あれはなんていう星なの?
snowdrop
1話 虹がみたいから、今を生きる
堤防の上、メグミは雨上がりの空気を胸いっぱいに吸い込む。
しつこい暑さを突き抜ける、ひんやりと冷たい、秋の匂いをみつけ、一年ぶりのなつかしさに、こわばっていた顔がほころんでいく。
夕暮れの堤防、メグミは愛犬コロと共に、中間テストの出来が芳しくかなくて、沈んだ気分を変えようと、いつもは足を運ばない堤防にまで散歩に来ていたが、自宅から一キロも離れているところまで、どこをどう歩いてきたか思い出せないけど。
堤防の上から、視界三六〇度ぐるりと見渡してみる。遠くに名前もわからない山陰がみえ、ぞんざいに建ち並ぶビルや住宅が夕闇に染められている。川向こうのマンションが夕日を浴び、空は途方もなく高く広く大きく頭上にあり続けていた。
雲が燃えている。夕日でショッキングピンクのような色をした雲の向こう、東から暗い青が忍び寄る。
すごい。
漠然と胸に言葉が生まれ、空のすべてを身体の中に取り込みたいと思ったとたんに大きく深呼吸をひとつ。空を吸い込めるわけじゃない。空気を吸いに来たのでもない、でも深く息を吸いゆっくり吐くという動作の後でもう一度空をみると、自分が空とひとつになれた気がするから不思議だ。
空とひとつになるために、堤防に来たのかもしれない。
素直にそう思うと、スッキリした頭でメグミはテストのことを考えようとした。物事をじっくり考えるために必要なことはまず冷静になること、自分のペースを取り戻すことだと、夏来姉さんが言っていたことを思い出した。
大丈夫、落ち着いている。
落ち着いていれば冷静な判断ができる、と自分に言い聞かせながらもそれほど深く考えることでもないのになにしてるんだろう、と呆れつつ思い返す。
テストは数学と理科、論理的思考力を必要とするこれらふたつのうち数学がとくに悪かった。悪かったけど計算問題が不得意なんてそんなこと今にはじまったことじゃない。
☆ ☆ ☆
あれは三歳の誕生日だったと思う。
三本のろうそくに火をつけられたバースデーケーキを目の前に置かれると、思いっ切り息を吸い込み吹き消しながら、真っ赤ないちごが八個ものっている丸いケーキ、全部食べられるんだと思っていた。
一回二回と包丁が入る。
皿にのって目の前に置かれたケーキにはいちごがひとつ。
さびしい姿をみて、なんで切ったの、全部食べたいのに、どうしてこれだけなの、泣いて文句を言ったら母が目の前のケーキに包丁が入れ、
「メグミちゃん、ふたつになってよかったね」
と言われ、
ふたつも食べられるんだと思いながら素直に喜んで白くてあまいクリームをなめるわたしに、
「この子は算数がだめみたいね」
「そうだなぁ、とくに割り算がな」
笑いながら両親は話をしていた。
☆ ☆ ☆
また、小学校で足し算を習ったときのこと。
「一と一で二」になることは当然のようにわからず、どうして一と一で大きな一にならないんだろうと思いながら黙っていた。
「二と二で四」と先生が言ったとき、
どうして四なんですかと聞いてみたら、
「それじゃ四以外に何になるの」
先生の目がつり上がり怒るのだけど、口元は笑みを保とうとしてそれが逆にこわい顔にはみえず笑ってしまいそうになるのを我慢しながら、三ですと答えると、クラスのみんなから笑われてしまった。
「荷と荷で死」なんて悲しすぎる、せめて「荷と荷で産」でなくてはいかんと言っていたお米作りをしていたおじいちゃんの口癖がわたしは好きだった。
☆ ☆ ☆
引き算を習って帰ってきたときは、かなしくて仕方なく、
「どうして泣いているんだい」
と父に訊ねられ、
引き算はきらいだ、引き算はだんだん数がなくなってさみしくなると答えると、
「だったら足し算ならいいだろう、数が増えるのはにぎやかで楽しいじゃないか、五引く二はいくつ? という問題は二にどれだけ足せば五になるのか考える、足し算だと思えばいい」
という父のひと言から、引き算は足し算で答えを出すことにしたけど、それでも世の中は引き算で満ちあふれ、その一つに買い物があるが、レジに立ち、お金を受け取りおつりを渡す彼らは、足し算をしながら引き算をする計算のプロフェッショナルだと、小学校を卒業するまで信じていた。
