共鳴
第13話 船
霧海に面する岸は、とても危険な場所の一つだ。
足下を覆う白い霧に覆われ、どこまでが島で、どこからが霧海なのかが判別できない。
潜っても霧雨の中にいるように濡れてやや息がしにくいぐらいで、進むのには支障がない。せいぜい羽魚に頬を叩かれるぐらいだ。
だから昔は海の中に潜ったあげく、島から落ちる者もいたらしい。
そのため島の端がわかるように、星振の力で目印となる浮きを置いている。白い霧がさやさやと打ち寄せる海岸からも、赤い浮きがよく見えるという。
けれど海岸の街へ来たというのに、エシアにはそれすら眺める余裕がなかった。
「本当に、あなたとリグリアスには手こずらされました」
手を後ろで縛られたエシアは、馬車の座席に転がされていた。手の戒めも甘いのは、再び発熱し、とても逃亡できるような状態ではないからだ。
朦朧としがちな意識を抱えるエシアを相手に、席に悠々と座ったレジオールは、それまでの彼の苦労について語っていた。
「血みどろのあなたを発見したものの、警護官達が少数だったため、リグリアスによって昏倒させられたようですね。あげくにその時はまだシュナ様が生きていらっしゃったのか、リグリアスが星振鳥を使えたのも痛かったです。聖域から近くの島まで脱出されてしまいましたし、私もシュナ様を捜し歩いている場所とは反対にいたため、報告を受けて追いかけるまでに、時間がかかってしまった」
レジオールは本当に参りましたよ、とため息をつく。
「その時には、シュナ様も息をひきとっていらっしゃったのでしょう。私は鳥を使うことができなくなっており、船で各島を探索するしかなかったのです。既にリグリアスは別な島をいくつか経由し、後を追うのが容易ではなくなっていたのですから」
エシアは覚えがないものの、どうやって自分が聖域から逃れたのかがようやくわかった。
そうまでして脱出させてくれたリグリアスへの、感謝の気持ちもひとしおだ。
もちろんレジオールの苦労については、何も思うことなどない。故郷の崩壊を目の当たりにし、自分も死にそうになったエシアにとって、島を壊すと脅す人間など最低だと思っているからだ。
「一つ一つの島を、探していくのは本当に骨でしたよ。あとはあなたに、シュナ様の居場所を吐いて頂くだけです」
「だから私、知らない……」
「思い出せないなら、思い出せるようにするだけです」
やがて馬車が停止した。
扉が開けられ、エシアは顔を覗かせた大柄な警護官の肩に担がれる。
そのせいで前が見えなかったが、濃い霧のしめった香りに海岸にいるのだとわかる。そして満潮時なのか石畳の地面をうっすらと霧が覆い、警護官の足がそれを蹴散らしながら進む。
やがて警護官の足音が変わった。
橋のような場所を歩いているのか、響きが軽くなった。エシアの目にも板敷きの通路が見え、やがてそれが灰青の床に変化する。
――――船だ。
船は霧海を航行できるようにするため、海潜樹に一定の星振を加えて変質させた素材で出来ている。それが霧海を構成する星振と反発し、船を浮かせるのだ。
星振で変質した海潜樹は、一様に灰青の色に染まる。そのため港は白い霧の海の上に、青い船が停泊する光景が一般的だ。
なけなしの力を込めて首をめぐらせれば、船の欄干となる柵は、明らかに装飾目的の曲線を描くように加工され、小さな橋が連なっているようだ。
おそらくはレジオール達がこの島へ来るために出した、聖域府所有の船だ。
甲板上には、何人も警護官とは違う服をきている人々がいる。黒っぽい服を着た彼らは、船員なのだろう。
(人多すぎ……)
それでも、どこかに逃げ出す隙はないかとエシアは視線を走らせた。
彼女の目がふと、隣の船を見つける。
灰青の葉型の船の脇には、透明な蜻蛉の羽のような物が広がっている。あの羽で風を受け、時に星振で風を起こして船を思う方向へ航行させるのだ。
あれはどこへいく船だろう、と思う。
どこでもいい、とにかくこの船から下りたかった。けれど羽を広げているところから、間もなく出航してしまうのだろう。自分もそんな風に自由にどこかへ行きたい。船に羨望の眼差しを向けていたエシアの視界が途切れる。
どこかの船室の一つに入ったらしい。
陽が遮られた暗い部屋の中、エシアの体がようやく降ろされる。
がらんとした印象の船室の床に力なくだらりと転がったエシアを、側に立ったレジオールが見下ろしてくる。
「哀れなものですね」
そう言いながらも、レジオールの声には一片の憐憫すら感じ取れなかった。
「でも死ぬ前に、あなたの記憶に用があります」
エシアを運んできたのとは別の、警護官が部屋に入ってくる。その警護官からレジオールは小さな瓶を受け取った。
蓋を開けながらエシアの傍らに膝をつく。
嫌な予感がして、エシアはレジオールから離れようとした。が、熱に浮かされた体では思うようには動けず、顎を掴まれてしまう。
「あなたが話したくなる薬です。本当に思い出せないのだとしても大丈夫ですよ。人間の記憶力というのは強固なものですからね、無意識状態になっていただければ、あとはこの薬が勝手にあなたの口を動かしてくれます。便利でしょう?」
エシアはきつく口を閉じようとした。
レジオールが持っているのは自白剤だ。話には聞いたことがあった。星振の力を加え、相手を意のままにする薬。強い星振の力があれば抵抗できるらしいが、元々素質が低くて死にかけのエシアでは抵抗できない。
なによりこの状態でそんなものを飲んだら、死んでしまうのではないか。
恐怖に駆られたが、獣の口を扱うように親指で口を開けられ、上向きにされて薬を流し込まれた。
「――――うえっ」
舌に苦酸っぱい味が広がる。
飲み込まないように抵抗したが、今度は吐き出さないように口を押さえられた。呼吸ができずに苦しくなり、喘ぐように喉に溜まった薬を飲み込んでしまう。
一部が気管に入ったのか、エシアは咳き込んだ。
ようやく息がつけるようになった時、エシアはふと気付く。
(さっきより、息がしやすい?)
