翳り

「じゃ、五十嵐くん、お願いね」

「了解です。今週金曜までに資料を再作成して係長にお渡しします」


 五十嵐さんからの思わぬ情熱的なハグに心身共にがっつり揺さぶられた、その翌週の月曜。

 俺が出社すると、小宮山係長のデスクの前で既に二人が仕事の打ち合わせを始めている。

 ああ、なんとも眩しい。才色兼備なビジネスマン達の月曜朝イチの引き締まった会話は、緩んだ脳に何か薬のように沁み込んでいく。


「では早速取り掛かりますので」

「ごめんねー五十嵐くん。も〜なんで営業部のデータミスをこっちで直さなきゃなんないのよー! いい加減な仕事しないでよね〜全く……」

 係長のぶつぶつ言う愚痴とため息が漏れ聞こえてくる。

 非難の対象の営業部には兵藤という愛しいダーリンがいるというのに、デキル女はやっぱり容赦ないんだなあ、なんてつい思う。


「おはようございます」

「あ、おはよう篠田くん。

 ……ねえねえ、ちょっと」


 小宮山さんに少し声を潜めて手招きされ、俺は微妙に訝しみつつ側へ寄る。


「どうかしましたか?」

「——五十嵐くんさ、先週金曜日とか、何かいつもと様子違った?」


 いきなり囁かれたその言葉に、俺は一瞬ギクリとした。


「……へ?

 どうしてですか?」


「んー、なんかね……今話した時の彼の様子が、いつもと全然違う気がして。

 私の話、聞いてるようで実はものすごく上の空、というか……。

 受け答えとかは相変わらず完璧だし、表情もいつも通りクールで落ち着いてるんだけど……

 なんか、意識が遥か遠くにぶっ飛んじゃってる感じがするのよ、どうしても!」


 女の勘が働くのか、彼女はどうにもモヤモヤするものを吐き出すようにそんなことを言う。



「……」


 俺は、先週金曜のことを思い返した。



 俺と彼との間に関しては……彼の様子が急に激変するようなことは、特になかったはずだ。

 とっとりあえず、俺が彼の熱烈ハグに一方的にビビった、というだけで。

 先週の彼は、仕事中もとりあえず全くいつも通りだったし……。



「……いいえ……

 俺の知る限り、五十嵐さんが何か深く思い悩んだりしてる様子はなかった……と思います」


「んー、そっか……。

 あんな感じの五十嵐くん見たことないから、ちょっと気になっちゃって。

 あ、引き止めちゃってごめんね。ありがとう」

 係長は、気持ちを切り替えたようにそう微笑む。


「いえ」

 俺は軽く礼をし、自分のデスクへと向かった。



 確かに……

 これまで、五十嵐さんが自分の内心の動揺を外に漏らす様子など、一度も見たことがない。

 プライベートとパブリックを当然のように分けることのできる人なのだと、そんな風に思っていた。


 彼女の言うことが本当ならば……この週末に、プライベートで何かあったとか……そういうことだろうか?

 小宮山さんも心配するほどに彼の心を煩わせることって、何だろう……?



「おはようございます」

 自分のデスクにつき、向かい側で既にパソコンに向き合っている五十嵐さんにいつも通りの挨拶をする。 

 会社であの夜のハグの回想などしていきなり赤面とか挙動不審になったりしないよう、土日でしっかりシミュレーションを行ってきたのだ。あれは父親とか親友としたレベルのハグなのだ!!と必死に言い聞かせ……。


 そして、今係長から聞いた件についても、俺が根掘り葉掘り興味を抱くべきではない。



「ん、おはよ」


 彼は、画面から視線を外すこともなく、いつも通りのさらりとした挨拶を返した。


「あ、そうだ。篠田くん」

「はい?」

「来週かその次か、都合のいい金曜あるか? 今週はちょっと無理なんだがな。

 近いうち君の好きなものでも食べに行こうと話してあった件だが、先週は結局作戦会議場で君の悩みを聞いただけだったろ?

 せっかくタダなんだから、肉でもがっつり食べたらどうだ。美味い店知ってるぞ」

「うひゃああ〜♡ はい行きます! 喜んでっっ!! じゃ肉がいいです!! 来週金曜大丈夫ですっ♪♪」


 喜びを全開にそう即答した自分自身にはっと気づき、微妙に赤面する。

 おい、お前はイヌか。


 そんな俺に、彼は口元に拳を当てて肩を揺らし、クックッと笑う。


「君は、ほんとにわかりやすいな。尻尾がブンブンしてる。

 こんなに簡単に釣れると、さすがにちょっと心配だ」

「……」

「ウソウソ、冗談だ。ごめん。

 じゃ、来週金曜な。ガッツリ腹減らしておけよ?」



 楽しげにそう呟きながら、俺に向ける彼の眼差しが——



 何だろう……

 どこか、寂しげな……?




