01 愛すべき僕の街のアリス





 少し前まで、あたしには幸崎直人という名前の彼氏がいたが、今は別れてしまっている。


 今でこそ大分立ち直っているが、別れた当初は酷いものだったのだ。

 ナオくんジャンキーことあたしは、ナオくんという栄養素を失って、その仮面を完全に剥がされた。テンションは常にゼロ、その他のことへの興味も好奇心も全て消え失せ、なんとか喋ろうとしても面白いことや毒舌はおろか、普段のボキャブラリーすら完全に失われて、「あー」とか「うん」とかしか言わなくなったり、キモい微笑浮かべたりするばかりだった。

 そこに残ったものはなにもない。ただ肉体だけが残留し、あたしという人間の機能が根こそぎ消失してしまっていた。死体と同じだ。あの時のあたしは、傍から見ればそのぐらい反応がなく、けれどもそんな死体の自分を見せる恥ずかしさだけはちゃんと自覚していた。

 学校などの日常生活を支障なく過ごせていたのは、単に習慣によるものだ。稼働時間中は惰性で動いていただけで、家では死んでいた。理性のないゾンビのように生活をしていたあたしは、家に帰るといつも電池が切れたように死ぬ。帰ってくるなり、そのままベッドに倒れてすぐ死んだ。

 死んでばっかで掃除も整理整頓もしなくなったあたしの部屋は一週間もしないうちに腐った海になった。脱ぎ散らかした服と下着が複雑に絡み合い、ラーメンやコンビニ弁当の容器、お菓子の袋やガムの包みが無数にそれらをデコレーションし、更にはタバコの吸殻が一面に散らばって、ゴージャス過ぎる夢の島を見事に作り上げたのだ。足の踏み場もないどころか、ゴミ山が踏みしめられるくらいに積もっていて、あたしはトイレに行く時だけはそのゴミ山ならぬゴミ海を泳いで進み、それ以外の時は静かにゴミに埋まっていた。

 普段、家ではズボラなお姉ちゃんもさすがにこれには危機感を覚え、必死に掃除をし始める。それでもグデグデになったあたしの負の侵食を止めることはできず、ベッドと床の境界線が曖昧になった段階でお姉ちゃんはあきらめて居間に亡命することになった。

 ……とまあ、そんな風にあたしは廃人一歩手前の状態になり、お姉ちゃんの生活すら堕落パワーでぶっ壊してしまっていた。つまりあたしはそのぐらいナオくんと別れたことがショックで、そのぐらい彼のことが好きだったということになる。

 愛は良くも悪くも人を破壊する。

 普段のあたしはあまり失恋にうちひしがれてナヨナヨになっちゃうような感じじゃないが、この時は自分でも意味不明なくらい落ち込んでしまっていた。

 ……多分な。当時は自分の精神分析どころじゃなかったから正確な心持ちはよくわからん。要するにこれはあの頃の色々を振り返りながら、今まさに説明付けをしてることになるんだけど。

 で、そんな感じで死亡遊戯していたあたしだったが、世間はそのまま長期休業に突入してしまい、あたしは学校に行く必要すらなくなってしまった。日がな一日、自室でゴミに埋もれながらボンヤリ本読んで音楽聴いて漫画読んで映画見て酒飲んでタバコ吸ってオナニーして出前ピザとインスタント食品にまみれているうちに、あたしは体調を崩して入院した。

 担当した病院の先生は「なんでこんな乱れた生活を許していたのか」とあたしの両親に怒ったらしいが、二人は「失恋なんだからそんなこともありますよ」とか呑気なことを言って余計に怒られたらしい。

 病院で点滴を受けながら、あたしは両親とお姉ちゃんに「あんたそろそろ立ち直りなさい」と言われた。お父さんたちは病院の先生に怒られたからで、お姉ちゃんはいい加減ゴミに埋もれた自分の部屋を奪還したいからという理由だった。あたしの健康状態に関しては「失恋なんだからそんなこともあるさ」と相変わらず関心の外。なんて家族だ。面白すぎる。……あー、けど数年前にお姉ちゃんが似たような状況になった時も、あたしはお母さんたちと一緒にお姉ちゃん放置だったな。血統的に冷めた家系なのだ。


 そんなこともあって、あたしは立ち直ることにした。どんな理由であれ他人からモノを言われると、人間動かなきゃと思うようにできているらしい。

 ヒキコモリ中に色んな本とかマンガを読んで感化された所為で、思考だけが徐々に活性化してきたのも理由の一つだ。文学にせよ映画にせよマンガにせよ、様々な作品における様々な人間模様なんかを見ていると、人はそれだけで自分を客観視する視座が蓄えられていく。漁るように色んな作品に触れたことで、あたしも自分を見つめなおすことができるような思考回路になってきたのだ。

 ……実際は、んな高尚なことは結果論でしかなくて、あん時のあたしは単に暇人すぎただけだけどね。

 まあ、とりあえず。

 あたしはお姉ちゃんと一緒に部屋を掃除した。ゴミまとめて捨てて、掃除機かけて、一週間近くかけてようやくあたしの部屋は人間の住める環境を取り戻し、お姉ちゃんも無事に自室へ帰国を果たした。あたしの視界そのものだった部屋がキレイになると、それであたしの思考は更にクリアになる。よりポジティブに前向きに、すべきことを積極的に考えるようになっていく。

 だから考えた。あたしは、今後どうやって生きていくべきかと。


 そしてその日、一日を費やした思考の結果、あたしは健全になろうと誓ったのだった。


 あんな酷いメンヘラ状態になった原因はナオくんと別れたこと。そしてそれを引き起こしたのは、男女間の色々があったからというよりは、もっと単純に、あたしが不健全で変態で社会不適合者だったからだ。あたしがもっと健全で、平和で純粋な愛と理性に満ちた発想と言動を取っていたら、あんな結末にはならなかっただろうと今なら強く思えた。

 だから、あたしはこれを機会に健全になろうと思ったのだ。そうすれば、もうあんな思いはしなくて済むんじゃないかと。

 けどそれは自分を偽ることだ。不健全なあたしが健全になるということはつまり、自分の本音を隠して、みんなと同じ顔をして反吐が出るようなことを言いながら合わせていくという感じ。そんな無理してガマンして、そんなんで生きていくことは人として正しいのかどうか?

 正しいんだと思う。少なくとも、それで生きていけるんなら。ナオくんと別れてから、一人で腐海に沈んでいる時は辛かった。死にたくもなった。「こんなんなってまで生きる意味とかあんのー?」とか「別れてこんなんなるんだったら人付き合いとかマジだるー」とかマジで何度も何度も思った。

 けど、それだけ何度も苦しんで、何度も死にたいと望んだというのに、今あたしは死んでない。死ぬのはやっぱ怖いし、やっぱ生きていたかったからだ。

 グダってる時にあたしはいっぱい本を読んだ。漫画とかラノベだけじゃなくて、お姉ちゃんやお父さんの持ってる難しめの本とかも割と読んだ。そういう本の中で印象に残っているものはいくつもあるけど、特に電撃を受けたのが人間の堕落について書かれた本だ。作者は、えーと……。太宰治だったか坂口安吾だったか、吉行ナントカだったか?まあ誰だったか忘れたけど、その辺の人。その人は昔、戦争が終わったくらいに活躍していた文学者で、その本の中では戦後の酷い状況に置かれた人々に対して「人間は進化するためにはいっぺんドン底まで堕落しなきゃいけない」みたいなことを説いていた。より良い生のための、どこまでも堕ちていくことの推奨。けど人間はどこまでも堕ちれるほど強くはないから、「これ以上堕ちたらヤベー」と言ってその度に歯止めをかけて、そこでふんばることによって進化することが可能だというのだ。

 やっぱエライ文学者は言うことがちげーなとバカなあたしは思った。バカだから早速自分に当てはめてみるのだ。

 あたしはナオくんと別れ、一度ドン底を見た。

 そこを踏みとどまった今、ドン底状態を乗り越えて、あたしが見たものはなんだろう?

