほんの半日前までそうだった。正直なところを言えば、いまでも同じだ。「シュアラ王女殿下のお話し相手」などと言われたところで、ぴんとくるはずもない。

 こうして、城へ連れてこられ、想像の彼方にあるものを見せつけられ続けて、どうやら冗談ではないらしいと何となく判ってはきた。しかし実感とか自覚とか、そう言ったものはどうにも感じられない。どこかでまだ「からかわれているのではないか」という気持ちもあるのかもしれなかった。

 それでもファドックに指示された部屋で、そのまま待っているように、と独りにされてからは――そわそわと落ち着かなくなってきた。

(王女様だってよ)

(何を話すってんだ?……何で俺、こんなとこにいるんだろう?)

 ここまできて今更、である。だがそう思わずにはいられなかった。どうしてきてしまったのだろう?

 もちろん給金は魅力的だったし、城に入ることができる、姫君を間近に見ることができる、そうしたことへの好奇心も大きかった。持ち前の負けん気もあった。でかい話を前に逃げ出せるか、というような。

 だが、いざとなると迷いのひとつも出てくるというものだ。そうならない方が不自然であろう。彼は本当に、ただの下町の少年なのだ。それが王女様に会って――話をする。

(それが仕事だって?)

(何て馬鹿げた話だろう。本当にこれは現実なのかな?)

 そんなふうに考えてはみても、夢などでないことは判っている。

(俺、何でここにいるんだろうなあ)

 繰り返し、答えのでない問いを自身に向けていると、扉がカチャリと開かれた。エイルはびくりとする。

エイル殿セル・エイル

 エイルはもう少しで吹き出すところだった。セル、なんて呼ばれたことはない。

「どうぞこちらへ」

 現れたのは三十歳前ほどの、これまた美しい顔立ちをした侍女だった。エイルは口の中でもごもごと返答らしきことをして示された方向へと進む。

 城の奥まった方にあるその場所は、彼が先程まで「こんな贅沢な場所があっていいのか」と驚嘆していたところですら簡素に思えるほどだった。

 アーレイドには港もあって交易も盛んだから、ここは豊かな街と言っていい。そこの支配者の館なのだから豪勢なのは当たり前のことであり、しかしその実を言えば、ビナレスの他の大都市の王城に比べれば決してきらびやかということはなかった。それどころか、むしろ地味な方だ。もちろん、エイルには信じられないことだろうが。

 どんな大げさなことがあっても驚くまいと心を決めていたエイルは、兵士の行列の迎えも盛大な音楽もないのにいささか拍子抜けする。公式の謁見ならばまだしも、このような――言うなれば姫のちょっとしたお遊びにつきあわされるのは数名の侍女と、護衛の兵士だけだった。

 と言うよりは、彼らは普段からいるのだろう。このことが重大事なのは他でもないエイル少年のみであって、王女にとってはちょっとした思いつき、イージェンの言ったように「新しい遊び相手」程度にすぎないのかもしれない。

 豪華な扉は、しかし宮殿エクスの中では――王女の部屋としては――簡素だというのかもしれない。その扉が侍女の細い腕で開かれるのをエイルは生唾を飲み込んで見守った。

 王女様。姫君。殿下。何と呼びかければいいのだろう? ファドックに訊いておけばよかった、などと思っても後の祭りだ。

シュアラ様セラン・シュアラエイル殿セル・エイルのおつきですよ」

 これまた意外にも、侍女はそう大仰な台詞を述べはしなかった。促されて室内に入ったエイルは思わず、きょろきょろと視線をさまよわる。

 広い室内。

 セラー侯爵が、エイルに与えられた部屋を狭いと言うも道理だ。

 ひとりの人間が過ごすのに、これだけの空間を用意してどうしようというのだろう。

「あら、感じが違うわね」

 きれいな声がエイルの視線の動きをとめた。

 声を発したのは言うまでもなくこの馬鹿広い部屋の主で、それは考えるまでもなくシュアラ・アーレイド第一王女殿下。

 少年の視線は、そこへと飛んだ。

 金の髪は綺麗に結い上げられている。公式の場ではないのだから、身の飾りも着ているものも、派手さのないものだ。だがやはり、エイルにしてみればそれは衣服と言うよりも衣装、考えられぬほど高価であろう、ものだった。

 瞳は薄青く、硝子玉のようだと形容されるだろう。少年を見る目つきはまるで珍しいミィでも見るように少し見開かれている。

 確かに、美人だと言っていい。

 顔立ちを言うならば、綺麗というよりは可愛らしいと言った方が相応しかったかもしれない。瞳は、軽く見開かれているせいもあろうが、はっきりとして見える。残る幼さの印か、少し丸みを帯びた頬は冷たい印象を与えがちな碧眼を補って温かい感じをもたらした。にっこりと無邪気に笑えば、頑固な老爺でも思わず笑み返したくなるだろう。

 絶世の美女だとは言わないし、夜の街にでも出ればもっと目を引く女性はいくらでもいる。

 だが、シュアラは――きれいだった。

 蝶よ花よと育てられ、苦労ひとつ知らず、惜しげのない愛情――とラル――を注がれて成長すれば、見目形が「きれい」に作られるのは当然かもしれない。

 彼がこれまで出会ったことのない、本物の気品――も、王家の娘であれば当たり前のものかもしれない。

 だが、シュアラは、きれいだったのだ。

 エイルは知らず、口をぽかんと開けていた。

「その制服のせいかしら? 町で見かけたときは、もっと……汚らしい感じがしたものだけれど」

 美声でさり気なく酷いことを言われたことには、呆然としていたエイルはすぐには気づかなかった。

「でも間違いないわね。ファドックが連れてきたんだもの。……ちょっと、カリア。ぼうっとしてないでお茶でも淹れてきたらどうなの。気の利かない人ね」

「はい、セラン。ただいま」

「香茶がいいわ。昨日届いた、ラーイ花のお茶よ、判ってるわね」

「はい、すぐに」

 先の侍女は音もなく扉を開けて出ていく。エイルはひとり、取り残された。

「エイル。確かそう言ったわね。……何よ、黙りこくって。何とか言ったらどうなの? お前は、私に話をするためにここにいるのよ。親から引き離された仔犬(リテュラス)でもないでしょう、びくついていないで何か言いなさいよ」

「あ、俺……ええと、その……」

 エイルはもごもごと口のなかで何か言い、それきり黙ってしまった。シュアラはきゅっと唇を結ぶ。

「何なの? 町ではずいぶん元気がよかったでしょう? だからお前にしたのよ。私の前だからって言葉を選ぶような、そんな良識があるようにも見えなかったわ。なのにやっぱり同じなの? 王女様の前では声を出すこともできないとでも?」

「んなこと、言って……ませんよ」

 「言ってねえよ」と叫びそうになったのは、辛うじて堪える。またも酷いことを言われたようだが、彼にはちゃんと、良識くらいある。

「ただ俺、王女様なんてもんに会ったことないし、城にきたのだって初めてなんだから、ちょっとくらいびびったっておかしかないだろ……でしょう」

「びびった……?」

 シュアラは首をかしげる。王女様には通じない言葉だったらしい。

「まあいいわ。口が利けないという訳ではなさそうね。それなら、何か話をして」

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