 俺は、彼の中にそんな微かな翳りを見た気がした。









 その日の午後。

 自分の仕事が一段落つき、人気ひとけのない静かな休憩室で缶コーヒーを啜っていると、ガチャリとドアが開いた。


 振り返ると、ぐっと俯きながら佐々木さんが入ってきた。

 佐々木 菜穂なほさん。俺と同じ広報部の、一年先輩だ。



「——お疲れ様です、佐々木さん」


 俺の挨拶にはっと顔を上げた彼女の目は、微かに赤く充血していた。



「——あ……

 うん、お疲れ〜篠田くん!」

 彼女は、涙を誤魔化すように目尻を指で払いながら、敢えて明るく微笑む。



「……」


 そして、自販でゴトンと水を買うと、黙って俺のテーブルの向かいにがたりと座った。

 俯いた拍子に艶やかなボブがさらりと崩れ、その表情を覆い隠す。



「あの……

 ——何か、ありましたか?」


 重い沈黙に堪りかね、俺は恐る恐る、彼女に小さく問いかけた。



「——っていうかさ」

 それが刺激になったのか、彼女はプツンと何かが切れたように一気に俺に向かって言葉を投げつけ始めた。


「ほんっっと信じらんない!!! ふざけんじゃないよあの男ーーーっ!!!

 よりによって今週金曜、私の誕生日って時に!!

 お祝いに、人気のフレンチ予約しておくって。あいつが言い出したのよ!?

 だから、ずっと楽しみにしてたのに……

 さっき彼から電話きて、予約取れた話かと思ったら『別れたい』だって……

 別れたいだって!? はあ!? 今度の誕生日で私26よ!? 大学4年から4年も付き合ってやったのよ、あんな男に!!

 それも、こういう話を電話一本で済まそうってんだから……ピザの宅配じゃないんだからね!?

 マジで許せない……大事なこの4年間、返せっつうの!!!」


 マシンガンのように一気に罵声を乱射しつつ、彼女の目には涙と激しい怒りが入り混じる。

 この状況では、何を言ってもおそらく彼女の怒りは止まらない。



「……もう……

 つくづく男なんて……」



 彼女の心の全ての弾丸が出尽くした頃を見計らって、俺は彼女に小さく呟いた。


「……あの……

 なんか、大変でしたね……」



「——篠田くん」


 佐々木さんは、いきなり赤い眼を上げると、表情を改めて俺をぐっと見る。


「は、はい?」

「確か去年の秋頃、小宮山係長があなたに悩みや愚痴を聞いてもらってすごく楽になった……って、係長からちょっと聞いたことあるんだけど。

 ……それ、ほんと?」


「え?……ええ、まあ……」


 もうそれはとっくに済んだことだ。俺的には、今更思い出したくない話なのだが。


 彼女は、これまでの鬼のような表情を一気にしおしおと弱らせ、小さく呟く。


「篠田くん……

 できたら……そんな風に、私の愚痴や悩みも、聞いてもらえない……?

 その話を係長から聞いた時、羨ましいなあ……って、ほんとに思ったんだ。

 ふわふわした柔らかいニャンコを膝に置いて撫でるみたいに、篠田くんは優しいんだろうなあって」


 彼女の思わぬ細い声に、俺の胸が思わずぐらりと揺さぶられる。



「……」


「あ。あんまり警戒しないでよね? 毎回愚痴に付き合え、なんて言ってないんだから。

 今度の金曜、もし都合良かったらさ。一回飲みに付き合ってよ! ねーお願い!!」


 彼女は、俺の前でぐっと手を組み合わせ、ぎゅっとつぶった目を片方だけすかしてチラッと俺の表情を盗み見たりしている。



 ……え。

 なんか、こういう可愛いとこあるのか、この人?

 もともとすっきりと綺麗な顔立ちで、気さくな姉御肌という感じのタイプだとは思ってたけど……。



 ……どうしよう。

 佐々木さんの希望に沿うような癒し効果、果たして俺にあるんだろうか……?



「……俺、まともなアドバイスとか、ほんとできませんよ?

 ただ黙って聞いてるだけでもいいなら……」


「うあーーー!! ほんと!? うん、もう聞いてもらえるだけでいいの! やった、めちゃくちゃ嬉しい〜〜〜!!

 ありがと篠田くん! じゃ、今週金曜、その時は私の奢りね♪ ちょっと気に入ってる店があるから、そこ予約しとくー♡

 あーなんかもうあんな男どうでもいい感じになってきちゃった!」


 俺の答えに、彼女はまるで少女のようにぱっと無邪気な笑顔を見せた。



「……わかりました。

 じゃ、今週金曜……」



 小宮山さんの悩みを受け止めた時は——ただ彼女の苦しみを軽くしてやりたい、という一心だった。


 でも——そんな風に、俺を必要だと思ってくれる人が他にもいるなら……

 癒しキャラとして誰かの役に立つのも、いいのかもしれない。



 その時の俺は、ぼんやりとそんなことを思っていた。




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