 そうだ。あたしは生きていたい。まだまだもっと面白い本や映画見てみたいし、好きなミュージシャンのライブも見たいし、おいしいゴハンも食べたいし、やったことない体位でセックスしてみたい。やり残したことがありすぎて、今死ぬのはもったいなさ過ぎる。生きることを諦めてしまうには、あたしは少々享楽的過ぎるのだ。

 そんなんで生きる理由としてていいのか?という気は少しするが、けどまあ、それでもいいんじゃね?

 具体的な理由はなんであれ、やっぱ生きていたいしね。快楽を追求しているうちに、「もっとそれっぽくて真剣な生きる理由」が見つかるかもしれない。

 ――そしてそのためには健全志向で。

 この社会で生きていく理由を探すのなら、この社会に適合する術を。例えそれが不健全なあたしにとって違和感バリバリで反吐まっしぐらな価値観でも、あたしはそれを身につけなければならない。

 それを見定め、実行していくのが自分ロードだ。具体的に何をしなきゃいけないのはまだよくわからないしこれから考えるんだけど、その先には、きっと輝かしい未来が待っている……。


 ……とか、そんなことを思っていたら、長い夏休みはアッという間に過ぎ去って、大慌てで宿題を片付けているうちに新学期になっていた。

 あーあ。

 学校めんどー。



 甲州街道を走る車には速度規制なんてあってないようなものなんじゃねーのか、と思う。

 朝夕限らず無数の車やバイクがビュンビュン飛び交い、絶えず騒音と排ガスを撒き散らしているこの道路では、呑気に走っていたのでは周りの車に轢かれてしまうように見える。警官が速度超過の原付と思って停止させたのが100ccのバイクだった……なんてのは道幅の広い道路とかではよくある話らしいけど、これだけカッ飛んだ車だらけの道路で律儀に制限速度を守るなんてのはよほどのバカか命知らずだろう。

 なんでみんなそんな急いでるんだ?

 ……っていうより、そういう流れが生まれちゃってるだけなのか。

 この道路を走る無数の車の全部が全部急いでるってことはさすがにないだろう。けど、そういう人たちまで速度オーバーしてんのは、その人自身にとって必要かどうかじゃなくて、それがこの道路を走る条件みたいになってるからなのかもしれない。中には通り道だからここ走ってるけど「マジこんな危なっかしいところ超スピードで走るのなんてヤだよ~。ゆっくりタラタラ走りたいよ~」って思ってるチキンドライバーもいるんじゃないだろうか。

 あたしだったらそう思うような気がする。免許も車も欲しいけど、事故るのは怖いし。けどいつかはあたしも甲州街道を速度超過して走んないといけなくなるのかな。イヤだなー……。


 で、現在のあたしは学校へ向かう間、新宿駅方面へ向かってその甲州街道を音楽聴きながらタラタラ歩く。道路には車、歩道にはサラリーマンがギッシリだ。イヤホンからの音楽なんて、すれ違う無数の人の足音と、通過するトラックの走行音で途切れ途切れで、じっくり聴けたもんじゃない。

 しかし、そんな雑多な音と人の中にいるからこそ、あたしは自分の思考に没頭できるとも言える。

 一人思考をするのは好きだ。今日も、学校に行ってクラスのみんなと会うまでの間に、あたしはみんなとともにいる健全なあたしのあり方について思考を巡らせなければならない。

 朝挨拶をされたら?「おはよーみんな」休み時間になったら?「昨日のテレビ見たー?」

 より良い自分のための健全シミュレート。社会の中で、人々の中で、上手くやっていくには事前の意識改造が欠かせない。だって、そうすることが今のあたしの使命なのだから。マジにもなるってものだ。

 この脳内セルフ自己啓発セミナーが新学期開始と同時に始めたあたし流の自分セラピー。こーやってちょっと先のこと考えるだけで人間結構変われそう。

 それに、そういうことを考えながら雑踏の中を歩くのは、それだけでも自分が健全になっていくみたいでなかなか楽しい。

 …………しっかし、昨日のテレビ……ねえ。

 駅の近くまで来ると、ただでさえ多い人が倍増する。あたしは学校まで歩いて行くが、この辺はいつもこんな調子だからチャリ通なんてとてもじゃないができない。平日の朝だというのに、バーゲンセールかイベント会場のような人口密度。幼少から見慣れているあたしやお姉ちゃんにとってはよくある光景だけど、上京してきた知り合いがこの光景を見て失神しそうになっていた、とお姉ちゃんが以前おかしげに語っていた。

 それを聞いてあたしは不思議に思った。人ごみというものが好きとは言わないまでも、特におかしいと思わない程度にはあまねく都会っ子の神経は麻痺しているのだなあ、と。人は何かに痺れている。あたしとお姉ちゃんは人口というものに関して、無関心になっているのだ。

 そんな風に人の多い新宿南口だが、同じく通学してきたクラスメイトとこの辺で顔を合わせることもよくある。南口で下車して、東南口の方から階段を下りて明治通りの方へ向かうワカゾーどもは大体がウチの生徒だ。あたしもその中に含まれる。

「おっはよー」

 後ろから駆けてきたカズミが今日もそんなことを言いながら、たしーんと肩を叩いてきた。

「……あー」

 それと同時に、絶妙なタイミングであたしのMDプレーヤーが電池切れになる。それまでノリノリで流れていた『JUST ONE MORE KISS』がプピーとかそんなマヌケな音で突然停止しやがって、あたしは全然無関係だとわかっていながらそれがこのカズミという練馬在住のおさげっ子の所為のような気がしてなんだか無性にイラッとした。

「どうしたのカオリ、今日は機嫌悪いの?」

「別に」

 他人の顔色伺いが得意技のカズミはあたしの反応が悪いことにすぐ食い付く。しかし、そこでゴキゲンフキゲンに関する議論をかわすのも面倒なのであたしは適当に濁す。いつも通り。

「そう? 具合悪いなら無理しちゃダメだよ。カオリ、頭痛持ちなんだし」

 あ?なんだこいつ、そんなことまで知ってんだっけか。

 確かにあたしは頭痛持ちだ。だけど、それをこいつに言った記憶はない。どこかで聞き知って覚えていたのか。すこし驚く。

 けどまあ、それを指摘するのも面倒な会話コースなので、「んー……そうね」と適当に頷くにとどめるあたしだった。

 小学校からの付き合いで、基本的に反吐が出るくらい良い子のカズミはあたしのそんな言葉だけで何かを感じ取って引いてくれる。こっちのことをよく知っているからだ。こういうところは楽だな。

 その後もあたしたちはテキトーに雑談をしながら駅から学校までの短い道のりを歩く。カズミとの会話は限られている。クラスの話題、部活の話題、共通の友人の話題。趣味も合わなければ馬も合わないこのおさげっ娘との会話なんて多くがそんなものだ。こうして仲良くしてる理由なんて単に付き合ってる期間が長くて部活も一緒だから、という程度のものなんだから。



「あー、そういえばカオリ。最近はどう?」

「どうって……何が?」

 会話が途切れたタイミングでいつも通りそう切り出してくるカズミの表情はなんだかちょっとにやけている。普段は超が付くほどマジメなこの子には珍しい表情。楽しそうだけど、それだけ下世話な話題を口にしようとしているに違いない。

