3話 引力を知るのは跳んだ後の落下時だ
テストの結果は予想通りさんざんだった。
あまりのひどさにメグミは職員室に呼び出しを受けた。
「いったいなんて点数だ、よくも中学生なんてやってられるな、おまえみたいなやつは小学生からやり直さないとどうしようもないな」
というようなことを言われた。
遠回しに
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だ、
お前は馬鹿だと言っている。
そう聞こえた。
そんなに言わなくてもわかっているのにさ。
担任の河田先生はテスト結果が書かれた紙を指で弾きながらにらんでいる。怒られているのは自分なのに妙に落ち着いている、とメグミは思う。
にらみつけている先生の方が冷静さがなかいからだ。
まるで犬だ、とメグミは思った。
犬は律儀で主人を守るために吠える。自分が怖いから脅しを掛ける。吠えてる間は少し恐怖がやわらいでいる。吠えていないと行き場のない恐怖から抜け出せない。目の前の相手を意識しているからだ。どうして犬は無視しないんだろう。かわりに吠えるときは相手を選んで吠えているみたいだ。自分が勝てる相手、やり返されない相手、自分が勝てない相手にはけして吠えたりしない。だから吠える相手を間違える。
世の中にはもっと吠えなくてはいけない相手があるのに、たとえば税金で自己の失態をなくそうとする銀行とか国とか、社会には学校で習わない計算が絶対存在しているんだ。
社会はいいよね、試験もなければ怒る先生もいない、不公平だよ。けど追試もないんだよね。
河田先生はため息をついて、
「来週追試をするからそれまでによく勉強してこい、追試の問題は今回のテストと同じだから」
と言った。
怒ってるわけじゃないんだよね、叱ってるんだ。
メグミが職員室を出るとき、大輝勇と入れ違いになった。
手には日誌を持っている。そういえば日直当番だったな、なんてことをぼんやり思っていると、
「大輝、いいところに来たな、すまんが安曇の勉強みてやってくれないか」
「いいですよ」
という会話が聞こえてきた。
放課後の教室は、昼間の動物園のような騒がしさとうってかわり、冬の海岸のようだった。
「さて、どの教科からはじめる?」
勇は言った。
少し楽しそうにみえる。
追試のない人間は悩みが少なくてうらやましい。だいたい数学のテストを全問正しく答えるなんて異常だ。きっとなにか特別な力を持っているに違いない。
たとえば……
いや、たとえる必要はなかった。
彼には未来がみえるんだった。
メグミの追試は理科と数学のふたつ。理科はたぶんなんとかなると思うから、壊滅的危機に陥っている数学を教えてもらうことにした。
点数が出席番号と同じだった。
返してもらった答案をみたとき名前の後ろに書かれた数字がまさか点数だったとはすぐには気がつかなかった。隣や周りの子の答案をみせてもらって、ようやく理解できたぐらいだから。数学以前の問題かもしれない。
未来がみえるって便利だよね、
メグミは少しムキになっていた。
だいたいずるいんだ、三日ぐらい先がみえるならつまり試験の問題だってわかるわけでしょ、タイムマシンに乗って未来の出来事をのぞいてきてトラブルを回避するのと同じじゃない、そのうちタイムパトロールに捕まるよ、そういいながら彼の顔をみる。
「SFが好きなんだね」
軽く受け流されてしまった。
頭に隕石がぶつかったみたいにすごく嫌な気分になった。
相手が自分に張り合ってくるからといって、こちらが相手と張り合う必要はない、それはわかるけど無視されるかなしみは、むきかけのリンゴのようにかなしい。
「テストの問題がみえたから満点だったわけじゃないよ」
実力ですか、まったく頭がいい人はいいよね。心で思いながらもメグミは口に出さなかった。でも顔には出たかもしれない。
「数学って、数や量や空間などの性質と関係を考える勉強なんだ。ルールをおぼえれば、規則に従って一つひとつ当てはめていく、ジグソーパズルみたいに最後には必ずひとつの絵がでてくる、ルールを勉強するのが数学だよ」
ルールって、私じゃない他の誰かがつくったものじゃない、そんなものに従うのはイヤ、
「ルールは確かに人のつくったものだよね、でもね、ルールって自分でつくるものなんだ」
やっぱりそうでしょ、
「けどルールは頭で作るんじゃない。雨の降った後のグランドはぬかるんでいて走ったら転びやすいよね、仮に安曇さんはそのことを知らなかったとして、グランドに飛び出して転んだという体験をする、二度目は直感が働く、また転ぶかもしれないぞ、気をつけないといけない、そうして安曇さんの中にルールが生まれる、ぬかるみに入ってはいけない、足を捕らわれて転んでしまうから、ルールは自分の体験から直感が生み出すものなんだ。アルキメデスというおじさん知ってる?」
どこかで聞いたことがある、
「アルキメデスの定理などを発見した数学者であって、物理学者でもあった人なんだけど、いつ頃生きていた人か知ってる?」
五〇年ぐらい前、かな?
