2.



黒い心臓ネグル」のジャーゲルトは一瞬、何者かの視線を感じ、厚い雲が覆う天を仰いだ。彼の前髪の白いひと房が、額に埋め込まれた緑柱石ベリルに、ぱらりと垂れる。空からは小さな雨粒が落ち始めていたが、全身に鎧のようにまとっている風の守護波のおかげで、精霊師の白い肌と黒いコートが濡れることはなかった。


 三日前、ネグルの集団は母国ヒムレンと、隣国セヴェルの中間に位置する、亡国の遺跡にたどり着いた。「黒い心臓」は大僧正直轄の部下を集めた特務組織だ。今回の任務に向けて精鋭のみを選び、隣国に気づかれぬよう、最小のチームを組んだつもりだった。

 だが遺跡の中心――この破壊された教会の、裏庭の土を踏んだ者はわずかに三人。仮に目的の宝珠オーブを手に入れたとしても、隊の戦力回復は難しかった。


 ネグルたちの殆どは孤児で、国すなわち教会から保護された者たちである。中でも才能を持つ者が鍛えられ、秘密裏の任務――密偵や暗殺――を行う組織、黒い心臓に配された。配属を志願した者はいないが、孤児らに選択の余地はないし、仕事の危険さを心配する身内もいなかった。


 今回のような任務にはもってこいの「使い捨て」だな。ジャーゲルトは皮肉った。

 彼の隣で伏せていた精霊――光る体を持つ獣――が、甘えるような声をだした。ジャーゲルトは意識を今に戻し、仲間の精霊師に訊いた。

「どうだ」

「駄目だね。虫が命令いうことを聞かない。どいつも馬鹿になったみたいだ」

 土の精霊師は、かけていた黒い眼鏡を放り投げ、降参気味に言った。

 彼らの目前には巨大なオベリスクがあったが、石柱はすでに倒され、いまはその根本にぽっかりと大きな穴を晒していた。穴は階段のついた坂道につながっていて、数メートル先から闇になっている。

「この先には破滅の臭いしかしないな」

 ジャーゲルトはそう結論づけた。


「どうしたの、兄さん」

 精霊師の表情を読み取ったイヴリースが、怪訝な様子で訪ねた。彼女はいつもジャーゲルトを慕い「兄」と呼ぶが、ネグルに家族はいない。

「索敵に放った斑猫ミチシルベが戻って来ない。おそらくこの穴の底が目的地だ」

「宝珠が…そこに?」

 イヴリースは覚悟を決めた時の癖で、前髪を振り払った。隠されていた左目から頬までの黒い痣が、一瞬あらわになった。

「ああ、間違いなく」

「私の命、そこまで保つかな」

 彼女は細身の剣を真横に構えた。何度確認しても、激しい切り合いで刀身は今にも折れそうだった。

「でもにいだけは帰らすから、安心して」イヴリースは剣を納めた。


「ここにいて出口を確保してくれ、ズワルト。我々が帰るまで」

 ジャーゲルトが土の精霊師に指示する。

「俺もいくぜ、暗闇じゃあ俺が役に立つ」ズワルトは引かない。

「お前は足が死んでいる。むしろ足手まといになる」

「へ、言ってくれる。了解した。じゃあ、こいつを連れてってくれ」

 ズワルトが小袋から小さな丸い卵を取り出した。種をまくように空に投げると、それは巨大化して大きな牙を持つ蜻蛉になった。

「いや、馬大頭オニヤンマは、お前の護りに使え。俺のヤマイヌがこの先を先導する」

 名を呼ばれた精霊が、主人の声を聞いて四つの脚で立ち上がった。

 ズワルトが右の拳を突き出した。

「生きてここで」

「再び。永遠の家族よ」

 ジャーゲルトは自らの護りを解き、拳を合わせた。

 二人のネグルと使い魔は、暗く狭い穴の中に降りていった。

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