「何が、って……もー、決まってるじゃない。どうなの、彼との進展は?」

「は?何、彼って?」

 共有する時間が長いだけあり、あたしに彼氏がいたことを知らないカズミじゃない。だからあたしとナオくんがもう付き合ってないことも当然知ってるはずだ。いや知ってるとか知らないとか以前に……、

「いやいやいや」

 顔の前で手をうちわみたいに振りつつカズミ。おばんくさい仕草だな。当然のように学級委員長も勤めるこのマジメ地味子には現代の若者らしい自意識は大分欠如している。

「浅野くんだって。なんか随分しれっとしてるけど、カオリ最近浅野くんと大分仲良いよね?」

「……あー」

 浅野か。そういやいたなそんなヤツ。

 カズミの言う通り、最近のあたしは同じクラスの男子の浅野と喋る機会が確かに多い。

 ウチのクラスの男子の中でも浅野は割に目立つタイプだし、ヘンなヤツだから前々から顔と名前は知っていたけど、交流が生まれたのはつい最近のことだった。

「あたしと浅野が仲良いとなんかあんの?」

「なんかって、なにトボケてんですか。カオリ、休み明けてよーやく失恋から立ち直ってきたんじゃない。浅野くんと、なんてどうなの?」

「………………」

 普段マジメなクセにこういう色恋クサイの話になると妙に楽しそうになるカズミが乙女っぽくてなんかウザい。まあ、それは単にあたしの乙女分が圧倒的に不足してるからだと思うが、頭良くてマジメで成績もいいカズミがそういう話題をあたしにふっかけてくるというのは、年上面されてるみたいでなんともビミョーな気分だ。

「もー、しばらくそういうのはいいよー。恋愛とかマジめんどくさいんだって」

「なに老成したこと言ってんの。カオリ、そういうのキャラじゃないよ」

「んだよ。カズミはあたしが年中男連れまわしてるようなキャラに見てんの?」

「そ、そこまでは言ってないよ。けど、恋愛に関してはかなり私なんかよりずっと達者だなって思ってるから」

 謙遜するみたいに手をパタパタ。褒めて持ち上げてるようでいて、カズミの言葉には距離がある。バカにしてるとまでは言わないけど、あたしのことをどっかで一線引いて遠くから見ている風な意識が感じられた。

 それにしてもどっからそういう発想が来るんだろう? まああたしが男性恐怖症で恋愛に疎いウブ子だなんて言っても説得力ゼロだけどさ。

「浅野なんて全然そんなんじゃないってば。ちょっと前に話す機会があって、それからちょこっと仲良くなってるだけじゃん」

 誤魔化しじゃなくてホントだ。浅野なんて今こうして言われるまで存在すら忘れていたくらいなんだから。

「でも、浅野くんってカオリのことアリスって呼ぶよね?」

「は?」

 そんなつもりはなかったのに、つられてなんか舌打ちとかもしてしまっていた。

「それって、なんか意味深。ホントにただの友達?」

 にやり、と不敵な笑みを浮かべるカズミ。そういう悪ぶった表情がこの子はホント似合わない。あたしが微妙に機嫌悪い所為でそう見えたってだけじゃないはずだ。

 カズミがそうであるように、あたしの知り合いは大体あたしのことを呼ぶ時、苗字やあだ名ではなくただ「カオリ」、と名前で呼ぶ。理由は苗字が長くて呼びにくいとか、名前のゴロが良いとか色々あるんだろうけど、そういうの以前にあたしは単に特殊なあだ名が付くようなタイプじゃないんだろう。

 けれど、そんなあたしの人生における数少ないあだ名があって、それが「アリス」というものだった。理由は安直で誰でも思い付きそうなものだけど、どういうわけかこのあだ名はあたしの元カレである幸崎直人クン専用っぽくなっていた。

 小学生の頃からあたしを知っているほど付き合いの長いカズミは、あたしが付き合っていた彼氏――ナオくんがあたしのことをアリスと呼んでいたことも知っている。けど、あたしがいかにしてナオくんと別れたかは知らない。故に、あたしにとって、その「アリス」という呼称が今どんな意味を持っているかをこいつは知らない。

 それを下世話なコイバナのネタにされる不快感をまるで理解しない。

 ただ、あたしに過去あった出来事を知識として知っているため、ここぞとばかりにそれを用いてあたしを色恋絡みでつついてやろうと思ったのだろう。無意味に乙女チックに恋愛トークが好きだからな。

 ふん。そういう魂胆が見え見えなのだ。

 けど、あたしがイラっとしてるのは、からかわれるのがムカつくからではなく、こいつがそんな断片的な知識であたしを規定しようとしているからだ。過去の要素であたしを定義し、そこに縛りつけようとするのが鬱陶しいからだ。

 知った風な顔などしないでもらいたい。

 あたしは未来を目指している。今までとは違う、健全で新しいあたしに生まれ変わろうと決意し、日々努力している。

 変革を望むあたしにとっては、ビフォアにあたる過去なんて障害でしかない。目指すべきアフターはそれらから脱却し、新たな何かで完成しなければならないからだ。それも知らないくせに、こうやって過去を使ってあたしを自分の知識の内側に抱き込もうとするカズミはちょーウザい。


「浅野がアリスって呼ぶのはそんな深い意味ないよ」

 けどまあ、いくらキレたくてもそんなあたしのヒジョーに個人的な事情で一方的にキレるわけにもいかないので、あたしはそのままのペースで会話を続ける。確かにカズミはあたしの自分レボリューションには邪魔だけど、かといって縁切りしてしまうってのもなんだか味気ないだろ。こいつ、知り合いにいると便利なタイプだし。

 あと、カズミは重要な勘違いをしている。

「あいつアホだから、マジでアリスが本名だと思ってんの」

「え?そうなの」

 きょとん、とするカズミ。この子はウソをつくのが下手なのでマジで知らなかったようだと判断。

「そうだよ。前にヨシノがふざけて「アリス~」って呼んだとき、そのままそれ本名なんだって勘違いしちゃったみたいで、そのまんま。この前喋った時に言ってた。訂正とかしてないから多分今でも気づいてない」

「へぇー」

 カズミはなんだか納得したんだかしてないんだか微妙な表情をしていたが、そこでタイミングよく同じクラスのヨシノと部活で一緒のオノザキがやって来たので、それでこの話はオシマイになった。

 女四人でかしましく雑談しながら学校へ。

「英語の予習やったー?」「やってねー」「カオリ、今日あたるよ?」「カズミ写させてー」「ヤです。自分でやんないと意味ありません」「ウザ」「ウザすぎ」「カタブツ」「なんとでも」「これだから公務員コースは!」「やっば目薬忘れた」「ヨシノ髪型変わってるー」「プチ茶色系」「流行とか」「谷山?」「じゃなくって」「あのコ、カワイイよねー」「キモいだけ」「カラオケ行く?」「あんた浅野とどうなのよ?」

 何気ない会話会話会話……、ワカゾーなあたしらの会話速度は速く、明確な結論が出ようが出まいが次の会話に移行してしまうほどだ。もうとにかく言いたいことすぐ言う。言葉の会話弾幕。

 その中であたしは、カズミやヨシノに言葉を返しながらも中では別のことを考えている。っつーか、引っかかっている。

 ――浅野。

 その男子の名前を聞くと、なんだか妙な気分になる。

 カズミはあたしと浅野がイイ感じだという。そう言ってるのが男女のアイとかコイのことについてなんもわかってないクソニブチンのカズミだけだったらあんまり当てにはならないけど、ヨシノとかも最近結構そんなこと言ってくる。ヨシノは今同じ部活のイケメン高杉くん(セレブ息子)と付き合ってるし、青山とかで歩いててスカウトされたこともあるようなモデル系美人だから(元ヤンで、今でもそのケ濃厚だけど)、まあカズミよりは信憑性あると勝手に。

