聖女の騎士

第2話 はじまりの日

 霧が風に押し流されてくる。

 重く湿った空気に取り巻かれ、息がしにくいと感じるほどだ。


 わずかに塩の香りがするその霧は、霧海むかい――人々が生きる大地を空に浮かべる、霧の海から漂ってきたものだ。


 辺りを見回せば、すぐ隣の家の屋根がわずかに判別できる程度で、白っぽい煙突は霧に溶け込んでいる。その先に見えるはずの空は、薄められてはいるものの微かに青い。

 今誰かが通りすがったら、きっと自分の鳶色の髪も、青紫の瞳も白く煙って淡い色に見えることだろうとエシアは思った。


「すっごい霧」


 いつもは隣家の屋根の向こうに、赤茶けた岩肌を晒す霊峰スフィラが見えるのだが、影すら垣間見えることはない。

 このリーレント島ではよくあることなのだろうか?


 エシアは一月前に意識をとりもどすまで、数ヶ月昏睡状態にあった。

 だから自分の住んでいる島のことを把握しているわけではない。まだ知らないことばかりだから、リーレント島では濃い霧も普通に発生するものなのかもしれない。


 じっと見ていると、霧は風に押され、外で立ち尽くすエシアの目の前を徐々にではあるが移動していた。まるで森の中を彷徨う、霊鬼の行列のごとく。


 そこにゆらりと人影が現れた。

 エシアよりも頭は一つ半は背が高い黒髪の青年だ。濃緑のコートを羽織った彼は、エシアに向かって歩いてくる。


 彼が前に進む度に、霧が薄絹のベールのように揺れた。

 自分に向かってきてくれている。それだけでエシアの心が小さく震えた。

 エシアは小さく息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 リグリアスの顔がはっきりと顔が見えるまでの間に、なんとか心が落ち着く。そしてエシアは彼をまっすぐに見上げた。


 筋の通った鼻、確かに男性らしい角張りはあるものの、どこか優しげな整った顔の中、意志の強そうな空色の瞳が、エシアを見下ろしながら不機嫌そうに細められた。


「またそんな服を着てるのか」

「むく? ムクなんて着れないじゃない」


 ムクとは洗い物に使われる泡立つ実だ。


「相変わらずお前の耳は腐っているな。服だ服」


 エシアの聞き間違いは、昔からの癖みたいなものだ。慣れた調子で淡々と言い直されて、ようやくエシアはなんのことか合点がいく。


「ああ服ね。でも仕事の邪魔だから変える気はないから」


 仕事の関係上、エシアは泥だらけの森の中を歩かねばならないのだ。

 汚れても構わないよう水で洗えば済む編み上げサンダルに、膝丈までしかないズボンを履いている。

 便利な服装なのだが、この格好でエシアが村の中を歩くのをリグリアスは嫌がる。いや、彼だけではなく近所の女性達に顔をしかめられてしまう。女性は長いスカートを履き、膝など見せないのが普通だという意識があるせいだろう。


 しかしエシアは気にかけるつもりはない。

 毎日洗濯を繰り返し、先月だけでスカートを一枚駄目にしてしまったのだ。経済的に良くない。そのうえ、裾を持ち上げて泥で濡れた森の中を歩くと滑った時に危ない。


「転んで怪我するよりマシじゃない」


 だからエシアは、いつもの調子を心がけてリグリアスに言い返す。

 いかに幼なじみとはいえ、数ヶ月前に再会したばかりなのだ。

 その時エシアが昏睡状態になったりとごたごたしているうちに、なんとなく子供の頃のように文句を言い合う仲に定着してしまったのだが。


(片想い相手、だったのよ)


 故郷のあった別の島の、同じ村で生まれ育った相手だ。小さな頃、二つ年上の彼はエシアと同じ背丈しかないほど小柄で、十歳を過ぎるまではエシアが彼をいじめっ子から庇っていたほどだ。

 そしていつの間にか、エシアが彼に守られるようになり、そのうちに、エシアは穏やかなリグリアスの傍にいることを夢見るようになっていた。


 けれどエシアが十四歳の時、リグリアスは念願の聖域での仕事を得た。神聖なる星樹せいじゅに支えられて霧海より高く浮かぶ島、聖域は聖女の住まう場所だ。そこで働くことは栄誉でもある。

