2話 息を吸う前には吐かなくてはいけない
メグミは自分の目を疑った。
食べ物はとても大切だということは知っている。
人間のからだは自分が食べたものでできているからだ。
もし仮にメグミに双子がいたとして、双子のメグミはホットドックばかり食べていたとする。双子は一卵性双生児であるなら同じ遺伝子を持っていることになる。いくら同じ環境で育ったとしてもホットドックを食べ続けているもう一人のメグミは論理的思考力が秀でているかもしれない、休みの日は家に閉じこもってパソコンとにらめっこしてる子かもしれない。運動好きな子かもしれないし、毎日かかさず部屋の掃除をする人かもしれない。とにかくホットドックばかり食べているメグミと今のメグミはまったくぜんぜん違う。クローン人間だとしても遺伝的に同じってだけでそれはメグミではない。人の性格は生まれつきなところもあるけど、まわりの環境に大きく左右されるからね。とにかく、食べ物を選ぶときはじっくり考えて選ばなくてはいけない。
風呂あがりに体重計の上に立ちながら、表示される数値を疑いの目でみつつ、メグミは再認識した。
何回乗っても同じ数字しかでてこない。
壊れてるのかな。
調整できていないのかな。
巻いているタオルが重いのかもしれない。
かがんでみたり、横からみたり、いろいろ試してみたけど先週より明らかに体重が増えている。うちの体重計は体脂肪率を測定できないから、太っているのかどうかわからない。けど明らかに数字は増えてる。
ジャンクフードもファーストフードもここ最近は食べてない、三度の御飯もたくさん食べないようにしているのに。
自分にかかる重力だけ局地的に倍増したのかな。
「洗面所の前でなにやってるんだ、湯冷めするぞ」
その声に、メグミは慌ててタオルをまいた。
兄の秋人はクマのプリントされた青いパジャマを着て、大きなあくびを一つしながら、歯ブラシに歯磨き粉をつけている。練り状なのにどうして歯磨き粉っていってしまうんだろうと、どうでもいいことをメグミは思った。
浴室とトイレと洗面所が隣接しているから風呂あがりにはち合わせてしまう。
ドアがあるんだから入るときぐらい声かけてよ、私は女の子なんだから、
秋人はいい加減な返事をして口を濯いだ。
歯ブラシを「秋人」と書かれたコップの中に入れて、もと置いてあった鏡の前の台上に置いた。
「おまえ太ったんだろ、よく食べてるもんな」
食べてないってば、
「体を動かさずにゴロゴロしてるからだぞ」
してないってば、
そう言ってから、ならどうして体重が増えているのか疑問に思った。食べなくては太らない。身体を動かしてカロリーを消費させればその分痩せていく。一たす一は二になるのに、二ひく一は一になるどころか三にも四にもなるなんて。世の中には学校で教えない計算問題がひそんでいるのかもしれない。
どうして太るんだろう。
「それは呼吸してるからだよ」
秋人は真面目な顔をして言った。
「俺達は呼吸して生活をしている、人間だけじゃない、動物も植物だって吸って吐くのくり返しをして生きている。それをやめたら死んじゃう、それは知ってるだろ」
知ってる、当たり前じゃん、
「だが、空気にカロリーがあることは知らなかっただろ」
秋人は高校生で、メグミよりいろいろなことをたくさん知っている。でもときどきおかしな作り話をしてからかうことがある。どうせまたデタラメな話に決まっている、メグミは騙されないよう疑いの目で兄をみた。
「おまえ、信じてないだろ。いいか、カロリーってのはそもそも熱量の単位なんだ、一気圧の中で水が一グラムを一四・五度Cから一五・五度Cにあげるのに必要な熱量をいうんだよ。たとえば、おまえがジョギングをしているとする、五キロぐらい走っていると体は熱くなるし、汗はでてくる、犬みたいに大きな口を開けてハアハア息切れになるだろ。お腹だっていたくなる。走ったからじゃないんだ、たくさん空気を吸ってからだがもうお腹一杯で苦しいって言ってるんだ」
確かに走っているとき、どういうわけか差し込むようにお腹が痛くなる。
お腹がすいてるときでも痛くなるのはそういうことなのか。
だったら食べ物なんて食べなくたって生きていけるはずなのに、それは無理なのはどうして?
「空気は食べ物を食べさせる気持ちにさせるものなんだ、弁当持ってハイキングに行くとする、公園でもいいし、いつもと違う建物の中じゃなくて空の下で食べたときの方が断然おいしいだろ。なにせ、喰う気、って言うぐらいだからな。空気は人になにかを食べさせる、そういう力を持っているから、呼吸してるとなにか食べたくなるのさ」
なるほど、じゃあどうしたら痩せられるの?