 まあ、ヨシノとカズミの恋愛事情なんかは割とどうでもよくて、とりあえずあたしと浅野がどーなのよってことだ。

 ……浅野かあ、……浅野ねえ。

 正直言うと、あんま好みじゃないんだよな。

 あたしはどっちかっつーとナオくんみたいなちょいナヨッとしてて中性的なショタっぽい男の子が好きで、浅野みたいに背が高めでちょいモッサりしたタイプはちょっと違う気がするのだ。まあ、浅野もビジュアルに限定して言えばヤサオだしプチ童顔でチャラめだけどサワヤカ系だしモサい部分を上手くやってる感じもするから充分合格点なんだけど、それ以前にどうも性格があたしとあんま合わない気がする。

 ……なんつーか、あいつバカだし。

 浅野はバカだ。アイとかコイとか言って青春してるより、クラスの男子と一緒にアホな下ネタとか言い合ってウッヒャッヒャッヒャとなってるようなキャラだ。そんなエロでバカでなんかガキっぽくてサルっぽくて、あたしの名前がアリスだと未だに素でカンチガイしてるような男子なんて、恋愛対象として果たしてどうなのだろう?

 まあ基本的に女子の方が男子より大人だというし、その辺は割り切るのが賢明なのかもしんないけど、それにしたって浅野はアホすぎる。そんな浅野と付き合う?ねえよ。マジで。


 けど、それならこのなんとなーく引っかかる感じはどっから来てるんだろう?

 ――あたしは浅野が好きなのかどうか?

 考える。

 もう一度、浅野と付き合うあたしを想像してみる。二人で遊んで、喋って、セックスする自分を想像してみる。

 ……なんか、公園とかでキャッチボールしながら呑気にゲームの話とかしてる姿が映し出された。あたしん中の浅野像はガキ過ぎて、そんな程度のイマジネイションしか働かない。それはそれで平和でいいんだけど、なんか中学生のカップルみたいじゃないか?付き合ってると呼べるのかさえ微妙というか。

 今のあたしにそれはちょっと眩しいな。

 …………。

 じゃあ、そんな浅野とセックスしたらどうだろう?

 普段ガキでアホなことばっかり言ってる浅野が、ふと真剣になる瞬間。よくわからんけど、あいつはそういう時、マジで世界中の何よりもあたしのことを見てくれるような気がする。自分の中で極限まで純化された愛を性交を通してあたしに注いでくれるんじゃないだろうか?

 あー、ヤベ、それってなんかすごいいいかも。そんな状況でセックスとかしたら、どのくらいキモチイイのかな? ナオくんみたいなヒョロっこい男子と弱い互いを支え合うみたいにセックスするのもよかったけど、浅野みたいにオトコっぽい人に一方的に守られながらするのも悪くないのかもしれないぞ。

 ………………。

 ……うーむ。


「……って、あー、やめやめ」

 学校の階段を上がりながらふと冷静になって、あたしは失笑する。急激にむなしさみたいなものがやってきて、アホなこと考えてる自分への嫌悪感と同時に、何か胸にたまっていた重いものがすっと消える感じもあった。

 なにしてんだあたしは。いつの間にかかなりずっしりと妄想ライドオンしてしまっていた。浅野とデートしてセックス?いやいやいやだからねえよってそれは。マジそんなんじゃないんだってば。加速しすぎた今回は。

 振り払う。あんま恋とかエロのことばっか言ってんじゃねーよって。

 そうだ。今のあたしはそれどころじゃない。これからは実社会で生きていくためのチカラを身に着けるべく、なるたけ健全で社会性のあるニンゲンにならないといけないのだ。

 ナオくんとのことを思え。恋とかエロとかそういうのは、マトモになってからじゃないと成功しねーんだからとりあえず後回しだ。あたしが無事健全な女の子になれたら、そこからゆっくり新しい相手を見つけて、平和で純粋な愛と理性のある男女交際の姿を模索していけばいいだろ。うん。

 新しい相手か。できるかな、そんな人。

 ……っつーかこんなこと勝手に思うなんて浅野にも失礼だからよー、マジで。なああたし。


 けどまあ、教室に入ってそのまま始業までダベって、今日は浅野が遅刻してると気付いた時、あたしはなんとなくガッカリというか、退屈さのようなものを感じてる自分に気付いて、驚くのだった。

 ホント。どーしちまったんだ、今日のあたしは?

 あたしは浅野との間に一体どんなものを期待して、何について裏切られた気分になっているのだろう。





 あたしが一番最初に浅野を認識したのは今年の初め。今のクラスになって、最初のホームルームで自己紹介なんかをやらされた時のことだ。


「新宿在住で、ウチ割とすぐ近くなんで、よかったら遊びに来てください」

 あたしはそんなクソみたいにつまんねーことを言っていたが、それは他のみんなも同じようなもんだった。

「よろしくお願いします」「柔道部に入ってます」「よろしくお願いします」「SNAIL RAMPが好きです」「調布に住んでます」「村田洋介です」「同じく村田洋介です」「よろしくお願いします」「いやいや誰かツッコンでやれよ。村田洋介」「あ、わたしもSNAIL RAMP好きです!」「誰か数学教えてー」

 当たり障りのないものから、それでホントに自己を紹介できてるのか疑問になるようなものまで、情報という情報が入り乱れている。雑然と連なるクラスメイトたちの言葉の群れは、なんだかどこぞの掲示板のカキコミみたいだ。そんぐらい無意味で無秩序。

 けど、それでいいんだろうと思う。そいつがどんな趣味を持っていて何部に所属しているかなんて、正直ダチとして付き合う時に知ればいいことで、こんなゴチャゴチャしたところで言われても頭に入ってこない。この手の自己紹介なんて、そいつの顔と名前と喋る雰囲気が伝わればそれで充分なのだ。正直全員が全員「よろしくお願いします」って言うだけで充分なんじゃないかとさえあたしは思う。けどまあ、それじゃさすがにマズイしつまらんだろう、とみんな思っているようで、だからみんなして足りないボキャ使ってつまんないことを言っているのだ。

 けど、そんなつまんない自己紹介でも、あたしはクラスメイトの顔と名前と喋る雰囲気を大体理解して、小出しにされた情報と自分の趣味がリンクしていれば「お、こいつとは仲良くできそうじゃん」とか思ったりもするんだから、人間っておかしなもんだなあと思う。今よくつるんでるヨシノだって一年の時の自己紹介でホントどーでもよさそうに「Ⅴ系好きです」とか言ってたのを後にあたしが拾ったのがきっかけで仲良くなったようなもんだった(実際は大してⅤ系好きでもなかった)。だから他のみんなもそんな感じで、こういう場から新しく関係を作っていったり作りそこなったりするんだろう。


 まあ、そんな新学期の自己紹介の意義とかについてはどーでもよくて。あたしがそのつまんねー自己紹介の中で一際強く印象に残っているものがある。それが浅野の自己紹介だった。



「下板橋在住の浅野っす。今朝の朝メシのオカズは納豆でした。あ、あとは、えーと好きな言葉は……「愛」と「正義」でいいや。そんな感じ。よろしくー」

 そんなようなことを言うだけ言ってさっさと席に座ってしまう。クラスメイトたちの自己紹介は、その大半がどーでもいい内容だったけど、浅野の自己紹介はその中でも群を抜いてどーでもよかった。

「朝メシのオカズ?そんなの新学期の自己紹介で言うことか?」「それに愛と正義って、絶対今テキトーに考えただけだろ!」あたしはそんなツッコミが即座に思い浮かんでついつい自分で吹き出しそうになってしまう。プフフ。なにこいつ~、シュールすぎ。

 けど、クラス全体の空気としては、もう浅野の後ろの席に座ってた男子の自己紹介に移っている。浅野の自己紹介がツボって笑いそうになってるのもあたしだけっぽい。あたしはそれに衝撃を受ける。

 なんで?こいつ、こんな明らかやる気なくてアホすぎる自己紹介してるのにどうして誰もツッコまないの?