 引き留めることもできず、告白もできず、故郷の島を出て行く彼を見送ることしかできなかった。


 それから三年後。

 故郷の島が崩壊するという事件が起こった。

 人々を救うため、島を修復する力をもつ聖女や聖域の役人、警護官達が船で派遣されてきた。その中にリグリアスがいた。


 警護官になっていた彼が助けてくれなかったら、エシアも父親や、リグリアスの家族と同じように星の核へ落ちて、死んでいただろう。

 けれど彼は、故郷の人間だから自分を救ってくれただけだ。


 元々警護官を退くつもりでいたらしい彼は、家族を失ったエシアを見捨てられなかったのだと思う。三ヶ月もの間、崩壊の時に負った怪我が原因で夢とうつつの間をさまよっていたエシアを引き取り、回復してからはエシアの家を探して生活を援助してくれた。


 同郷の人間が一緒の方が安心だろう、と言って。

 それ以上のことを、彼の口から聞いたことなどなかった。だから彼に頼らないでいられるように、エシアは仕事を始めたのだ。


「それよりまた、どこかに行くの?」

 リグリアスは小さいながらも背嚢を背負い、腰に剣を吊している。


「また三日ほど留守にする。家の管理を頼む」


 そう言って、気安く自宅の鍵をエシアに放り投げてくる。

 赤い錆止めが塗られた鉄の鍵を慌てて受け取り、エシアはうなずいた。


 リグリアスに会えないのは寂しかったが、信頼して家の鍵を預けてくれるのは嬉しかった。けれど一方で、ますます彼に自分の気持ちを悟られてはいけないと思うのだ。


 昔なじみの友達だから、鍵を預けてくれるのだ。

 彼に恋していることがバレてしまったら、きっとエシアから距離を置くだろう。


(もう少し。もう少しだけ)


 一年ぐらいこの調子で素っ気なく過ごしていれば、そんな関係に慣れてくる。そうしたらきっと、昔から引きずってきた片思いも、少しずつ消えていってくれるだろう。


 そうしたらリグリアスに迷惑をかけない、気安い友達のままでいられる。

 今はまだ無理だけれど、少しでも自分に彼を何とも思っていないのだと思い込ませるため、エシアはリグリアスに適当そうに手を振って見せた。


「預かっておく。そっちも気を付けて」

 リグリアスはうなずき、立ち去ろうとした。が、もう一度エシアを振り返る。


「忘れていた。一昨日渡すつもりだった土産だ」

「え?」


 つい差し出されたものを受け取ったエシアは、思わず顔をしかめてしまう。


 掌に乗るほどの小さな置物だ。

 木の姿が彫刻されている。そこまでは普通だろう。

 いくつもの枝が人の手の形をしている所は不気味な上、木の幹には、ひょうきんに笑う顔が彫り込まれていたのだ。


「粉屋のブレンさんみたいな顔……」


 もう五十代になるという赤ら顔で鷲鼻のブレンのように、今にも「俺の若い頃はなぁ」としゃべり出しそうだ。

 正直、女性に贈る物にしては微妙すぎる。

 一体リグリアスは何を考えてこんな物を買ったのだろう。


「星樹を模した置物だ。面白いかと思ったが、嫌だったか?」


 星樹!?

 思わずエシアは大声を上げるところだった。


 世界が崩壊しかけた時、大地を浮かべる霧の海を作ったと言われる星樹。そんな神聖なものを模したにしては、あまりに不気味な代物だった。

 が、そんなこと言えるわけもない。


「……いえ、その、有り難く頂きます」


 慎重に返事をする。

 せっかくリグリアスが買ってくれたものなのだ。しかも片想い相手がくれる物だ。拒否できる人がいるだろうか。


 少なくともエシアには、そんな真似はできなかった。

 例えこの置物を見つめても、リグリアスを思うよすがにはならなさそうでも。


「そういえばお前、人形とか昔から好きだったよな。また何かあったら、買ってやろうか?」


 リグリアスの本来なら有り難い申し出に、エシアは内心戦きながら首を縦に動かした。ぎくしゃくと。


「う、うん。期待……してる」


 それでもエシアは、今度はもっと変じゃない物をお願いしたいとは、言い出せなかったのだった。

 あげく、いつまでも人形をほしがる年頃だと思われていることに「妹扱い?」と密かに落胆したのだった。

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