「もっと昔、二二○○年ぐらい前かな」
そんな大昔の人がどうしたの、
「アルキメデスというおじさんは、ある日、王様に呼び出されたんだ。王様の金の王冠に金以外のものが混ぜられているかどうか調べてほしいということだったんだ。他の金属が混ぜられているかどうか調べるには一度溶かしてしまうのが一番手っ取り早いんだけど、そんなことしたら王冠が王冠でなくなってしまう。王冠は王冠の形のまま、混ぜられているかどうか調べてくれと言われたんだ。科学が発達した現代なら、そんなことは簡単かもしれない。でもアルキメデスが生きていた時代は二○○○年以上も昔なんだ、もちろん便利な道具なんてなかった。どうしたと思う」
知らない、
「安曇さんならどうする?」
壊しちゃだめなんでしょ、作った人に聞くのが早いんじゃないの、
「作った人が嘘をついてるかもしれない、それを調べるにはどうしたらいい?」
警察とか探偵に任せればいいんじゃないの、
「証拠がないんだよ、王冠以外に」
だったら王冠を……そうか、だから王冠を調べるのか、アルキメデスおじさんはどうしたの、
「考えたんだ。どうしたらいいのか、とにかく考えて考えて考えて、それでもやっぱり考えたんだ。考えて考えたけどやっぱりわからなくて、でも考え続けたんだ、お風呂に入っても考えた」
それでのぼせたんだね、
「のぼせたのかはわからないけど、考えていると自分が湯船に入ったら水があふれたんだ、考えてるとき水の溢れるのをみて思ったんだ、どうして水が溢れたのか、そうか自分が入った分だけ水が外に出たのか、考えているときにわかったんだ、どうしたら王冠に混ぜものが含まれているかどうか壊さずに知る方法を。わかったとき思わず風呂から出たままの格好で町中を走り回ったらしい」
うわー、露出狂?