 それは多分、クラスのみんなも、更には浅野自身も、浅野の言葉を聞いている間、誰もが自己紹介ってモンの無意味さみたいなのを実感しているからなんだろう。

 ついさっき言ったみたいな感じで、自己紹介ってのは相手の趣味とか個人情報が知りたいわけじゃなくて、顔と名前と喋る雰囲気を知るための儀式なんだ。

 人が人と仲良くなれるかどうかを悟るのは、趣味の一致や持っている情報の共通性が理解できた時なんかじゃない。そいつの持つ気配というか、そいつの奥底にある核みたいな何か――それがどんなもんかを理解して、自分との相性がいいと思った時、人は誰かと仲良くできるって可能性を見出すようにできている。

 浅野はきっと、それを誰よりもわかってるんだと思う。あの短い言葉を口から出している時に浅野が意識していたことは、漠然と「自分がどういう口調と態度で喋るか」ということだったに違いない。喋った内容自体はホントにどーでもいいことだったんだ。で、クラスのみんなも無意識のうちにそれを察したから、浅野の自己紹介があまりにテキトーで意味不明だったというのに誰も突っ込まない――、

 ――まあ、みんなの心の中でそんな深いやり取りがあったとは正直思えないけど。

 人と人とのつながりが生まれる瞬間ってのはなんとなく静電気に似てる。小さく軽くビビッてなって、そこからちゃんとした付き合いが始まってくんだ。自己紹介ってのは、それが生じる最初の摩擦。

 きっと浅野もなーんとなくテキトーなこと言って、クラスのみんなもテキトーに丸め込まれて、そのまま流してしまっただけなのだ。そんな空気の中で、あたしだけがたまたま空気も読まずに何かに引っかかってしまった。

 あたしはこの時、わけもなく浅野がすごいと思った。

 クラス全体を納得させて、自分の存在ってうか、持つ空気みたいなのを一瞬で認識させてしまう、その技術に。浅野自身がどの程度それを意識してるかわからないけど(だから実際は多分全然意識してないんだと思うけど……)、意識的でも無意識的でもそれはすごいことなんじゃないだろうか、と。

 あたしもそんな風にカンタンに皆に自分ってモンをアピールできたらいいのかなあ。

 ……まあ、全てはあたしが深く考えすぎなのかもしれないけどね。

 人間関係に難しい何かを持ち込もうとするのは、あたしの悪い癖なのかもしれない。けどそれも仕方ないさ。健全志向で行くと決めたんだから。少しうるさく観察していくくらいがちょうどいいんだよ。


 そんな感じで。

 この時から既に、あたしは浅野という男子が少し気にかかっていたのだと思う。

 好意とかそういう具体的な感情ではなく、他とは色の違う石を見つけてちょっと気になった、くらいの漠然とした感覚。そんな希薄な意識がそれこそ静電気のように生じていた。

 

 

 

 

 五階踊り場から更に半階段上ったところにあるのは屋上に上るための階段室だ。ペントハウスともいう。ウチの学校は普段は屋上への立ち入りが禁止なので、ここは普段ホコリ被った机とか掃除用具があるだけの単なる物置スペースと化している。

 けど、ここは人気がなくて静かで、踊り場の窓から新宿御苑がよく見える。秋は紅葉、夏は新緑。あたし個人的には、非常階段と並ぶ隠れた名景スポットだ。しかもこっちは非常階段と違って室内なので、冬でも寒くない。昼ゴハンは御苑の緑を眺めつつのんびりと、という主義であったため、以前のあたしはよくナオくんと二人、ここで昼ゴハンを食べていた。懐かしい。

 ……だが、繰り返すけどナオくんもういない。

 一人でそんなトコいても空しいだけなので、ここ最近のあたしは久しぶりに教室ランチなのだった。

「カオリっちも一人で食べてないでこっちおいでよー」

 一人で弁当を食っていたらクラス女子の中心的キャラであるタニヤマが手招きしてあたしを呼んでいた。机がゴチャッと群がった教室のその一画にはヨシノも含めて、テヅカとかコムギとか、クラス女子の何人かが集まってランチタイムしている。カズミはクラスが違うからいない。

「……じゃあ遠慮なく、お邪魔しマース」

 新参者のあたしはおずおずとその輪に参加し、そのままみんなと一緒に昼ゴハンを食べることにする。

「………………」

 で、会話会話会話、弁当のオカズ交換、会話会話、購買にジュース買いにパシリ、会話会話会話……。

 そんな調子でこいつら喋ってばっかりだ。よく話題が尽きないなあと思う。そしてあたしもよく相槌打つの飽きないなあと思う。輪の中ではあたしも一応喋りもするし返事もするし笑いもするけど、そんだけな感じ。

 なんかあんまり楽しくない。

 居心地が悪かった。悪かったというほど悪くもなかったけど、良くはなかった。ぬるいおフロのような、湿ったシャツのような、なんともビミョーな気持ちの悪さ。

 なんか知らんけど、こうした集まりには黙るのが罪であるかのような空気があるのだ。とにかく会話して会話して、たまに面白いこととかヘンなこととか言って定期的に「アハハ~」とかって笑ってないとダメ、みたいな空気。

 停滞を肯定できない空気。

「カオリっち、最近どう?」

 ちょっと話題に詰まった瞬間、あたしの隣に座っていたテヅカお得意の振りが炸裂した。コイツは話題が途切れると必ずといっていいほど隣に座ってるヤツにこの振り方をする。「最近どう?」だなんてB級映画の脇役かおまえは。っつーか、振り方が下手すぎんだろ。話題作るにしても漠然としすぎてる。無茶振りもいいところだ。もっと面白いこといえるようになって出直して来い、って思う。言わんけど。

「ヨシノ、ポカリちょうだい」

「いよ」

 あたしは無視してヨシノに話しかけ、ポカリをわけてもらう。そしたらテヅカは膝をパチーンと叩きながら「うわ、ちょっとカオリっち、シカトなの~?」とか言って、それがおかしくてみんなが「アハハ~」となった。特に何かしてるわけでもないけどクラス女子におけるあたしの地位は割と高めに設定されているらしいので、中堅に位置するテヅカの「最近どう?」の返しはこういうクールなレスポンス――っつーかシカトするだけでも笑いが取れる。これをオノザキみたいに立場の弱いヤツがやったら、テヅカはオノザキに「何シカトしてんのよー」とかメンドくさいこと言い出す展開になりかねない。そうすると寒くなる。「空気読めてないー」とか言って誰かがフォロー回らないといけなくなる。大体は仕切り役のタニヤマがやる。それが面白くてみんな「アハハ~」ってなれば、結局は同じなんだけど。

「………………」

 面白いのはいいんだけど、ヘンな流れだなー、とあたしは前々から思ってる。どうしてこの子たちは面白い方向に話を持ってかないと気がすまないんだろう。ボケたらツッコまないとダメだし、下手なツッコミだと怒られることもある。そうやって空気悪くなるたびに「空気読めー」とか「ツッコむところはそこじゃないー」とか言って強引に笑いに持ってかれる。んな毎回毎回面白いこと言えるわけないじゃん。アホか。あたしは芸人じゃないっつーの。

「あ、そう言えばさー、藤村クンいるじゃん。ウチのクラスの」と今度はコムギが何の脈絡もなく新しい話始めて、「藤村くんがどした?」とその発言にサッとタニヤマが反応した。「この間、ヤクザっぽい人と喋ってたの見た」と話し始めるコムギ。「どこで?」と促すタニヤマ。「南口の、あの外の通りあんでしょ」「ルミネの脇?」「あそこねー、いるよねたまにそういう人」そこに他の面子も加わりだして、あたしがぽへ~っとしている間に、また新しい話題がスタートしていく。

「スキンでグラサンかけてる人だったよ」「こわ」「で、藤村クンどーしてたの?」「わかんない。なんかちょっと喋ってから、一緒にどっか行っちゃった」「肝臓かな」「肝臓だね」「死んだかもよ」「こわ~い」「けど割といるっぽいよ、そういうキャッチ。この前A組の下田くんも引っかかったって言ってた」「下田も肝臓だ」「ありえるよーソレ」「つーか下田も藤村もそのまま戻ってくんなよあいつら、ウザいから」アハハ~。アハハ~。

 ……とかそんな風に話題は次々移り変わっていく。傍からマジで聞いてみると何の話してんのか全然わかんない。馬鹿なのかこいつら?くだらないことしか言えないなら大人しくしてろよ。停滞を肯定することを覚えたらどうだ。

 沈黙の何が悪い?

