第6話

 ぴたり。と、しっとりした何かが肌に貼りつく感覚で目が醒めた。


 瞼が開いたのと同時に顔が引きつった。全身に走る鈍い痛みが、起き上がろうとする意志を邪魔している。


「うぐぅっ!?……。」


 何があったのかを思い起こそうとすると、更に鈍い痛みが脳内を抉りながら這いずり回る。耐えきれずに変なうめき声を上げてしまった。それがまた耳の奥でこだまして、痛みを増幅させる。


 全身を火花が散るような感触に侵され、気が遠くなりそうなのだが。


 その熱にぴたりと張り付く、心地よい水気と冷気。柔らかな綿の感触がまた、ヒリヒリする肌を優しく包み込んでくれる。


 白んだ視界に浮かぶ、金髪の碧緑眼。


「……ブレッド?」


 柔らかな綿の感触が、ピクリと跳ねた。


「……寝てろ。お前は今、深刻なダメージを負ってる。」


 その声は強気だが、くぐもっていて弱々しい。ただでさえ防御力の低い恰好なのに、服も肌も土だらけでボロボロだ。傍目から見ればブレッドの方が怪我が酷いように見える。


「そう言うブレッドの方が……。」


 酷いじゃないか。そう言いかけた所で、水気でひんやりとした人差し指を唇に当てられた。


「アカリ、お前は今……どっちだ?」


「へ?……どっち?」


 何がどっちなのか。膨らんだ瞳孔が、ブレッドの碧緑の瞳に映っていた。


 わけもわからないまま質問を質問で返すと、ブレッドは唇を噛み締めて、そのまま俺の頭に腕を回し抱き寄せる。


 体が、小刻みに震えている。


「いいんだ。お前はアカリ、私が拾った。私が助けた。そうだろ?」


「え?あ、あぁ……。」


 まるで自分に言い聞かせるような、ブレッドはただ事実を確かめるように呟いていた。


 それは間違いのない事だが、なぜだか言葉がわだかまる。俺が頷いたことに納得はすれども、安心はしていない。


 もし俺が肯定しなければどうするつもりだったのか。そうだったらどうしようか。そんな不安が、不安ごと投げかけたブレッドの冷たいきめ細やかな体の感触が、抱きしめられているのは自分なのに、不安がる子供を抱きしめて安心させるようでこそばゆい。


 力強く臆病に跳ねるブレッドの心臓の音が、ずっと聞いていたくなるように心地いい。


「……ずっと、幽霊ゴーストは憎むべきものだと思っていた。」


 突然、ブレッドが切り出した。一緒に跳ねた耳を打つように強い心臓の鼓動が、その戸惑いの大きさを物語っている。


「だけどあいつは……お前が気を失ってから出会った炎の幽霊は、自分が幽霊であることに戸惑っているようだった。あたしは今まで人を襲う幽霊は数えきれないほど見て来たし、倒しても来た。だけど人を助けて……幽霊を襲う幽霊なんて、今まで聞いたこともない。」


 段々と早口になり、僅かにだが声が震えている。


 自分の常識から外れた存在が、理解できない存在が、ブレッドの頭と心をかき乱している。その言いようのない不気味さを堪えきれないのか、不気味な感覚に不安がっているのか。


 いや、そういうことじゃない。


 ブレッドの言いたいことは、たぶんそういうことじゃない。


「あたしはあいつに銃を向けた。幽霊ゴーストを倒していると知りながら、人を襲っているんじゃないと知りながら、あいつが幽霊ゴーストだから銃を向けた。引き金を引いたさ。


 だけどあいつには当たらなかった。銃弾は溶かされたし、手が震えて狙いが外れた。ボコボコに殴られて、あたしは負けた。今までも、なんだかんだ苦戦することはあったよ。だけど倒せなかったことは一度も無かった。躊躇いなんてなかったんだ。


 それで今だ。お前を担いでここまで戻ってきて、あたしはわからなくなった。


 あたしは何に銃を向けた?あいつは幽霊ゴーストだ。だから私は引き金を引いたんだ。なのに、今更になってあいつが、幽霊ゴーストなのか人間なのかわからなくなっちまった。あいつに引き金を引いた瞬間を思い出す度に、避けようともしない弾丸があいつの頬を掠めた時を思い出す度に、あたしは……あの幽霊ゴースト幽霊ゴーストには思えなくなってきやがった!!……。」


 口調はどんどん早くなる。抱きしめられた腕の力が強くなる。触れた肌から熱が引いていき、じんわりと冷ややかな感覚が胸を締め付ける。


 ブレッドの体にある擦り傷や土ぼこりの痕は、きっとその時についたものだろう。少女を庇いながら戦っていた時は、確かに不利だったがここまでになるほどじゃない。身のこなしは軽かった。それに僅かだが、火傷のような跡もある。


 それを見て何も思わないほど、俺だってバカじゃない。記憶はないが、きっと俺がブレッドの足を引っ張っていたのだろう。


 ブレッドのこの傷は俺のものだ。だからブレッドは弱くない。


 ブレッドの気持ちが、戦う理由が、こんなにも掻きまわされている理由は、

 

 俺が、弱いから。


「あたしは、ッ……一体何を撃とうとしていたんだ……ッ。」


 痛々しい傷跡を目の前にして、ブレッドの葛藤に答えも浮かばないような俺じゃ、彼女の底にある何かには届かない。


【あぁ、難しい。何が難しいのかも難しい。そういうもんさ、あたしたち「存在」と「虚無」の関係ってのは。】


 存在リアル虚無ファウストの話の時、祈願祭が行われているほどの存在に対して、彼女は理解を拒むように説明を避けた。


【別に、何もないさ。】


 そんなの嘘だ。何もない人が、戦うべき相手を目の前にしてこんな風になるはずがない。でも俺じゃ、ブレッドが秘密にしたいそれには触れられない。


 俺じゃ、ブレッドを覆う氷の牙城は崩せない。


 この冷え切った体の感触が厚い氷の壁のようで、ずっとこうしていたら凍死してしまいそうだ。


 つい今しがた触れたばかりの俺ですらこうなのに、ずっとこの牙城に閉じこもっていたブレッドは、どれだけの時間を凍えて過ごしたのだろう。


 彼女の心に寄り添うには、過ごした時間があまりにも短い。


「…………ッ。」


 俺は無言だった。彼女の痛みを知りながら、凍えて震えていると知りながら。


 その温度を知りながら何もできないのが、悔しくて、もどかしくて、


 噛み締めた歯が顎を突き破ってしまえるなら、そうしてしまいたい程に、


 彼女の叫びに、ただ黙るしかできなかった。


「……ははっ、弱ってんのかな。らしくない事言っちまった。」


 笑って、誤魔化して、それを何度も繰り返してきたのだろう。


 それで何もなかったような気でいられることが、余計に胸をざわつかせる。


 ブレッドは俺を抱きしめたまま、後ろから倒れ込むように、固いベッドの上にぼすんと体を預けた。


「悪い、このまま貸しといてくれ。今日はやけに冷える。」


 返事をしない俺を抱きしめたまま、やがて規則的な呼吸を安らかに繰り返したブレッド。


 その体が凍えないように、シーツを引っ張って体を預けるしかできない俺は、このまま彼女の傍に居ていいのだろうか。

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