企て

「お待たせいたしました」


 オーダーされたコーヒーをテーブルへ運ぶと、五十嵐は穏やかに真琴を見上げ、さらさらと話しかける。

「バイトお疲れ様、真琴ちゃん。

 ——初詣でお家にお邪魔した際は、紅茶とクッキーご馳走様でした。

 あの時、土曜の午後は駅前のカフェでフロアスタッフしてるって話してくれたよね。

 制服が可愛くて気に入ってるって言ってたの思い出して……なら多分ここしかないと思って入ったんだが、当たりだった。急に来て驚いたでしょう? ごめんね。

 制服、すごくよく似合ってる」


「あ、ありがとうございます……」


 今日の五十嵐は、シンプルな黒のVネックのセーターに、細身のジーンズ。

 飾り気のない装いが素材の良さをますます引き立てる、とでも言おうか。3月初旬の少し春めいた気配が、僅かに開いたその胸元に漂う。 

 大学生には、このなんとも言えず甘い大人の空気は些か刺激が強い。

 眩しいその微笑を直視できず、真琴は頬を染めてモジモジと俯く。


「——ところで、今日は仕事何時まで?」

「えっ? えーっと、6時までです……」

「そう。そのあと予定は?」

「いえ何も……」

「そうか、なら良かった。

 ——実は、今日は真琴ちゃんに大事な相談事があってね。

 ……少し、付き合ってくれる?」


 どこかに困惑を漂わせるその微笑みの艶っぽさに、真琴は思わず目眩を催す。

 こういうハイクラスな男にこんな風に囁かれて、断れる女はいまい。


「そ、それはもちろん……大丈夫です!!」

 目からハートがボロボロ零れそうになるのを必死に抑え、真琴は無我夢中で即答する。


「じゃ、6時にまた迎えに来るよ。店の駐車場に車停めて待ってるから。

 君が嫌じゃなければ、君の行きたい店で一緒に夕ご飯食べよう」


 それだけ言って美しく微笑むと、彼はなんともスマートにコーヒーを飲み終え、店を出て行った。



「……はああ〜……

 色気がぶっちゃけ半端ない……

 あの人の告白を拒んでるとか、にいちゃんマジ? むちゃくちゃ尊敬するわ……

 ってかそれよりも、私に大事な相談って……うむむむ???」



 まるで夢から覚めたかのようにテーブルに残ったカップを片付けつつ、真琴はぶつぶつとひとりごちて首を傾げた。





 その夜、7時。

 人気のイタリアンレストランのテーブルに、真琴は五十嵐と向かい合わせに座っていた。


 ここは、以前から真琴が来てみたいと思っていた店だ。兄の会社からも近いようだし、いつか兄にせがんで連れてきてもらおうと目論んでいた。

 だが、相手が違うと、こうも気分が違うものか。

 ここに来るまで乗ってきた彼のネイビーブルーのBMWは、真琴にはまさにシンデレラの馬車の乗り心地だ。上質な男の隣というのは、なんとふわふわと甘い夢のような場所なのだろう。