 黙ってたって楽しい時は楽しいんだって、あたしはナオくんとの付き合いの中でそれを知ってる。

 好きな人と一緒なら、何もしてなくたって泣きそうなぐらい楽しく思えるのだ。あたしとナオくんは色々世間とズレてたかもしれないけど、その中でもあれは正しい考え方だったと思う。恋人同士だから、トモダチ同士だからって、無理して会話するなんて馬鹿げてる。

「ホントにセメントで固められて東京湾行ってたりして」「それはさすがにないでしょ」「でもウチ的には二人殺されても全然おけ」「どして?」「なぜならあいつらはオタッキーだから」「うっそ、マジなの?」「マジよ。キモい」「オタクはねー、C組の加藤とかでしょ」「あいつね。髪ちゃんと洗ってんのって思うよね」「そういえばヨッシー今日から髪の色違うよね」「今更かよ」アハハ~。アハハ~。

 ……ホント、なんつー茶番会話だ。

 トモダチの作り方とか扱い方って、どうしたらもっと上手くできるんだろう。どうしたらもっと普通っぽくできるんだろう。世渡り上手で知り合いの多そうなカズミとかタニヤマを見て学ぼうかと思ったけど、こんな調子じゃ色々なことが面倒なあたしには難儀な道のりだと知らされるばかりだ。

 ホントに。


 とうとうあたしはメンドくさくなってケータイ持って立ち上がる。そのまま教室を出て行くと、何故かヨシノも立ち上がってついてきた。廊下をトコトコ歩いてるとヨシノが早足で追いついてきて、並んだところで右手の人差し指と中指を立てる。



「カオリ、マルメン」

 なんでもない顔でそう言いながら手を差し出してくる。この辺りで、元ヤンのケが抜けてないなと思わされる。動作が自然すぎて決まってるのだ。どうやらヨシノはあたしが席を立ったのを見て、食後の一服に行くとでも思ったらしい。

「ないってば。あたしもうやめたの」

「は?」ヨシノは信じられないって感じで聞き返してくる。「マジで?」

「マジだよ」

 きっぱりそう言ってやると、ヨシノは露骨にフキゲンな顔をした。足を止めたので、あたしも合わせて立ち止まる。

「いつからよ?」

「この間。休み明けから」

「ちょっと、マジで言ってんのそれ?」

「だからマジだよ。ライターも持ってないよ」

 タバコ持ってない言い訳じゃなくてこれはマジでマジなんだってことをアピールする。

 そしたらヨシノはますますムカついた表情になって、「んだよ、使えないな。マジ使えないカオリ、死んでろよ」とかブツクサ言いながらあたしを追い抜いて一人で非常階段へ向かった。行けば知り合いがいることも多いのでそういう時は何もあたしからでなくてもその人たちから一本もらえたりする。

 非常階段はあたしらみたいなモクやる生徒のための喫煙スペースだ。たまにルール知らない新参が吸殻残したりするけど、それが発見されると先生の見回りが実装されるのでそいつはヘヴィなスモーカーたちのコミュニティに呼び出されてシメられる。

 けど、今のあたしが向かうのはそんな非常階段じゃない。室内の、もっとあったかい場所だ。喉のあたりがむずむずするのをガマンしながら、あたしはヨシノとは違う方向へ歩く。

「う~、タバコ吸いたいよ~」

 数週間に及ぶ堕落生活からの脱却は一筋縄ではいかない。食後はニコチンが欲しくなる。けどあたしはもう禁煙することにしたのだ。あたし認識によるところの健全学生は、昼休みに隠れてモクやったりしない。

 そうだ、ガム噛もうガム。くちゃくちゃ。

「………………」

 ――死んでろよ。

 それにしてもヨシノは悪口や文句を言う時に本当に容赦がない。クズとか死ねとか平気で言う。そういった攻撃的な悪意があたしみたいな普段から一緒にいるヤツにも平気で向いてくるから怖い。顔つきが整ってるからガン飛ばされるとますます怖い。

 けど上手い。怖いけど、上手いのだ。

 ヨシノは悪意のコントロールが上手い。相手をビビらせることに長けている。自分の強さを示すタイミングを見逃さず、そうした場面で悪意を惜しまず出すことで上手に優位性を保っていく。要所要所で相手に自分の攻撃性をチラつかせることで、「あたしはキレるともっと怖いぜ」ということを知らしめておくのだ。かといって、それで相手をキレさせたら本末転倒なので、その辺は上手くやる。ヨシノはあたしがこの程度ではキレないとわかったうえで、こうした威嚇行動に出ている。

 事実あたしはヨシノがボソッと「死んでろよ」と言ったのにムカッとするよりはヒエッとした。そこで突然「死ねよ」とか言われるのはわけわかんないし、「負けるかー」とも思うけど、それでも本場ヤンキーの風格には勝てなくて、「うっぐ」って泣きそうになってしまう。

 まあヨシノもマジであたしのことを「死ねよ」と思ってるわけではないから、あれはヨシノなりのあたしへのスキンシップの一部なのだ……と思いたい。普段はあたしら仲良いし、一緒に買い物行ったりするもんね。時々こうやってキンチョー状態になるのもまあスリルスリル。

 威嚇行動は抑止力に似てて、上手くやれば相手との均衡を絶妙に保つことができる。下手な馴れ合いより、緊張感がある分よっぽど強い信頼関係が作れる。そういった関係を生み出すのがヨシノはホント上手。悪意のコントロールが下手なヤツは、文句を言うタイミングでも相手を気遣って自重してしまうだけだが、ヨシノはそこで敢えて不満を惜しまず発散することで、相手に自分の大きさを見せつけている。……言葉にするとなんだかせせこましいけど、実物を見ると激スマート。激スマ。

 ヨシノはそういう風に、他との関係を自分と相手の強さによって作っていくものだという認識を持っている。明確な上下を設定し、その分に相応なこと以外やらない。

 マジゲンカになったとしても、ヨシノは叫び声を上げて突進するなんてことは絶対しない。元ヤンのヨシノは普通にケンカ強いだろうから、マジになれば普通の相手なら軽くボコれるだろう。だからこそカッカしないで冷静に、最適な最低限の動きだけで相手をできるだけスピーディに潰す。そうやって相手へ自分の圧倒的強さを見せることで差を明確化し、一気に屈服させる。

 ……と、以前オノザキをあたしらの前で公開処刑した時にヨシノは言っていた。仮に誰かと対立した場合もヨシノはそうやって相手を徹底的に叩いて従えてしまうのだ。実際あれ以来オノザキはすっかりヨシノにビビッてしまっていて、ヨシノの機嫌が悪い時は何でもペコペコ言うことを聞いている。

