境界

 五十嵐さんの部屋を出て、自宅へ帰ってからも、俺の指先はずっと小刻みに震えていた。

 心臓の鼓動も、苦しいように速いまま、治まらない。



 机にドサリとビジネスバッグを投げ出すと、スーツもろくに着替えずにコタツへもごもごと逃げ込む。

 混乱した感情を整理したくて、テーブルに額を押し付けてぐっと目を閉じた。





 ——ああいう風に、痛いほどに想いの伝わってくる抱擁は、生まれて初めてだった。



 彼の胸の熱さや、すぐ耳元にかかる温かな息。

 抱き締める腕の強さ。

 溢れるように満ちる彼の想いに共鳴するように、自分の内側にも熱が溜まり——じわじわと、浮かされていくような。

 初めて感じるそんな感覚を、抑えることができなかった。





 ファーストキスが欲しいなんて、同性からぶっちゃけ単刀直入にそう要求されて、すぐに頷ける心の準備などできる筈がない。



 それでも——



 もし、俺が拒まなければ……

 ハグから解かれたら、きっと俺は、思い切り優しいキスをもらって……



 そして——

 もし、拒まなければ……





 抱擁の腕を解かれ、少し不安げな眼差しで覗き込まれるまで、俺の思考はそんな不可解な宙を彷徨った。




「——嫌だったか?」



「——……

 いいえ」



 彼の囁きにはっと引き戻され、小さくそう答えつつ——

 自分が今どこを彷徨ってきたのかに、今更のように動揺した。




 嫌じゃなかった。

 ——自分自身が不安になる程に。




「……そうか。

 君の心臓の音が思い切り伝わってきて、可愛くて——離したくなかった」


「……ちょ……

 ほんとそういうの……」

「ははっ、ごめん」



 思わず零れ出たような彼の微笑みを、俺はどうにも直視できなかった。





「————はあ……」


 テーブルに額を擦りつけたまま、俺はガシガシと頭を抱える。




 心地よい彼の隣に、俺はまだ座っていられる。

 これからも、彼のふかふかな温もりにすっぽり包まれる幸せを、独占できる。



 それでも。



 それ以上は——だめだ。





 ——なぜ?


 そうやって、彼から甘い蜜を存分にもらっておいて。

 お前からは、彼に幸せを与えないのか?



 黙れ。

 そこは議論するような部分じゃない。

 だめだ。絶対に。


 彼も無理やり何かを要求はしないと、俺に約束してくれてるじゃないか。

 それでこの話は成立してるんだから——そこにはもう、立ち入るな。




「…………ちょっと黙ってくれ、俺……」


 あちこちからうるさく騒ぎ立てる自分の声に、思わず耳を塞ぐ。




 ……とりあえず……

 彼との心地良い今の関係は、壊したくない。


 それ以上の部分を意識しては——ここから先、俺はきっとうまく進めない。

 そして彼も、そうやって塞ぎ込んでいく俺を、また今回のように心配するだろう。



 だから……少なくとも、俺は。

 それ以上のことは、敢えて意識しない。

 お互いのために。

 踏み込むことなく、これまでのように受け流していく——それ以外、俺に選択肢はない。




「——わかったな、俺。

 すぱっと、そう決めてくれ」



 コタツに突っ伏していた顔をぐっと持ち上げると、俺は自分自身に真剣に呟いた。









 篠田の帰った部屋で、五十嵐は窓から夜空を見上げる。

 月が明るい。




 後輩を抱きしめたしなやかな感触が、自分の腕と胸に残る。

 言いようのない甘さを持って。



 思わず溢れる自分の想いに何とか応えようとする彼の誠実さが、たまらなく愛おしい。

 そんな彼に——あれもこれも欲しいと、求めることはできない。

 絶対に。




 こんな風に、少しずつ彼に近づくほど——手の中の幸せの脆さを、思い知らされる。

 彼がいつ、ここを離れたいと言い出しても、おかしくないのに。

 固く結び合うことなど決して叶わない、微かな関わり。

 それを、これほど深く愛おしまずにいられない自分は——救いようのない馬鹿だ。

 よく知っている。



 それでも——

 脳の言葉を心が聞かないのだから、仕方ない。

 こんな手に負えない想いは、全くもって初めてだ。




 きっと俺は——

 脆く崩れていくその瞬間まで、手の中にあるこの幸せを、愛おしまずにはいられない。




 月の冷たい光を見つめ続ける耳に、着信音が響く。


 机のスマホを取り、画面を確認した。

 父だ。



れんか。

 今、大丈夫か?

 ちょっと大事な要件でな』


「何?」


『——お前、仲林美優さんという子を、知ってるか』



「——仲林……

 ああ、総務部の……」


 ……この間のランチで、思い詰めたような告白を何とか断った、彼女だ。


『おお、知ってるのか。随分綺麗でいい子だそうじゃないか。

 その子がな、実は私の会社の一つ上の先輩のお嬢さんなんだそうだ。

 現社長の右腕とも言える仲林専務の一人娘が、お前と同じ会社にいると……そういう話を、つい昨日初めて聞いてな。驚いたよ』



「……

 それで、要件って……」



『——廉。

 お前、その子と会ってみないか』




「————」


『これは、仲林専務が直接私に持ちかけてきた話なんだ。

 数日前に、お嬢さんからお前のことを相談されたと……私経由で、正式にお前と会ってみたいと、彼女がそう希望しているそうだ』


「……父さん。

 ちょっと待って欲しいんだけど。

 彼女は——」

『美優さんは、随分以前からお前に惹かれていたらしいと、仲林さんから聞いている。

 彼女も、勇気を振り絞って、そんな話を父親に打ち明けたんだろう。

 お前の思いもあるだろうが……彼女の気持ちと、父である仲林さんの気持ちを——ここは一旦汲んでやってくれないか。


 それに——もしもこの件がうまく進むならば、お前にとってもこの上ない話だと思うが?』




「——……」


 半ば有無を言わさぬ父の口調に、続けようとした言葉を飲み込む以外ない。




「————……


 ——こっちの事情もあるから、時間が欲しい。

 ……彼女にも、仲林専務にも、いい加減な対応はしたくない」



『そうか。考えてみてくれ。

 焦ることはないぞ。仲林さんも、その辺はよくわかってくれている』



 電話の奥へ向け、できる限り無表情な声を装いつつ——五十嵐は、痛みを堪えるような表情で俯いた。




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