「そうじゃないよ。大発見をした興奮と喜びで、飛び出したんだ。王冠とそれと同じだけの金を、水がいっぱいに入ったそれぞれの容器の中に沈めて、溢れた水の違いをみたんだ。もし混ぜられていなければ、溢れ出た水の量はおなじになるからね」
へえ、露出狂って頭いいじゃん、
「露出狂はともかく、水の量の違いから混ぜものが含まれていたことを見抜いたんだ。このことからアルキメデスの定理が生まれたんだ。彼は体験から直感を働かせてルールを生み出したんだ、勉強は誰かが体験し、直感が生み出したルールを学ぶことなんだよ、わかった?」
うん、わかった。
メグミは素直にうなずいた。
彼の話したことが本当か嘘かは別にして、先生よりもわかりやすくておもしろかった。でも今は数学を勉強していたような気がする。
そう言うと、
「理科と数学の境界線はあまりないから、数学を使わないと理科はわからないし、理科がなければ数学は生まれてこなかったんじゃないかな、よくわからないけど」
いいヤツじゃない、大輝勇って。
笑ったときの顔がどこかにくめなかった、それもある。
それもあるんだけど、どうしてかわからず、とにかくいいヤツだと思ってしまう。
言葉にできない気持ちもあっていいと思った。
数学の後、理科も教えてもらった。
大輝君って、教師に向いてるかもしれないね、そう言うと、
「ありがとう」
と言葉が返ってきた。
教師になるのか聞いてみると「ならない」と言った。
さっきのありがとうはどういう意味なの、
「人と話すのは苦手だけど、クラスの人とゆっくり話せたのは安曇さんがはじめてだから」
変な噂があるからね、
「未来がみえるのがいけないことなのかな」
さてね、私はみえた方がいいな、だって追試受けなくてすみそうだから、
「安曇さんは勘違いしてるよ」
なにが、
「未来は確かにみえるけど、それは変えることができないんだ。僕がみえる未来ってのは、ちょっと先の自分を人より先にみられる、映画や小説をみるまえに結末を誰かに教えられると嫌だろ、あれに似てるんだ。けして変えることができない、後で確認するんだ、そういえばこんな風にみえたんだって、既視感、デジャヴなんだ」
未来を変えようとしたことないの?
「小学生の頃はよく試してみたんだ、毎日朝刊を読む癖をつけておいて、未来をみてみる。今日の朝刊が明日の新聞にみえてくる、その記事を読んで警察に電話してみたりしたんだけど、いたずらと思って相手にはしてくれなかった、それでも翌日には確実にその事件は起きて、テレビや新聞なんかが騒ぐんだ、それでも諦めず続けてたんだ、おかげで三日ぐらい先まではみえるようになったけど、変えることはできないんだ」
堤防で私に逢うってことも知ってたの、
「わかってた。でも少し違うことをしてみたんだ」
どういうこと、
「思うんだけど、未来は誰でもみえるんだと思う、大多数の人がそのことに気がついてないだけなんだと思う、未来ってね、その途上にいる人だけにみえるものだと思うんだ、だからみえる未来の現場にぼくが立ったら、なにかが変わるかもしれないって、思ったんだ」
よくわからないんだけど、何が言いたいの?
「あの日、あの時間に、あの場所で、本当は別なことが起きるって朝刊に、未来の朝刊だけど、書いてあったんだ、ぼくはそれを変えたかったんだ。はじめて未来を変えることができたんだ」
わたしが大輝君と逢ったことで?
「逆だよ、ぼくが安曇さんと逢ったことでだよ」
メグミは彼の言っていることがいまいちよくわからなかった。
とにかく彼は未来がみえる。
みえた未来は変えることができない、でも変えることに成功した、それは自分に逢うことで未来が変わった、それはどういうことなんだろう。
たちの悪いいたずらには思えないし、嘘をついてるようにはみえない、だいたい私をだましてもなんのメリットもないだろうから。
どんな未来だったの?
「僕に逢わずにあのまま家に帰ったら、その途中で君は誰かに襲われたんだ。相手は誰なのかはわからないけど」
死んでだの?
「多量の出血で重体だって書いてあった」
ふうん、
度が過ぎる驚きは逆に人を冷静にさせる、と聞いたことがあったけど本当なんだと実感した。本当にみえるのだとして、彼のみた未来は、彼の行動によりメグミを助けたことになる。
両手を空に伸ばしてたのは私の目を引くためだったの、
「あれはあれでまた別なことをしてたんだよ。とにかく犬が吠えてくれてよかったよ」
本当は犬が怖くてどうしようかと思ってたんだ、うっすら笑いながら彼はそう言った。
帰宅してからメグミは、どうして彼が助けてくれたのか、聞くのを忘れていたことを思い出した。
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