☆ ☆ ☆
冷静なときこそ集中しなくてはいけない。
なのにどうして昔の嫌なことばかりが思いめぐってくるのだろう。
頭を振っても、記憶はぬぐい去ることはできない。
思い出は残酷だ。現実はもっと残酷だ。来週、答案が返ってくる。結果を待たなくてもできがよくないことぐらいわかっている。今日からでも追試の勉強をはじめないとまずいだろうなぁ、ため息をもらすメグミの足どりは重くなった。
コロはお構いなしにどんどん歩いていく。
夕方の犬の散歩はメグミが行くことになっていた。犬を飼いたい、世話はちゃんとするから、と両親に頼み込んだ憶えはない。誰かが、犬がほしいと言ったわけでもなかった。気がついたら犬がうちにいて、犬小屋と餌箱が庭に置かれ、散歩と御飯と、見知らぬ人をみるときだけ吠えている。
小さなからだ全体を使って耳に突き刺さるように、叫ぶ。
声を聞きながら、なんと力のこもった声なのだろう、と思った。相手の存在を無視せず、意識した排他心に、生き物らしい強さを感じる。
黙って吠えないときは苦しみ病んでいる。
先月のこと、蜂に足を刺されたとき、しばらく吠えなかった。側によって頭でも撫でようものなら誰かまわず噛みつこうと攻撃性を出しながら甘えてきた。甘えたいくせに噛みつこうとする。生き物である自分の吠えることのできない苦しみは病的だ。排他心を表に出さずにいれば平和にすごせる、そういうわけにはいかないのもまた常だ。
河川敷沿いの堤防を歩いていると、メグミは音が気になった。
自分の足音。
堤防の上は舗装されていない砂利道で、湯気が立ち上るように足下から耳の後ろへと聞こえてくる。いつもよりはっきり聞こえる足音に意識を合わせようとすると、不思議なことに、一定のリズムで刻む足は意識から離れ、勝手に前に踏み出そうとしていることに気づいた。
足が地面を蹴って再び足がつく、その感覚まで薄れ、ただ両足がつくるリズムだけを感じた。
メトロノームのように機械的なリズム。
人は心臓の鼓動で生きている。
鼓動は規則的な繰り返し、つまりリズムのこと。心臓が鼓動をやめたなら人の時間は終わってしまう。終わらせたくないためにもリズムを刻み続けなくてはいけない。なにをするにも、リズムは大切だ。
前を歩く愛犬コロの足音はこぜわしく聞こえてくるけどそれがコロのリズムだ。きれいにカールしたしっぽを小さく振り、四本足を器用に動かしている。
視線先を飛ぶ鳥が鳴き声あげて、羽を二度上下に動かし、空を切るようになめらかに弧を描く。二度上下し、ばたつかせるのをやめて風にのり、再び羽を動かし左へ旋回する。これがあの鳥のリズムだ。それを目にしたとき、風の中に消毒臭い病院の匂いがした。心電図が刻むリズムと鳥の飛ぶリズムが重なる。リズムをなくした鳥は飛べない。まっすぐ地面に真っ逆さまだ。
メグミはふいに立ち止まった。
コロが歩くのをやめ、草陰に鼻をこするよう近づけている。匂いを嗅ぐのは犬のたしなみ。人が花やお茶や水墨画を習ったり、駅前の英会話やパソコン教室に通うこととあまり変わらないかもしれない。いろんな考えをもつ人と出会うことは大切だ。けどたしなんでばかりいるのもどうかと思う。
落とし物を捜すように嗅ぎまわるコロから視線をはずし、辺りに目を向けてみた。
堤防の下の道路を車が走り去る。
畑や田んぼだったところに大きな家が建ち並んでいる。
河川敷にうっそうと広がる草木の合間にススキがみえる。
ススキも数本ぐらいならきれいに思えるのに、群れなして目に飛び込んでくる様はテレビやラジカセの上に降り積もった埃のようで、散らかり放題の自分の部屋を連想させた。
家に帰ったら勉強の前に掃除をしないとまずい。思いたったらすぐに行動するのが自分のいいところ。
コロの首につながる綱を引っ張り、もと来た道を急いで戻ろうとメグミは夕日に背を向けた。
大輝勇だ。
視界に入ってきた彼は、対岸の方を向いて両腕を空に伸ばして見上げていた。
暮れなずむ空に向かって背伸びまでして、腕を伸ばしていた。なにをやっているんだろう。彼には未来がみえるという噂があった。
なんでも小学校のとき交通事故に遭い頭を強く打ってからみえるようになったらしい。
