第14話 聖女の加護

 湖とは違い、霧海に飛び込んでも水が跳ねるわけでもない。そして受け止めるやわらかな水はない。

 エシアは足が骨折する事を覚悟した。

 それでも、レジオールに捕まったままでは、自白剤を飲まされ続けたあげく、いたぶり殺されかねない。それなら海岸を転がって、自分で星の核まで落ちてやると思ったのだ。


 が、霧に触れて冷たさを感じた瞬間、巻き起こった風に体を掬い上げられた。

 息を飲む間に船よりも高く体が持ち上がり、受け止められる。


「……リグ」


 エシアを抱き留めたのはリグリアスだった。

 彼は返事もせず宙を滑るように移動して、出航しかけていた隣の船にエシアを下ろした。

 先ほどエシアが乗り移りたいと願った、あの船だ。そちらの船員達は驚きもせずにいる。


 それらを見回したエシアは、その場に座り込んだ。

 気が抜けてしまうと、もう足が震えて立ち上がれなかった。助かったとわかったとたん、押さえつけていた恐怖がこみ上げてくる。


「船主には事情を説明している。あちらを片付けてくるからそこにいろ」


 自分自身を抱きしめるエシアに、リグリアスはそれだけを告げ、剣を大きく振り下ろす。

 いつの間にか海面から高く伸び上がった霧に、剣が叩きつけられた瞬間、ガラスが砕けるような音が響いた。


 それが星振同士がぶつかったせいだと気づいたのは、リグリアスの剣から、唸るような音が聞こえたからだ。

 霧を操っているのは、聖域府の船にいる人間だ。エシアが逃げたことに気づいて、その場にいた警護官達が攻撃してきたのだ。

 複数の警護官が、それぞれに響きの違う星振を奏でているのが聞こえる。

 それを一人で打ち払おうとしているリグリアスは、さすがに辛そうだった。


「……そうだ」


 星振の音程を正確に聞き取れるなら、勘さえつかめば干渉もできると、エラシル博士から聞いた。

 なんとかエシアもリグリアスの援護をしたい。

 そう思ったが、荷物は取り上げられてしまい星叉環は手元にない。干渉を行う場合、自分の星振を響かせなければならないのだ。

 これではどうにも出来ない。


 エシアは落ち込みながら、押されつつあるリグリアスの姿と、霧に覆い被さられそうになっている船の姿を見上げた。

 こちらの船の船員には、星振を操れる者はいないのだろう。エシアと同様に呆然とする姿が、甲板や後部の操舵の近くなどに見られる。

 歯がみしたエシアだったが、ふと自分の中から聞こえる響きに気がついた。

 ささやかな、砂を擦り合わせるような掠れた音。


「まさか、星の核?」


 自分の体を蝕んでいる物の音だろうか。でもそれしか心当たりがない。

 これをどうにか使えないだろうか。

 思いついた次の瞬間、エシアは重要なことを思い出す。この星振を大きくしたなら、自分の体が本当に壊れてしまうかもしれない。その時だった


「……くそっ」


 リグリアスの悔しげな声にエシアは彼を見上げ、その視線の先を追う。

 壁をつくるように舞い上がる霧の向こうに、レジオールの姿が垣間見えた。


 ――――レジオールまで加わっては、リグリアス一人では無理だ。


 エシアは決断した。

 この掠れた音をまず聞き取る。

 それが高い音へ変わるよう、目の前に見える霧のように音が浮き上がるのを意識し、腹にぐっと力を込めた。

 掠れた音は一段高い音へと変化を遂げた。

 音が操れそうだということにほっとし、エシアは次の目標を定める。

 相手の音に馴染みやすい音をつくるため、もう一段階音を上げる。

 そしてつくりだした音を、霧の壁をつくる音へと混ぜ込んだ。


 エシアは右手で霧の壁を指さす。

 その動きにつられるように、音が広がっていく。

 より高い音で作られた霧の壁に、わずかに低く奏でられる音が混ざりあっていく。重奏曲のように深みが出る音。

 けれどそれはかすかな変化だ。

 今にもかき消されそうな音が響いているうちにと、エシアは自分の音を跳ね上げる。

 調和していた重奏が乱れ、船の上部を覆いかけていた霧の壁がわずかに低くなる。

 余波に少しゆらぎ、平静さを取り戻していく霧の壁を見ながら、エシアは歯がみする。


「やっぱり、わたしなんかの小っぽけな力じゃ……」


 川の流れに蝋燭の火を近づけたほどの非力さしかないのか。そう思った時だった。


「今のは……エシアか?」


 リグリアスが彼女の音に気づいた。


「ごめん、邪魔にしかならなかった」


 リグリアスはさらに高音域の音で霧の壁を阻んでいるので、影響はないかとおもったが、実際は邪魔だったかも知れない。そう思ってエシアは謝ったが、


「いや、もう一度だ。音を操るつもりで祈ってくれ、エシア」


 リグリアスが首から提げていたペンダントを取り出した。

 青い環の形をした金属。星叉環だ。

 リグリアスはそれを、左手の中指に填めていた指輪で弾く。

 歌声のような、穏やかな波が響いた。

 それはリグリアスの手から星叉環が離れても、止むことなく、波紋のように一定のリズムを刻む。

 リグリアスが操り、世界へ呼びかける歌だ。エシアが創り出した音よりも強く、広がっていく。


「祈ってくれればいい。この波が奴らを覆い尽くすように」


 彼の言葉に戸惑いながらも、エシアはうなずく。

 リグリアスはは聖女の騎士として、まだ何か奥の手を持っているのかもしれない。エシアの小さな力でも、その助けになるのかもしれない。だから素直に願った。リグリアスのこの波が相手に届くように。星振の波に自分の心を沿わせて、もっと遠くへ広がるように。