 ただ——今日の相談というのは、ほぼ間違いなく自分の兄についてのことだろうと……真琴は、それも予想していた。



 運ばれてきたワインのグラスを軽く持ち上げ、五十嵐は真琴のカシスオレンジのグラスを誘うようにして優しく乾杯を交わす。


「真琴ちゃん。今日は、突然の誘いに付き合ってくれて、ありがとう。

 内心警戒されちゃうんじゃないかって心配だったけど、すごく嬉しいよ」


「いえ……警戒なんて」


 穏やかに自分へ向けられた眼差しに、真琴はぎこちなく微笑む。



 ——その眼差しが本当に見つめているのは、兄であり。

 それについて何かの手助けを求めて、今日彼はここまで自分に会いに来たのだろう。


 それでも、恐らくその相談事をさらりと口にするのは、五十嵐にとっても難しいはずで——。



 五十嵐の心の内を汲み取り、真琴は自ら本題へと向かっていく。



「あの……

 今日の相談事っていうのは……

 ……兄のこと、ですよね……?」




「————……


 真琴ちゃん……

 何か、知ってるの?」



 真琴の言葉に、五十嵐は一瞬鼓動を乱したような気配を漂わせ——静かにそう問いかける。



「……この前、兄の部屋に遊びに行った時に……

 なんだか兄がむちゃくちゃ悩んでる様子だったので……何となくそういう話になったんです。

 あんな風に、常に自分自身の気持ちが曖昧なタイプなので、うちの兄は」



 本当は何となくどころか自分が兄の部屋に押しかけて問いただしたのだが、その辺は伏せつつ真琴はそう説明する。



「——そうか。


 なら……

 お兄さんに対する僕の気持ちも……もう、知ってるね?」


 真琴が少なからず事情を知っていることにも戸惑いを見せず、五十嵐は真琴を真っ直ぐに見つめてそう呟く。



「——はい」



「——……」



「——それを聞いた時……

 五十嵐さんが、兄に対してそういう気持ちでいるって……初めはすごくびっくりしましたけど……

 私にとっては、なんだか嬉しいような……不思議と、そんな感じなんです」



 しっかりと五十嵐を見つめ返す真琴の誠実な瞳に、硬く緊張していた彼の表情がようやく柔らかく綻んだ。



「——そう思ってくれて、嬉しいよ。本当に。

 もしかしたら、君はそんなふうに言ってくれるんじゃないかと思ってた。


 ……真琴ちゃん、ありがとう」


 五十嵐は、一瞬声を詰まらせるように小さくそう呟くと、輝くような微笑みを零した。



「——ならば、話は早い。

 実はね、つい数日前に、彼と一緒に飲んだんだが……

 ……うぐぐぐ……」


 何か空気を切り替えるようにそう話し出した途端、これまで端麗かつ硬質な魅力に満ちていた彼が、なぜか俄かにぐずぐずと崩れ始めた。

 なにやら緩む口元を慌てて押さえるが、それでもニマニマを止められない様子だ。


「……あの、五十嵐さん?」

「あー、ごめん真琴ちゃんっ。

 ……ちょっと、その時のお兄さんが、あまりにも可愛くてね……

 思わず抱き上げて拉致しそうになったが、なんとか踏みとどまった」


「は……拉致??」

「いや。取り乱して申し訳ない。

 もしかしたら——お兄さんの気持ちも、今は僕の方を向いてくれつつあるようだと……その時、そう感じたんだ。

 決して起こりえない奇跡を見ているようで、俄かには信じ難かったんだが……やはり、それは確かな気がする。

 必死に感情を隠そうとする彼の言葉や態度からそんな様子がダダ漏れで、はっきり言って悶絶した……。

 あんなたどたどしいやり方でこんな風に心臓をえぐられるなんて……全くもって人生初だ」




「…………」



 そうなのか。

 たどたどしいやり方って……どういうやり方だったのかはよくわからないが……とにかく、兄もここに来て自分の本心をどうやら隠しきれなくなっているのかもしれない。


 それにしても——超クールで冷静な大人に見えるこの人も、こんな風に恋に舞い上がることがあるのだ。

 それも、これまでごくごく平凡だとしか思っていなかった我が兄がそうさせているとは……


 恋とは、なんとも不可思議なものだ。



「……そうですか。

 それ聞いて、私も何だかすごく幸せです……!」


 思わず漏れる微笑みを隠さず、真琴はそう答える。



「ありがとう。

 僕も、男としてここで抜かってはいけない気がしてね。

 ただ、僕自身にも今、少し悩ましい事態が起こっていたりして……ことはそうシンプルじゃないんだ。

 そこで真琴ちゃんに、非常に重要な仕事を一つお願いしたいのだが……

 ——僕の計画を、聞いてくれる?

 あ、こんな話、お兄さんには内緒だよ」


「はい。もちろんです。

 ——私にできることなら、何でもお手伝いさせてください」



 そんなことを話しながら、二人はどこかギラつく微笑みを交わし合った。









 その土曜日、午前11時。

 俺は、午後からの佐々木さんとのショッピングデートに出かけるため、遅い朝食をもそもそと食べていた。


 デートの準備などと表面的には思いつつ、脳内はあの夜の五十嵐さんとのやりとりに完全に持って行かれている状態なのだが。



 あの夜。

 俺は、自分の本心を彼に告げることが、とうとうできなかった。


 ——彼が、あそこまで本気で、俺に答えを求めてくれたのに。

 彼の言葉に、たった一度頷けたら、それでよかったのに。


 俺は、どうしてもそれができなかった。

 


 それどころか、あんな風にはっきりと、宣言してしまった。

「あなたの嫁になど、絶対にならない」——と。


 どこまでも煮え切らない俺の態度に、彼もいい加減愛想を尽かしたに違いない。

 恐らく、自分の想いを叶えるチャンスなど、もう二度とやって来ないだろう。




 ——全て、掴み損ねたんだ。結局俺は。

 いつも曖昧で、意気地なしで。

 つくづく俺らしい結末だ。



 そんなことを思いつつ、自嘲の笑みが漏れる。




 彼と飲んだのが、火曜。

 それから金曜までの間、気まずさにギクシャクとする俺に対し、会社での五十嵐さんの態度は相変わらずこれまでと一切変わらなかった。

 もうちょっと、何か感情をチラ見せしてくれてもいいのに……彼の心の内は、一切読み取れない。

 その辺の隙の無さはさすが王子だ。



 ただ——一度、どうしても自力では解決できない仕事上の質問を彼にした時だ。

 席を立ち、俺のパソコンの画面を覗きにきてくれた彼に、不意に背後からぐっと包み込まれるような気配を感じ……俺の身体は思わず硬直した。



 ち、近っっっ……なんか距離近くね!??

 腕も胸も、すぐ側に……ってか既にあちこち触れてるじゃんかコレ……

 そっそれとも、また例によって単なる俺の過剰反応か……!?


 一気に熱くなる顔で思わずぐるっと振り向いた俺に、彼はいつもと全く変わらない涼しげな無表情を向ける。


「ん、どうした?……ってか画面ちゃんと見ろ。俺を呼んだの君だろ」



「——……

 すみません」



 ……ん……?

 何かが違う……気がしたんだが……?

 気のせい……なのかな、やっぱり。


 そうだよな。だって、あんな風に彼をこっぴどく振ったみたいになっちゃったんだし。

 何かがあるわけないんだよな。





「あー、まずい。このままじゃ遅れる」


 気づけば止まっていた着替えの手を、俺は再び慌ただしく動かす。




 ——やっぱり、俺の前に伸びているのは、この道なのかもしれない。

 佐々木さんと歩く、ほのぼのと明るい、穏やかな道。


 

 ……やっぱり彼は、キラキラと輝く王子で。

 俺には結局、遥か遠い存在だった……のかもしれない。




「——そうだ。あのショッピングモールに新しくタピオカカフェができたって、彼女言ってたっけ……また賑やかにはしゃぐんだろうなあ」


 そんなことをふと思いながら、俺はクスっと笑った。



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