矢印の向き
その日の昼休み。
真冬の外ランチに出かけるため、俺と五十嵐さんはコートをしっかり着込んでビルの外へ出た。
1月の深い青色の空に、白い雲が静かに動く。
ビルに切り取られて広々と見渡すことはできないが、明るく落ちてくる日差しに心が思わず解放される。
俺が彼を連れてきたのは、オフィス街の奥にある、小さな遊歩道のベンチだ。
去年の初夏に、小宮山係長をランチに誘った場所である。
その時は、少し暑い日差しを遮る桜並木の若葉が心地よく——そのさざめきに、彼女は輝くような笑顔を零したのだった。
真冬の今は当然木々は葉を落とし、枝ばかりではあるが、よく見るとその枝の先には小さな蕾が暖かな春を待っている。
ぽっかりとした陽だまりの中にある木のベンチは、何とも穏やかに俺たちの冷えた身体を包み込んだ。
「へえ、こんな静かな場所があるのか。知らなかった」
「でしょ?
俺も外の空気を吸いたい時に、時々来るんです。花の咲く時期は人が多くて、むしろ避けちゃうんですけどね——はい、これどうぞ」
そう言いつつ俺はベンチに座り、彼の分の紙袋を差し出した。
それを受け取ると、彼もどこか居心地悪そうに俺の隣に座る。
「——女子力高い女の子が、大好きなカレシ限定でやるヤツじゃないか、これ?」
「そういう言い方しないでくださいっっ!!
毎度奢ってもらって、お礼もせずに平気な顔してるほど図太い男じゃないんです俺は!
だっだって、チューやハグや、そういう可愛いお礼とかは、俺には無理だし……できるのは、せいぜいこれくらいです」
ムキになってそう言い返す俺を、彼はいつものごとく拳を口元に当て、クスクスと楽しそうに眺めている。
「……そうやってバカにして、すぐ笑う」
「バカにしてるんじゃない。
なんで俺が君を見てこうなっちゃうか……教えようか?」
「……
いえ、結構です」
きっと、なんかすっっげえ小っ恥ずかしいこと言うぞ。
咄嗟にそんな勘が働き、俺はむすっと辞退した。
「——とにかく、すごく嬉しいよ。
ありがとう」
それまでの軽い空気がふっと途切れ——彼は真面目な顔つきになって、俺を真っ直ぐに見つめる。
「……」
——うぐっ。
キラキラ王子からこういうドスッと威力のあるストレートを投げられた場合って、どうしたらいいんだ……
可愛い女子だったら、ここで何気にキス待ち顔しちゃうとか、楽しい手がいろいろあるんだろうなあ〜〜……くそっ!! レパートリー全然ねええっ。
「——とりあえず、中身食べてから言った方がいいんじゃないですか……激マズだったらどうすんですか」
「ははっ、それもそうだな」
結局可愛くもなんともない憎まれ口みたいになったその返事を、彼はいかにも楽しそうに受け止めた。
*
「……うま……
まじですごい……どれも美味すぎ……」
ランチボックスの中身をすごい勢いでがっつくイケメンを、俺は隣でじーっと眺めた。
今日のおかずは、卵焼き、きんぴらごぼう、豚ロースの生姜焼き、ショートパスタとツナのマヨサラダ、プチトマト……というようなメニューだ。それと、まだ熱く香ばしい香りのブラックコーヒー。
「——やっぱり俺の胃袋を掴みにきてるだろ篠田くん?」
「だから違いますって!!!」
「とにかく美味い。驚いた」
さらりとおかしなセリフを混ぜつつも、彼は感動を隠さず一心に味わってくれている。
自分の作ったものをこんなに激しく喜んでもらったのは、多分これが初めてだ。
「……あんまり一気食いすると、喉に詰まりますよ。これどうぞ」
「……うあー、これもうま……ボトルに入れてもこんなに美味いのかコーヒーって」
「朝、豆から挽いて淹れるので……割と香りも保てるんです」
「…………
これはますます嫁に欲しいな」
「……」
——何はともあれ。
こういう幸せそうな顔で食べてもらえるって、すごく幸せだ。
気づけば俺は、心の内でそんな喜びを味わっていた。
ん……?
なんだろう、この感じ……
さっきまで、ここで話そうと思っていたその話題を切り出すのが、なぜだかやたらに気が重い。
この空気を、きっと重たくしてしまう。
そして——彼の返事を聞くのが、何だか……
いや。
何をためらってる?
ここ以外に、話すチャンスはない。
だって、それはもう、明日なのだから。
「——五十嵐さん。
済みません……さっき、少し聞こえちゃったんですが……
明日の昼、仲林さんと会うんですよね?」
「……」
概ねランチを食べ終えた彼の箸が、ふと止まった。
「彼女のあの思い詰めた様子を見ると、明日の話の内容がもろにわかっちゃう感じで、ちょっとあれなんですが……」
「……
断るさ、もちろん」
「——……」
「他に好きな人がいるのに。
好きでもない相手の告白になんと答えるかなんて、悩むまでもないだろ」
——そういうとこだ。
そうやって、何と受け止めていいかわからない言葉をさらりと言ってのけるところが。
……そう言われて嬉しくない人間など、いるわけがないのだから。
そんな思いを振り切り、俺は言おうと決めていた言葉を続ける。
「——でも……
想いが自分の方を向いていない相手と、こうしていることは……
あなたにとって……
それに——
仲林さんのように、あなたに真剣な想いを向けている女の子が、きっと大勢いるはずなのに……
こんな風に、俺があなたを中途半端に引き留め続けるのは……」
「——たとえ、君の気持ちが俺に向いていないとしても。
こうして、君が俺の側に近付こうとしてくれるそのことだけで、舞い上がるほどに幸せな俺は……何か、間違ってるか?」
彼の空気が、すいと冷静な鋭さを持ったものに変わる。
「……で?
こういう風に、君が俺を中途半端に引き留め続けるのは——
その続きは、何だ?
その答えを君がもう既に出しているなら、今ここで言えばいい。
君が決めたことならば……俺は、君に従う」
「…………」
その続きは、もう決まっている……つもりだった。
この状態は、あなたにとって、利益を生まないのではないか——
俺があなたを中途半端に引き留めて、そういう状態を引き延ばしては、いけない気がする。
——あなたのためにも、あなたを深く想う女の子たちのためにも。
俺は、そう言いたかった。
けれど——
もしそれを言ったら、彼は黙って俺の言葉に頷くのだろう。
「君がそう言うのなら」と。
彼がそれをさらりと受け入れることが——怖かった。
怖い——
なぜ?
うるさい。知るか。黙れ俺。
「…………
俺にも……よくわかりません」
結局俺は、出しかけたその結論を胸に押し戻し、小さく俯く。
なぜ俺は、間違っていないはずのその結論を、口にできないのか。
俺は、一体何が怖いのか——?
いくら無視しようとしても、もうひとりの意地の悪い俺は、その問いをしつこく脳内に繰り返した。
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