 ふと、心に浮遊感を覚える。

 次いで連なる鈴を鳴らしていくような幻聴が、脳裏に響いた。

 どこかへ引っぱられていきそうな感覚に襲われ――――堪えきれなくなる。

 意識が遠くなった。

 その時エシアは自分が何かを言った気がした。

 リグリアスが何かを応え――――


 気がつけば、エシアの目に星振を結い上げ、青い輝きを煙のようにまとわりつかせた剣を振り上げる、リグリアスの姿が見えた。

 エシアの驚く気持ちに同調するように、青い光が強さを増す。爆発するように鳴り響く、千の鈴を鳴らすような星振の音にエシアは圧倒された。

 そして近づいていた敵へ向かって、リグリアスが斜めに振り下ろした。

 青い煙は、疾走する波頭のように霧の壁を切り裂いて、なおも進む。


「聖女の加護……失ったはず!」


 敵側からそんな叫びが聞こえた気がした。

 けれどそれは一瞬で。

 絶叫と、星振のうねりの中に消え、敵側の船に青い波頭が叩きつけられた。

 船の側面が飛び散り、もろもろとほどけて消えていく。直前の海にぶつかった波頭は霧を舞い上げ、そして船を覆っていった。

 船は霧をつくる星振に反発するからこそ、押しつけられるように沈んでいく。大勢の人を乗せたまま。


 見ていられず、エシアは思わず顔を覆った。

 そんな彼女の耳に、リグリアスのつぶやきが聞こえる。


「恨みます……聖女よ」


 確かにそう言った。

 はっと振り仰げば、リグリアスは海中にのみこまれていく聖域府の船を苦しげな表情で見つめていた。


(恨む?)


 どうして彼がそんな事を言うのだろう、とエシアは首をかしげた。

 彼が守るべき対象だったはずの聖女。それなのに彼女を恨むとはどういうことなのか。

 自分が失った記憶の中に、その答えはあるのだろうか。

 それを全て思い出したとき、自分は聖女を恨む彼の気持ちを、理解できるのだろうかと。そんな事をエシアは考えていた。



   ***


「なんという……」


 霧海に飲まれた船から飛翔して脱出したレジオールは、足下の光景を見つめ、呆然としていた。

 レジオールが加われば、リグリアスは犯罪者もろとも霧海に沈められるはずだった。

 リグリアスが星振の巧者であっても、数の力には勝てないのだ。

 そして沈めてしまえば、船は一度沈めば浮き上がりにくい。霧海の星振と船の資材が反発するからだ。

 そこを脱出してきたのなら、目立つので捕まえやすくなる。そこを捕獲すればいいと考えていたのだ。


 もし海底を這い進んで岸を目指そうとしても、視界がきかない白い霧だけの場所で、確実に岸へたどりつけるかどうかは運頼みだ。万が一岸にたどりつけたとしても、時間がかかるだろうから、レジオール達が岸に警備網をしく時間は十分にある。

 運悪く島から落ちて死ぬのなら、それでも問題はなかった。


 しかし、リグリアスのものではない、強い星振が働いたのだ。

 千の鈴を鳴らしたような音は、まだレジオールの耳に残っている。


「あれは……」


 聞き覚えのある響きに、レジオールは上手く言葉が紡げなかった。


 ――――あれは、聖女の星振。


 誰よりも強い星振を作り出せるからこそ、聖女は島を修復するなどの、大きな力を振えるのだ。十数人からなる星振を押し返せる力の持ち主など、レジオールは聖女以外に見たことがなかった。

 思い当たる節は他にもあった。


「星の核を飲み込んでも、すぐには死ななかったな」


 聖女ならば、それも当然だ。

 元から持っている星振が強いために、聖女は星の核を飲み込んでも死ぬ事はない。むしろその星振を己の中に取り込むことすらできるのだ。


「もしかして、あの女は次の聖女なのか?」


 それが答えならば、レジオールも聖女の誘拐について納得できるのだ。

 力を失うことを畏れていた前代聖女シュナがエシアの力に気づき、嫉妬して殺そうとしたのだと。聖域の森でシュナに殺されかけたエシアが抵抗し、シュナを逆に殺してしまったのだとしたら、血まみれだったことにも説明がつく。

 あの時シュナはもう力が弱り果て、星振も乱れていたのだ。まだ力を発揮しきれていなかったとしても、エシアでも聖女を殺すことはできただろう。


「レジオール様!」


 彼のように飛翼石を使って霧の海から上がってきた警護官が、側に駆けつけてくる。海の中に一度落ちたのか、霧に濡れた灰色の制服が黒く変色していた。


「犯罪者を追いますか?」


 次の指示をと言う彼に、レジオールは数秒考えた後、首を横に振る。


「いえ、行き先はだいたい想像がつきます」


 星の核を飲み込んで死んではいないが、エシアの体は星振に侵されていた。それを止める技を持っているのは聖域の星振官。それも高位の人間だけだ。

 彼女を守り続けているリグリアスなら、必ずやエシアを救うために聖域へ向かうだろう。


 ――――情報通りに。


 だからレジオールは警護官に命じた。


「それよりも、例の情報提供者を呼んでください。確認したいことがあります」


 彼の考えが正しいのか、裏付ける情報を得るために。

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