第3話 聖域府の役人
リグリアスの後ろ姿が霧の向うへ消えていくのを見送ったエシアは、家の中へ奇妙な置物を放り込むと、自分も職場へ向かった。
といっても、エシアの職場は同じ村の中にある。
濃霧の中、土が踏み固められただけの道を百歩ほど進むと、円形の建物が一般的な村の中では珍しい、四角い家の輪郭が霧の中に見えてきた。
そこにはエラシルという名の博士が住んでいる。
エシアは博士の手伝いをしているのだ。博士は研究のためだけに、リーレント島の中で最も霊峰スフィラに近いこの村に住んでいる。しかし高齢のため、エシアのような人間を雇い、博士の求める計測結果を記録させているのだ。
歩いている間に、濃い霧はすこしずつ薄れていた。
今日も計測はしなくてはならないだろう。
そう思ってエラシル博士の家へやってきたエシアは、不思議な光景を目にした。
村の人々にとって、博士は変な研究をしている一人暮らしの老人でしかない。だから普段は誰も朝から訪れたりはしないのだが、村人達、特に若い娘が集まっている。
「何……?」
思わずつぶやいたエシアは、背後から返ってきた答えに振り向く。
「
エシアの近くに立っていたのは、枯葉色の髪と瞳の色をした、少し軽薄な印象を与える青年だ。エシアより年上の彼は、同じく博士から計測の仕事を請け負っているアクストである。
「なんか博士の研究について、視察しに来てるんだってさ。一応博士は聖域府から補助金もらってるからな」
「ふうん?」
金銭を出しているから、きちんと研究を行っているのか見に来たのだろう。でもそれがどうして、ここまで村人の興味を引いたのだろう。
尋ねるより先に、アクストが教えてくれる。
「なんでもその役人が、えらい良い男らしい」
「ああそれで女の子達が……」
若い女の子以外も、女性が多く集まっているのはそういう理由だったようだ。娯楽の少ない小さな村なのだ。外から来た人間が目の保養に値するとなれば、のぞきに来てもおかしくない。
一ヶ月前に引っ越してきた頃は、リグリアスもそうして注目されていたのだ。
リグリアスの方はしょっちゅう居なくなって見かける事が希なので、今では珍獣みたいに思われているようだが。
納得してうなずいたエシアの様子に、アクストが小さく笑う。
「お前さんは興味ないのか? 一応、女だろ」
「興味ないって言ったら嘘だけど。話題の一つとして抑えておきたい、ぐらいかな」
周囲の話に乗り遅れない程度に分かれば、それでいいのだ。
と、エシアの肩に手を触れ、アクストが顔をのぞき込むようにして言う。
「違うなら、こっちを振り向いてくれる気になった?」
「アクストってば、またあたしをからかって……」
冗談きつい、と誤魔化すようにぱたぱたと振った手を、アクストにやんわりと握られた。
強くも弱くもない力加減が、逆に現実味をもって訴えてくるようで、エシアは思わず息を飲んだ。
「からかうつもりじゃ、こんな事は言わないって」
動揺するエシアの心を押さえつけるように、アクストが肩に触れた手に少し力を込める。
「う、うそ……」
「エシアがそうやって逃げるから、追いかけたくなるんだよな」
それでもアクストの表情からは、笑みが絶えない。だからエシアも本気にしていいのか戸惑いながら、言い返す。
「アクストが言うとなんか胡散臭いのよ」
「そうじゃないだろ?」
アクストがニヤつきながら、爆弾を落とす。
「お前さんの興味の対象は、リグリアスだけだもんな」
「な……っ!」
思わず頬が熱くなる。
そんなエシアの様子に、アクストはくすくすと笑う。
「分かりやすいなぁ、エシアは」
「えっ、なっ、違っ!」
違うそんなんじゃない。そう主張したかったが、慌てすぎて上手く言葉にならない。
どうやらアクストにはエシアの気持ちなどバレバレだったようだ。ということはリグリアスにも気付かれているのではないだろうか。
まさか気付いていながら、知らない振りをしているのか? と考え、エシアは血の気が引く。
最悪ではないか。
気付いていながら無視しているとなれば、それはようするに、リグリアスにそんな気は毛頭ないからではないのか。
恋愛成就なんて諦め半分でいながらも、心のどこかで『万が一』を望んでいたエシアは、がっくりとうなだれそうになる。
そんな彼女を置いて、アクストは鼻歌を笑いながら手を振ってその場を立ち去った。
「なんてこと……」
呻くエシアの耳に、扉がきしみながら開く音が聞こえた。
「おやエシア、来ているのなら早くお入り」
顔を上げれば、家の中から博士が顔を出してエシアを呼んでいた。
長めの髪も山羊のような髭も真っ白の博士は、大きな眼鏡を霧で曇らせてはいるものの、穏やかに微笑んでいるのがわかる。珍しくかっちりとした濃色のガウンを羽織っているのは、客人が来ているからだろう。
そうだ仕事、とエシアは背筋を伸ばす。エシアは急いで博士の家に入った。
博士の家は、それほど大きくはない。
入り口から伸びる廊下の両脇に四つ、部屋の扉がついている。階段も二階部もない造りなのは、足の悪い博士には使えないからだ。
博士がゆったりとした動作で、すぐ手前の扉を開く。
「お待たせしましたね」
エラシル博士が中にいた三人にそう言った。そこにいたのは、制服らしい濃紺の長いコートを着た三人の青年達だ。
「いいえ。お願いをしているのはこちらですから」
にこやかに返答した相手を見て、エシアは本当に驚いた。
(女の子達が一目見ようと集まるのもわかるわ……)
結い上げた金色の髪がうなじにかかって女性のようだ。長い睫に時折かくれる濃い金の瞳といい、整った面立ちをしたレジオールは、自分より色気がある。
その事実を考えると、エシアはちょっとした敗北感におそわれる。
エシアの鳶色の髪は艶が足りないし、なんとか見られそうなのは、紫がかった青い瞳ぐらいなものだ。容姿は特別に美しいと褒められるほどでもない。
先日その事を嘆いたら、リグリアスに『人間の顔をしてるんだから問題ないだろう』と言われたのを思い出す。当然、彼には蹴りを入れておいたのだった。
美麗な青年レジオールが、エシアに挨拶してくれた。
「初めまして、聖域府から派遣されてきましたレジオールといいます」
「あ、エシアです。博士のお手伝いをさせてもらっています」
慌てて一礼したエシアは、顔を上げた時に首をかしげた。
にこやかだったレジオールが、こちらを探るような眼差しをしているように見えたのだ。けれど目の錯覚だったのだろうか。レジオールは光を振りまくような笑みに戻っている。
そして彼の自己紹介は続き、他の二人がレジオールの部下であること、博士の研究が注目されており、視察に来たことなどを説明された。
「それで、今日は君に頼みがあるんだよエシア」
話が途切れたところで、エラシル博士が切り出した。
「レジオールさん達は、スフィラを見たいと希望しているんだ。仕事のついでに案内を頼まれてくれないかい?」
博士に頼まれ、エシアはうなずいた。
「わかりました」
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