一緒にしゃべっていると急に黙り込んで目線が宙を追いかけるそんなときみえてるみたい。どんな未来もとくに人の不幸がわかるそうだ。そんな推量と憶測が飛び交い、忍び寄る季節の気配のようにひそやかに噂は広まっている。
クラスメイトの誰もが本気に信じてはいなかった。だが疑う者もいなかった。真偽よりも先に、彼に対するはっきりしない不安だけが誰の心の中にも生まれていたからだろう。
メグミの胸中にもそれはあった。
声を掛けよう、という考えを、無視して通り過ぎよう、にすり替えた。
なにをしているのか興味がないわけではない。好奇心よりも、関わり合わない方がいいだろう、防衛本能が強く働いたのだ。それに、それほど親しいわけじゃない、たかがクラスが同じというだけ、話したことだって数えるほどしかない、しかも挨拶程度、ここは黙ってはやく帰ろう。
うつむき、顔を背けながら彼の後ろを歩いた。もう少しで通り過ぎる、その時になってコロが彼に向かって吠えた。どうして犬は無視するということを知らないんだろう。少しは覚えた方がいいぞ。
「やっぱり安曇さん、散歩の帰り?」
相手を前にして無視できるほど心は冷え切ってはいない。
メグミは小さく首を縦に振る。
それにしてもさっきはなにをしていたんだろう、背伸びの運動、とかいうわけではないだろうな、綿菓子みたいな雲に触りたい、なんてメルヒェンチックなことを考えているわけでもないだろう、どんなに手を伸ばしたって空には届かないんだから、それともなにか別な目的、たとえば未確認飛行物体との交信とか、まぁそんなわけないか、でもやっぱり気になる、聞いてみようかな、でも人見知りはげしいからな、別なことを聞いて和んでから本題に入ろう、たとえばみんなが噂している本当に未来がみえるのかということを聞いてみよう、笑いながら、そんなことできるわけないだろ、というに違いない。
「未来がみえるのかって? うん、みえるよ」
すがすがしい、秋風のように彼は応えた。
冗談でしょ、と少し怒ったふりして問いつめても真面目な顔して、なんとなくみえちゃうんだよ、と応え、どんなふうにみえるのか話してくれた。
「頭の上の方、視界の半分くらいに、ぼんやりと映画みたいに写し出されるんだ、ちゃんとカラーでね、意識を集中すると音もはっきり聞こえるときがあるよ」
彼は両手を頭の上あたりで振りながら、この辺りに映像が浮かんでくるんだよと説明する。
どのくらい先まで見えるの?
「二、三日先までかな」
半信半疑だった。
ひょっとしてからかってやしないか、疑念は拭い捨てられない。
病院でも行って精密検査でも受けた方がいいんじゃないだろうか。ドラッグをしている人は幻聴や幻覚がみえるようになったら危ないと聞いたことがある。彼もそうなんだろうか。それともただ単に精神的に疲れてるんじゃないだろうか。
今日び私達は疲れることばかり周りから押しつけられているから、隣町の学校でも学級崩壊が起きて大変だって先生達が話しているのを聞いたことがある。でも疲れてるようにはみえない。私をからかってもなんの特もないだろうし、本当なんだろうか。納得できるなにかがあるといいんだけど。
だったら二、三日先の私がなにしてるのか言ってみてよ、メグミは言った。
彼は、いいよ、と応えてからしばらく、ぼんやり空を眺めるようにみていた。その時間は一分くらいだったかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
彼の顔が少し火照ったようにみえる。
「放課後の教室、ぼくと一緒に勉強してる」
彼はそう言うと、用事を思いだしたと言葉を残して堤防を駆け降りていった。
なんで彼と一緒に勉強していなきゃいけないんだろう、本当に未来なんてみえるのかな、それよりどうして彼はここにいたんだろう、彼の家は学校近くにあったような、なんでこんなところに? それに、やっぱり安曇さんってなに、やっぱりってなによ、まるでここに来るってわかっ……てたんだ。
東の空には大きくてきれいな虹がかかっているのがみえた。
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