牙と爪

 4月も下旬になった、金曜の夜。

 五十嵐は、篠田を焼肉店へ連れてきていた。

 以前にも一度、焼肉という誘いにぶんぶんと尻尾を振って反応した篠田を連れて来た人気店だ。


 だが前回は、篠田が佐々木から告白を受けて悩んでいるというディープな方向へ話が流れ——結局、二人ともとてつもなくどんよりとした空気に呑み込まれたまま会はお開きになったのだった。

 篠田もあの時は恐らく肉の味などわからなかっただろうし……五十嵐も、篠田がワンコのごとく目を輝かせて美味な肉をわふわふ頬張る姿を見ないことには気が済まない。



「——どうだ? 今回は、ちゃんと味わえてるか?」


「……ほんとまじでうますぎますねここの肉。

 ついさっきまで牧場を走ってたんじゃないかコイツ?っていう味がします。

 前回は全然味わえなくて勿体無かったなー」


 予想通りのキラキラした瞳で幸せそうに肉をがっつく篠田を、五十嵐は時々ノンアルコールビールのグラスを呷りながら頬杖をついて眺める。

 こういう時間は、文句なしに幸せだ。



 3月末、佐々木の二股疑惑の現場を抑えるために出かけた渋谷でのライブの夜から、約ひと月。


 あの夜に、もちろんこの可愛い恋人と急展開したのだろう——と思ったら大間違いだ。

 あの時のキス以降は目立った接触は一度もなく、ぶっちゃけお試し期間中と全く変わらない距離の付き合いが依然続いている状態である。


 なぜなら……なんだかんだでその気になれば割と獰猛な方だと自負していた五十嵐の中の狼が、なぜか尻尾を股の間に挟んでプルプル震えているからだ。


 これまで恋らしき場面では器用に使っていたはずの牙や爪は、今やすっかり使い物にならなくなっていた。五十嵐自身さえ予想しなかった程度に。

 いや……使い物にならない、というより、使い方がわからなくなった、という表現の方が近いかもしれない。



 もちろん、あからさまにギラギラ剥き出しにしようなどとは最初から思っていないのだが——こんなにも恋しい相手に対して、その想いの強さとは裏腹に、牙や爪をうまく小出しにすることすらままならない。


 ……なぜなのだろう。



 タバコを口にしたい気持ちを抑えつつ、五十嵐は篠田に気づかれないようふうっと小さいため息をつく。



 思えば——

 これまでなんとなく付き合ってきた女子たちに対しては、ある意味揺るがない安心感のようなものがあった。


 彼女たちは、絶対に自分に惚れており——そんな彼女たちを喜ばせる無難な方法も、なんだかんだで心得ていた。

 そして、時には彼女たちに多少甘えても、彼女たちの気持ちはその程度では揺れないだろう、と。

 男と女とは、そんなものなのだろうと……信頼できるテンプレ的な何かが、常に自分の中にあった気がする。



 だが——今は、状況が全く違う。

 何をどうしたらいいのかが、全くわからない。


 彼は、これまではキラキラと綺麗な女子に一目惚れするような、ごく普通の男の子だったのだ。

 そんな彼を——俺が。

 何をどうしてやれば、恋人として喜ばせることができるのか。


 逆に、何をしたら嫌がられるか。どこまでならば問題ないのか。

 彼が自分に何をどの程度求めているのかが、全く把握できない。



 もしかしたら——

 篠田が自分にイメージしている「恋人」とは……自分が思っているよりはるかに……なんというか、幼稚園児や小学生レベルでピュアな何かなのではないか?