星の核を飲み込んで以来、熱のせいで胃が重苦しいのだと思っていた。それが少しだが無くなっている。
喜びそうになったエシアだったが、それを抑え、苦しげな表情を作った。
具合が良くなった事を知らせてはいけない。今、腕だけを緩く戒められている以外何も拘束されていないのは、エシアに逃げる余裕がないと思われているからだ。動けるようになったとわかれば、歩けないように足まで縛られてしまう。
そんなエシアの演技に、レジオールはひっかかってくれたようだ。
「さ、話してもらいましょう。聖女はどこに? いや、どうやって殺したのですか?」
「しら……しらない……おぼえてない……」
先ほどまでの自分の状況を思い出せば、辛そうにしゃべることは簡単だった。
一方、レジオールは眉をよせる。
「まさか効いていないんですかね? あの日、どうしてあなたは聖女と二人だけで聖域の森の中にいたのですか?」
「しらない……」
何を聞かれても知らないと言い続けるエシアに、レジオールもさすがに薬が効いていないことはわかったようだ。
「飲み込んだ星の核の星振と、薬の効果が打ち消し合ったか、量が足りなかったのか」
そしてレジオールがため息をついた。
「仕方ありませんねぇ。またあとで試してみましょう。それまで死なないようにしておいて下さい。さしあたって水を与えて、毛布ごと縛り上げて転がして置けばいいでしょうかね」
そのままエシアを放置することにしたようだ。内心で喝采を上げながら、エシアは逃げる隙をうかがう。
レジオールはエシアから離れながら、先ほど薬をもってきたもう一人の方へ顔を向ける。
「で、リグリアスの方は見つかりましたか?」
「まだそのような報告は上がっておりません」
「腐っても聖女の騎士か……。シュナ様のお目が高かった事が、このような形で証明されるとは。ホーン執政官の動きについて何か連絡は?」
リグリアスが無事らしいことに、エシアはほっとする。
「聖女選考を進めようとしたようですが、聖女の代理人である騎士もいない会議では採決できないという理由で、予定通りに否決されたようです」
「やはり私の不在時に動きましたか。本当に面倒な方ですね。聖女は神聖であるべきなのですから政治的理由で選考を押し切られては困るのですがね。シュナ様のご遺体も見つかっていないというのに……」
レジオールと警護官二人は、話し込みながら部屋を出て行った。エシアの存在など忘れたかのように。
一人きりになったところで、エシアは起き上がった。
座った体勢で、手を縄から引き抜こうと四苦八苦する。
予想どおり、縄は締め付けるほどきつくなかった。ややあって、手を引き抜くことに成功する。
立ち上がると、さすがに足下がふらついた。
けれど壁を支え立ち、何か武器になりそうな物を探す。しかし寝台もない部屋だ。荷物らしい箱すらないが、きっと物置部屋として普段は使っている場所を、エシアを放り込むために空けたのかもしれない。
エシアは武器をあきらめ、扉の側で人が来るのを待つ。
先ほどより調子が良くなったとはいえ、普段よりも弱っているのは確かだ。だから一瞬が勝負になる。
レジオールにエシアの世話を言いつけられた警護官が、やってくる時がチャンスだ。
扉が開いた。
エシアは相手の様子など確かめもせずに突撃した。
喧嘩などしたことのないエシアに、蹴ったりする余裕などない。それがわかっているので、体の前で両手を握りしめ、相手の横腹を強打した。
不意打ちで無防備だった警護官は、うめき声をあげてうずくまる。その手から毛布を取り落としながら。
エシアは警護官の横を通り抜けると、部屋から飛び出した。
目の前に広がるのは、霧海と港だ。
突然現れたエシアの姿に、近くにいた船員達が目を見開いた。
「お、おいっ!」
制止の声など無視して、エシアは迷わず霧海へ飛び込んだ。
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