 けど、舎弟っぽいかというとそうでもなく、機嫌が良い時には二人は普通にトモダチックに仲が良い。ヨシノは頭いいから、オルウェイズ乱暴してるわけじゃない。使い分ける。アメとムチのタイミングを。だから普段はオノザキとも楽しく遊んでる。表向きは非常にいい関係になっているのだ。公開ジメの時も、カズミが慌てて止めに入ったが、それがなくてもヨシノはオノザキがギブしたところでアッサリ引いていただろう。ヨシノみたいに頭のいいヤツが殺したいほど誰かを憎むはずはない。相手の心が自分に折れるまで蹴ればあいつのシメはそれでシマイなのだ。

 

 ……だからこれも、トモダチの作り方の一つといえなくもない。そうあたしは思った。

 相手がオノザキみたいな弱いヤツならそれでいい。カズミみたいに強いヤツでも他の方法で強さを見せることができる。そうやってヨシノは強さを示すことでトモダチを作って、毎日を生きてるんだ。タニヤマとかテヅカみたいにアホな茶番会話で意味もなく盛り上げたりせず、自分なりのやり方を自信を持って貫いてる。実際はビビらせて黙らせてるだけだけど、結果的に上手く回っているのならそれでも別にいいのだろう。

 ヨシノと違ってヤンキー的な自分の示し方がわからんあたしは真似しようもないけど、トモダチの扱い方の一例として学ぶところはあると思った。

 

 トモダチというものは、健全になるためには非常に重要なファクターだと思う。その扱いをどうするかが、その人を生かしも殺しもする。トモダチを上手く作り、上手く操る方法。それらを打算なく無意識に行えるようになること。それがあたしの求める普通への第一歩かもな。

 だから明日は、茶番会話にももう少しガマンして参加してみよう。なにかヒントが得られるかも。

 

 ……そんなことを、この日のあたしは考えてた。冬でも寒くないペントハウスで一人、くちゃくちゃガムを噛みながら。

 一人。せつねー。


 

 

 

「大分の梅田ですけど藤原くんのお宅ですか?」

「違います」

「あれー?また間違えたー。すみませーん」

 教育番組の司会者みたいな声してる人はそう言って電話を切った。

 この人は数年前からウチにたびたび間違い電話をかけてくる。その相手先のフジワラって人んちの番号はよっぽどウチのと似てるんだろう。

「カオリー、電話誰からー?」

「あのいつも間違えてかけてくる人ー」

 隣の部屋からヒョッコリ顔を出したお姉ちゃんに、結ぼうとしてて放置してた髪を改めて結びながら答える。お姉ちゃんは「なーんだ」と言って頭を引っ込め、化粧に戻った。お姉ちゃんはあれで結構身支度が素早い。ぐずぐずしてると置いてかれちゃう。あたしも急いで支度しなきゃ。

 あたしとお姉ちゃんは日曜日によく新宿に買い物に行く。そういう日は買い物の後、デパ地下で総菜とか弁当を買って高田馬場に住んでるばーちゃんちに行ってみんなで食べるというのがいつもの流れだ。ばーちゃんは孫のあたしらがおみやげを持って来るのをいつも楽しみにしていて、お姉ちゃんが「今日も行くよー」って電話をすると毎度大喜びしてくれる。そしてたまにおこづかいをくれる。ラッキー! あたしは高校生になったので三千円から五千円くらいがアベレージだ。

「行くよカオリ、あんま遅くなるとおばーちゃんお腹空かしちゃうよ」

「はーい」

 この日もそうしてあたしとお姉ちゃんは出かけた。

 初台から都営新宿線に乗って新宿三丁目で降り、適当な出口から地下道を出てブラブラする。いつもはマルイとかルミネに行くコースが多いけど、この日は伊勢丹のミウミウとヒスのショップをひやかした。

 そのまま地下の食品街で海鮮ちらしと、とらやのもなかを一箱買う。ちらしは昼ゴハンだ。

「お姉ちゃん、もなかも買ってくの?」

「この間、野館のおばさんにお世話になったでしょ。そのお礼しないと」

「ふーん……」

 もう社会人のお姉ちゃんはこういう人付き合いみたいなのが結構ちゃんとしてる。マナーきちんとしてるし、知らない人ともスラスラ喋れる。こうやってデパ地下とかで高そうなお菓子買ってたりするの見るたび、あたしは小さく「すげー」と思い知るのだ。社会人的には当たり前のことなのかもしれないけど、あたしもああいう風にサラッと世渡りしていけるようになりたいと思う。

「お姉ちゃん、あたし外で待ってていい?」

「え?いいけど、どこ?」

「バスで行くんでしょ?バス停のトコいる」

「わかった」

 けど、しっかりしすぎなお姉ちゃんとグデグデな今の自分との差を見せ付けられるのがまだちょっとキツくて、あたしはソソクサと逃げ出した。

 人の多い日曜のデパ地下。デパ地下なんかで買い物する人は、タラタラしてる学生とかじゃなくてちゃんとした社会人だというのがあたし認識だ。だからそこの総菜屋で肉じゃが買ってるオバチャンも、アンデルセンの袋ぶら下げてるお兄さんも、きっと日々立派に仕事して稼いで、その金でデパ地下で買い物をして、それをこれから誰かと一緒に食べるのだろう。学校前のニューデイズで百円のキシリトールガムをお姉ちゃんからもらったお金で自分のためだけに買うあたしとは、何もかも違う。生きる真剣さみたいなものが、全然違う。

 見習わなきゃ。

「バイトしよーかな」

 そう思うのはささやかな抵抗だ。高校生バイトと社会人の共通点なんて働いて金稼いでるってことくらいで、さっき言った責任とか世渡りとかそういうすごさなんて少しもカバーできてない気がするけど、そんなあたしでも自分で獲得した金なら、もう少し真剣な投資が行えるんじゃないか?

 ウチの学校はバイトとチャリ通が禁止されているけど、やってるヤツなんていっぱいいる。ヨシノだって新宿のドトールでバイトしてるし、カズミも神田のオフィスで掃除やってたはずだ。今度どっちかに紹介してもらおうか。あ、いやいや、自分修行のためだったら、知り合いなんていない場所に行った方がいいかなあ。

 けどそんなこと言ったら、バイトしようっていう思いつきさえもなんだか安易に思えてくる。うーむ。

 

 ……とかそんなこと思いながら食品街を出てエスカレーターを上ると、そこでそいつとバッタリあった。

「お、アリスじゃん」

 あたしのことをアリスと呼ぶのは今ではもうコイツだけだ。背中にベースの絵が描いてある黒いTシャツを着た浅野は、ケータイ片手に退屈そうな顔して伊勢丹の入り口の階段に座り込んでいた。

「……あんたこんなところでなにやってんの?」

「待ち合わせー、フジたちと一緒に映画見に行くんよ」

「映画かー」とあたしは無意味に復唱した。「何見に行くの?」

「ロードオブザリング」

「二章?」

 あたしが聞くと、浅野は「そう」と短く答えた。ケータイをチキチキいじりながら。あたしの勝手な想像だけど、浅野が指輪物語ってのはなんかイメージと合わない。どっちかっていうと一緒に行くフジムラとかの趣味っぽいな。浅野はつきあってあげてるんだ。

「他に誰が来るの?」

「え?他って?」

 メール打ち終わった浅野がケータイしまいながらこっち向く。目が合った。なんか気まずくてあたしは目を逸らす。所在無い両手を背中でもにょもにょ絡めながら。

「浅野とフジムラ以外に誰か来るのって」

「荒木とヒロシ。あとイータンも」

 クラスの男子たちだ。今挙がった浅野以外の面々とはあたしはほとんど付き合いがない。

 ――む?