「そんなの簡単だよ、カロリーは熱量のことだから、熱をたくさんとればいい、お風呂にはいるのが一番効果的だろうな。なんせ温泉は健康にいいってよく聞くだろ」
人はもっともな理由や理屈などを突きつけられるとすんなり納得してしまうのだろう。つい、疑うという行為を忘れてしまう。
メグミはもう一度お風呂に入った。
少し湯冷めしていたからちょうどよかった。
とにかくあったまろう。
いっぱい汗かこう。
そして痩せよう。
太りすぎはよくない。
肥満は幸せの象徴だった時代もあったかもしれない。今は憎むべき対象なんだ。だからといって世の中に蔓延しているダイエット情報は、こうしたらあなたもすぐに痩せられる、美しく均等にとれた身体を手に入れましょう、太っていることは悪なのですよと押しつけてくる。世の風潮に踊らされるのは嫌だし、惑わされるのはもっと嫌だ。
自分のことは自分で決めたい、自分のことを決めようとすると、どうして周りからよってたかって、こうしなさい、ああしなさい、これはしてはいけません、それはだめです、言うことを聞きなさい、絶対守りなさい、と拘束しようとするのだろう。
少しぐらい太っててもいいじゃない、そう思うときもあるけど、愛犬のコロみたいに、まるまるっとした体型にはなりたくない。
子供の時の体型が将来のプロポーションを決定する要因になるって誰かから聞いたような気がする。
生きていくためには食べなくてはいけない。
牛や豚や鳥や魚を殺して、野菜や果物をふんだくって、他の命を食べなくては生きられない。にもかかわらず食べることを拒否しなければ痩せられない、太りすぎは命を削る、肥満と呼べる人が節食するのはわかるんだけどね。
わかってるんだけど、痩せたい、という願望は捨てきれない。
あぁ、矛盾だ。
矛盾、それは楚の国で矛と盾を売っていた人が、この矛はどんな盾をもつらぬくことができる、この盾はいかなる矛をもってしても受け止めることができる、と言ったところ、その矛でその盾を突いたらどうなるのかと質問され答えることができなかったというお話から、つじつまが合わない、論理に合わないことをいう。
食べることと痩せること、どちらが矛でどちらが盾なのかこの場合どちらでもいいのだけど、もともと矛と盾は競りあうものでなく、協力しあうために存在しているはずなのに……と、どこからともなく解説が聞こえてきそうだ。
耳にでなく頭の中で、ぼんやりと、やがて虚ろになり、視界が薄れていく……
「大丈夫、メグちゃん」
目の前に母の顔があった。
「湯船でのぼせちゃってたのよ、お風呂の中で寝ちゃったの、気をつけないとね、眠ったままお湯の中に顔をもぐらせたら息できなくなっちゃう、お風呂で溺死なんてお母さんいやよ、でもよかった、なんともなくて、ちょっと顔赤いけど、落ち着くまで寝てなさい」
額の上の冷たいタオルが気持ちいい。
メグミは部屋を出ていく母をベットから見送る。
ドアの向こう、遠目に秋人がいた。
「おい、大丈夫か」
秋人が部屋に入って言った。
ベットの隣に腰を下ろす。
大丈夫な訳ないよ、誰のせいだと思ってるの、
「悪かったよ、でも痩せたみたいだぞ」
脱水症状、のぼせたって言わないよ、
「簡単にだまされる方が悪いんだ、もう少し疑えよな。人を信じるときはとにかく徹底的に疑え、疑えば疑うほど信じることができるっていつも言ってるだろ。俺が今まで本当のことを言ったことがあるか、ないだろ、まあそんなこと言っても、今回は俺が悪かったよ、ごめん、わりい、ちょっとやり過ぎたよ、ごめんな、まあ、お詫びと言っちゃあなんだけどさ、ジュース持ってきたぞ、お前の大好きな果汁百パーセント、水分補給のためにも遠慮なく飲めよ」
秋人は後ろに隠し持っていた林檎のラベルの張った瓶を前に出してきた。
メグミが大好きなメーカーだった。
味が濃く、程良い甘さと酸味が気にならないほどのこの林檎ジュースを飲んだら、もう他のは呑めないほどおいしい。
喉の渇きより、からだが水分をほしがっていた。
メグミはコップに一杯、二杯、三杯と注いで飲んでいく。
やっぱり兄弟だね、人の嫌がることもたまにはするけどかわいい妹のことを大事に思ってるんだな、あなた達兄妹は本当よるとさわると喧嘩して犬猿の仲なのねと口癖のようにお母さんは言うけど、本当は仲がいいのかもしれないよ。犬猿の仲。イヌとサル、仲の悪いもののたとえとしてあげられる言葉だ。この場合、どちらが犬でどちらが猿なのかはっきりしている。自分が犬で兄が猿、干支がそうなのだ。
「おい、飲み過ぎじゃないか」
秋人が言った。
気がつくとメグミは瓶を一本、空にしていた。
「そんなに飲んで、太っても知らないからな」
部屋を出ていく兄の背中が笑っているような気がした。
やられた。
また兄の策略にはまってしまった。わざと飲ませたな。
前言撤回、兄さんなんて大嫌いだ!
教訓。
食べ物を選ぶときはよくよく考えて選ばなくてはいけない。
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