 屈託無いその笑顔などを見ていると、どうしてもそういう不安を抱かずにはいられない。

 彼が自分の方を向いてくれたそのことさえ、まだどこか信じられないのだ。

 隣にいてくれる彼を、決して失いたくない。いきなり深く傷つけたり、恐怖感を抱かせたりは、絶対にしたくない。

 そんなことを思えば思うほど、自分勝手な恋人感覚でぐいぐい踏み込んだりなどできなくなる。



 ——もっと触れたい。

 腕の中に抱きしめたい。

 この愛おしい恋人を。


 そんな欲求が強まるほど、僅かに触れることにすらいちいち過剰反応している自分がいる。




 ————どうしたらいいんだ、これ??


 五十嵐にとって、これはまさに初めて直面する難問だった。 




「——五十嵐さん?」


 向かい側の篠田の呼びかけに、はっと引き戻される。


「……あ……。

 ごめん、ちょっと考え事してた」


「もーさっきから俺ばっかり食べてるじゃないですか。流石にこの皿一人で平らげるのは無理ですって。

 ほらほら今度は俺が焼きますから、五十嵐さん食べてください。俺結構焼くのうまいんですよ。あ、これすごくいい感じ!」


 そんなことを言いつつ、篠田は食べごろの肉を甲斐甲斐しく五十嵐の皿へと乗せる。


「この辛いタレ、めちゃめちゃうまいですよー。もー勝手に乗せちゃいますからね! あ、それとサンチュも。

 ……早く食べないと、冷めちゃいます」



「……」


 そう微笑む彼を、五十嵐はじっと見つめる。




 ——……あーーーーー。くそっ。

 マジで限界だ。

 そういう仕草や言葉や表情の一つ一つがどんだけ俺の心臓をグサグサ滅多刺しにしてるのかわかってんのか君は!!!???

 いや、違う。悪いのは君じゃない。俺の思考が混乱を極めてるのが悪いんだ……って無意味な脳内議論を展開している場合じゃない。とにかくこの持って行き場のないコレをどうにかしなければ、苦しくてどうしようもない……っっっ!!!!



「……五十嵐さん、最近何だか変じゃないですか?」


 思考回路の著しく滞った五十嵐の様子に、篠田は小さく首を傾げ、どこか困ったような顔になる。



「——……

 べっ、別に」


 次々に繰り出されてくる彼のキュートっぷりをそれ以上見つめ続けることができず、五十嵐は不機嫌な小学生のようにそう答えると乱暴にグラスを呷った。









 一連のメニューを概ね食べ終え、店を出る頃になって、ふと五十嵐は気づいた。

 さっきまではいつも通りに見えた篠田が、何となく黙り込んでいることに。



 会計を済ませ、店の外へ出ると、篠田は静かな微笑で言う。


「五十嵐さん、ごちそうさまでした。すごく美味かったです。

 月曜、五十嵐さんの分のランチ作って持っていきますね。


 じゃ——俺、帰ります」



「え?

 いや、俺車だし。君のとこまで送ってくよ、もちろん」


 当然そのつもりだろうと思っていた篠田の予想外の申し出に、五十嵐は半ば慌ててそう返す。



「…………

 五十嵐さん、俺がいたら邪魔じゃないですか」




「——……」



「最近何か、考え事があるようだし……俺が『どうしたんですか』って何度聞いても、いつも『なんでもない、気にするな』って答えてくれるけど……それだけだし。

 側にいても、鬱陶しいだけじゃないかと思って」





「——……

 鬱陶しいなんて、あるはずがない」



 こういう時、なんと言えばいいのか。


 こんな風に溢れそうになっているものを、どうやって伝えたらいいのか。



「……ほんとですか?

 無理しないでくださいね。——五十嵐さん、いつも優しいから」





「——……」



 自分の気持ちを、ちゃんと伝えたい。

 ——どうにかして伝えなければ。


 今、そうしなければ——この人はきっと、こんな風に少しずつ、自分から離れていってしまう気がする。




「……とにかく、送っていくから。

 一人で帰ったりしないでくれ」



 どこか震えそうになる気持ちを立て直し、五十嵐はなんとかそれだけ篠田に伝えると駐車場へ向かい歩き出した。




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