 と、そこであたしは無意味なことを思いついてしまう。で、思いついたら最後、なんかそのことを浅野に確認したくてしかたがなくなった。けど超無意味。

「そんなこと聞いてカオリあんた何様~」と自分で思う。けど、このまま聞かないでバイバイしちゃうと、絶対後で気になって胃に来る。

 あたしは胃が弱い。お姉ちゃんは胃下垂だし。遺伝してるかも。

 ……いいや。聞いちゃえ。

「女子は来ないの?」

「ん?」

 聞いちゃった!

……で、聞いてから自分が猛烈にキモくなった。

 一体あたしは何を気にしてるんだ? 浅野が女子と映画見に行こうが関係ないだろ。ちょっとカズミたちにからかわれたからって、意識しすぎじゃないの?

「来ないよー」けど浅野はあたしの質問に妙な顔をすることもなく答えてくれた。「男戦隊だけでサウロン倒してくるぜ」

 戦隊スーツ姿の浅野たちがオーク軍団と戦う姿が想像されてあたしはゲラゲラ笑う。けど、笑ってしまった理由に浅野が女子と一緒じゃないことについての安心感も含まれているような気がして、すぐにビミョーな気分になった。

「アリスも来る?」

 で、そんなこと聞いてくるし。

「いいよー、男子の中に一人あたしみたいな女子いても気まずいだけでしょー」

「んなことねーと思うけど」

「男子グループにマワされるカワイソーなあたしをそんな見たいか」

「うは、朝からエロいの禁止な」

 浅野は人並みに下ネタ大王なので、こういうとっさの下品な振りにもあんまり動じない。

「なんなら他の女子呼んでもいいよ?」気遣いとかじゃなくてマジでそう思ってるみたいに言う。

「いや、悪いけど今回はマジで遠慮。あたしこれからお姉ちゃんとばーちゃんち行くの」

「あ、そなんだ。そりゃこっちこそゴメン」

 そう言って浅野は唐突にポッキーを差し出してきた。おわびのつもりかな?

 一本もらう。二人でカリカリ。

「…………」

 あたしは細い棒が浅野の口に吸い込まれていくのを、なんだか不思議な気分で眺めていた。

「どした?」

「……なんでもねえよ」

「なんでヤンキー口調よ?アリスってレディース出身?」

「違うし」それはヨシノだ。「浅野あたしのことそんな風に思ってたの?」

「だって新宿住まいだし。進んでるのかなーって。歌舞伎町とか超くわしそう」

「そんな詳しくねーよ。歌舞伎町も映画館とカラオケくらいしか行ったことない」

「そうなの?じゃあ普段はどこで遊んでんの?」「

この辺。三丁目」

「二丁目は?」と小指を立ててくる。

「だからそんなんいないって言ってんでしょー! 朝から下ネタ禁止ー!」

「うはは。だってアリス、女子からモテそうなんだもん」

「……どんなイメージだよそれ」「んー、なんだろ。ジョーン・ジェットみてーな」「知らん。誰?」

「ありゃりゃ、知らんか。っつーかぶっちゃけそんな似てないし」

「はぁ?まー、いいけどさーなんでも……」

 ボソッと言ってやると、浅野はいつものサワヤカ系のスマイルを返してきて、あたしはまたビミョーな気分になった。で、ビミョーな気分になってる自分がビミョーだった。

「だーかーらー、意識しすぎなんじゃねーのかよって」と、あたしの中からツッコミをいただく。


「カオリー」

 伊勢丹からデパ地下のビニール袋を下げたお姉ちゃんが出てきた。一個差し出してくるので受け取る。「お? お?」と突如現れたオトナの女性に浅野が目を白黒させていた。

「どちらさん?」と聞いてくるので「お姉ちゃん」と紹介した。お姉ちゃんの方にもクラスの男子で名前は浅野という風に紹介する。

「あれ、まさかカオリの彼氏?」

 そしたら、お姉ちゃんはそんなトンでもないことを言い出した。

「な――!」

 あたしが絶句してると、浅野もバッて立ち上がって、「はいっ!娘さんはボクが必ず幸せにします!」とか言うし。しかも普段よりちょっと美形ボイスで。無意味な演技派。ウザいんだけど。

「ちょっとー、なぐるよ?」

「……笑えなかった?」

 急にしんみりなって泣きそうな顔をする。あたしがそういう男の子のナヨい仕草に弱いと知ってるからだ。ムカツクー!うぜーこいつマジうぜー!と思ってたら、お姉ちゃんがクスクス笑ってた。浅野がソレを見て親指を立てると、お姉ちゃんも同じように応じる。……何この二人、もう意気投合?

「浅野くん、これからもカオリをよろしくね」

「カオリ? 誰?」と素でわかってない顔でこっち向いて来たので、「あたしの名前だよばか」と返してやった。

「え?お前の名前ってアリスじゃないの?」

 浅野のこの台詞でお姉ちゃん大爆笑。それであたしはなんだか更にイラッとして、「もうどっかいっちゃえよ浅野~!」って怒ったら浅野は「タラ~ン!」とか言ってクルクル回った。全然効いてない。

「あ、メール来た」と、バレリーナから復帰した浅野はケータイ開いてメールを読む。「イータンからだ」

「もう来るって?」

「みたい。俺がちょっと早く来すぎたんだよねー、向こう直接行くってさ」

「じゃあ浅野も早く行きなよ」

「そんな邪険にしなくってもいーじゃん。まいいや、んじゃねー」

 一人で笑いながら浅野はササーッといなくなった。しっかりお姉ちゃんにもお辞儀して。

 相変わらずの超マイペース。あたしはため息つきながら、まだ笑ってるお姉ちゃんにまた怒った。


「そういやカオリもアリスって呼ばれてんのよね」

「そーでもないよ。呼んでるのあいつぐらい」

 お姉ちゃんも昔トモダチとかにアリスってあだ名で呼ばれてたらしい。

 今でこそ長身でスタイルグンバツのデキる女って感じだけど、中学の時点で背がグイグイ伸びちゃったあたしと違って、昔のお姉ちゃんはちまっとしててスカートとかゴスっぽいカッコが似合う美少女だった。だから名前よりも敢えてアリスと呼ばれることが多かったんだそうだ。

「けど本名とカンチガイしてるなんて、あの子すごいねー」

 あたしの場合は、雰囲気がアリスって名前に超絶似合わないから変態のナオくんとバカの浅野ぐらいしかそう呼ばないのだった。多分、「アリス(ヒャピーン♪)」って感じよりは「カオリ(ずん)」って感じなんだと思う。……自分でも言っててよくわからんけど。

 要するに、あたしは全然アリスってタマじゃないってだけだ。

 まあ、「有栖川」なんて苗字だか名前だかよくわからん苗字の家に生まれてしまったがために、あたしもお姉ちゃんも、更にはお父さんも、人生において必ず「アリス」と呼ばれる時期を迎える運命にあるのだ。仕方ない。似合うか似合わないかはまた別の話。

 ――アリス。不思議の国に行った少女。

 そう呼ばれている時期があたしたちにとって、少女らしい夢ある時代だったのかもしれない。夢を見ることを許されていた時代。夢の中にいて許される時代。

 なんてことを今思ったりもした。

 ……そしたら現状アリスと呼ばれていないあたしの少女時代はもう終わってしまったんだなー、と思われてなんか悲しくもなった。

 

 

 伊勢丹前から出たバスに乗って、あたしたちはばーちゃんの家に向かう。明治通りをひたすらまっすぐ進むバスのシートは、工事中のガタガタ道路からくる震動でちょっとばかし落ち着かない。

 

 

 

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