囁き

 早春の浮き立つような客で賑わう、土曜の大型ショッピングモール。

 佐々木さんと午後一杯ぶらぶら店内の散策を楽しみ、長い行列待ちをした末にお目当てのタピオカミルクティを堪能し、底抜けに明るい彼女のおしゃべりで腹筋が痛むほど笑い……ふと気づけば、夕闇が濃くなっていた。



「この後、都合悪くなかったら、私のお気に入りのカクテルバーでも行く?」


 会話の途切れた唇にふと綺麗な微笑みを浮かべ、彼女は俺に軽くそう問いかける。


 夕暮れの薄闇の中で見る彼女は、昼間の明るく賑やかな表情とは全く違い、いつもドキッとするほど艶めいて美しい。

 俺は一瞬、言葉を詰まらせた。



「……」



 ——この後。


 一人で部屋にいると、どうせろくなことを考えない。

 自分自身のあやふやな情けなさばかりが押し寄せて、どうにもやりきれない。

 この人と一緒に、もう少しそんな自己嫌悪から遠ざかっていたい。



「——うん。そうしようか。

 俺も、特に予定ないから」


 俺は、彼女に微笑みつつ頷き返した。





 以前にも一度佐々木さんに連れて来てもらったカクテルバーは、週末の客で華やかに賑わっていた。

 彼女の前にはシャンディガフ、俺にはソルティドッグが静かに運ばれる。


「じゃ、乾杯〜。

 昼間結構歩いたし、足が疲れてるよー。座って初めて気付くよね、ふふっ。

 こういう時は、やっぱビール系が欲しくなっちゃう。何気におっさんっぽいなあっていつも思うんだよね」


 シャンディガフは、ビールとジンジャーエールを1:1でステアする、爽やかに甘いカクテルだ。

 彼女はそんな風に茶化すけれど、俺はそのきめ細かい泡を閉じ込めた淡い金色のグラスが、こんな時の彼女によく似合うと思った。



 夜の気配の満ちるバーのテーブルで、今日の彼女はいつになく黙り込み、静かにグラスを傾ける。

 気の利いた会話を自分から提供したりが滅法苦手な俺であるが……いつも細かいことを気にせずにいてくれる彼女の大らかさに甘えることにも、少しずつ慣れてきた。

 昼間の疲れを癒すような気持ちで、俺も黙って美味なカクテルを味わう。




「——ねえ。

 ここ出たら……私の部屋に来ない?」


 窓の外に見える街の華やかな明かりを眺めながら、彼女が何気なくそう囁いた。




「…………え」



 俺は、思わず彼女を見た。

 グラスに伸ばしかけた手が止まる。



「だって。

 篠田くんって、私が言わなきゃ何となくそういう展開なさそうなんだもん」


 彼女は、残り少なくなった一杯目のグラスを静かに口に運び、クスクスッと無邪気に微笑んだ。





 ——ああ、そうか……。

 そういう展開……


 ってこういうのは本来男からアクションを起こすべきじゃなかったのか!??




「——ご、ごめん、なんか……」


「え、どうして謝るの?

 そういうところ、篠田くんらしくて、すごく好き。

 私的には、やる気満々でギラギラがっついてる男よりずっといい」


 彼女はさらりとそう答える。

 そうして俺を見つめる瞳が、初めて見るような大人の女の甘さをゆっくりと湛えていく。



「——……」



 返す言葉が見つからず、俺は彼女をただ見つめ返した。



 ジリジリと、おかしな動揺が胸の奥から沸き起こる。



 ——完全に無知、というわけじゃないのだ。断じて。

 小宮山さんに熱を上げていた時は、それこそ彼女に触れたくて日々身悶えていたわけだし……

 ただ実体験がない、というだけであり……




 うぐぐぐぐ。



 飲むしかない。



 次第にぐわぐわと動揺していくビビリな俺を何とかせねば。

 ある意味非常に重要かつデリケートな局面に差し掛かったここからの展開を無事クリアするべく、俺はひたすら酒の力に縋った。









 バーを出る頃には、俺は普段頑固に自分を囲っている心の壁もいい加減崩壊しかけていることを感じていた。

 結構長時間飲み続けたせいか、彼女も今日はだいぶ酔いが回ってしまっているようだ。


「めんどくさいから、タクシー乗っちゃおう」

 ちょうどポツポツと雨が落ち出したこともあり、彼女は道を行くタクシーを呼び止めると、そのまま自分の部屋付近らしき場所を運転手へ伝えた。




 小さいけれどお洒落な作りの、可愛らしいアパート。

 外階段で二階へ上がり、バッグの中の鍵を探って取り出すと、彼女は玄関のドアを開ける。


「散らかってるけど気にしないでねー」

 そう言って、彼女は酔いで染まった頬を綻ばせて軽く笑った。



「——お邪魔します……」



 こじんまりとしたワンルームだ。彼女が言うほど乱れた気配は感じない。

 しかし実際のところ、部屋の散らかり具合をチェックしている余裕など全くない。

 酔いやらその他説明しようのない感情でぐんぐん熱くなる顔や身体も、もはやどうすることもできない。


 ぎこちなくリュックをソファへ置き、とりあえず座らせてもらおうかな、と思いかけたところへ——

 柔らかな重みが、不意に後ろから俺の背を抱きしめた。




「——……寂しい。

 どうしようもなく」



 肩越しに、震えるようなか細い声がそう囁く。



「——……」




 寂しい。


 その瞬間、俺は自分自身の心の奥を読まれたかのような錯覚を覚えた。



 ——そうだ。

 自分も、この人と全く同じことを感じていたのだ。




 俺は、思わず振り向き——

 自分と同じ寒さを堪えて立ち竦んでいるその人の華奢な肩を、力一杯抱きしめた。





 事は、それなりに運ぶ。

 俺も男だ。

 一旦そうなれば……愛おしさを感じた相手の温もりと柔らかさを無我夢中で求め——身体が向かいたい方向へと、ひたすらに引きずられていくだけだった。




 互いに快感の大きな波を越え、甘い喘ぎの落ち着きかけた彼女の唇から——それは零れた。




「——ハルト」





 ……ハルト……



 

 今、彼女は——

 そう言った…………?




 ————誰だ?




 首に腕を回して俺を引き寄せる彼女の、半ば溶けかけた眼差し。



 ——今、自分が何を囁いたか。

 溶けるほどに酔った彼女は、それに気づいていない。





「————…………」




 ここまでの高揚は、一欠片も残らずどこかへと押し流され——


 俺はただ、呆然と彼女を見下ろした。




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