第5話
真っ暗な景色の中に沈みこんだ感覚と、耳元でざわめく風の音とともにいた。乾いた空気、それが喉奥に張り付いてひび割れるようだ。
あるのは強烈な眠気。瞼を閉じれば、そのまま気を失ってしまいそうなほどの倦怠感。
自分に何があったのかは、まるで覚えていない。ただ、小さな子供を庇ったブレッドを助けようと駆け出して、何か熱いものがずっと込み上げていた。
熱い。それこそ身を焦がすような熱さ。まだ胸の辺りにじんわりと残っている。
「これは……なんだ?」
胸の辺りで拳を握る。指に手繰り寄せられた肌のシワに、じっくりとそれが集まってくるのを感じる。
瞼を閉じる感覚を強く持ち、意識を集中させる。
【………………。】
その指先にふわりと、誰かの手が重ねられる。熱く、しかしひんやりと冷たい。心の冷たい人は手が冷たいとか、そういう類いの冷たさ。
いや、これは冷たいのではなく、濡れている。
それはじっとりとしていて、鉄臭い。乾きながらまとわりついてくるその感触が、段々とそれが自分に染み込んでいるような嫌悪感。重ねられた肌の色は、その醜悪さを覆い隠すかのように陽炎を揺らす。
なんて、悲しい色だろう。
「…………。」
瞼を開けて、その揺らぎに心を奪われそうになりながら、もう一度閉じる。炎の揺らぐ音、ごぉごぉと力強いが、まるで大きな獣に追われている子犬が鳴いているような拒絶。呼びかければ鎮まるか?見つめれば安らぐか?
もっと、子犬の気持ちに寄り添わなければ。
炎の音に、耳を澄ます。
【うっ……ううっ……ぐすっ……ぐすっ、ううっ……】
炎の息吹の中に、少女がすすり泣く声が聞こえた。歳は半回りほど下だろうか、声変わりが始まりだしたぐらいの、まだ子供っぽさが目立つ声だ。
嗚咽を含み、涙を流すほどの体験をしたのだろうか。徐々に目に見えてきた彼女は、薄暗い埃の立つ納屋の中で、小さな腕で胸を抱きしめながら震えていた。
怯えている、すぐにそうだとわかった。
息を殺さなければ見つかってしまう。だが悲しみで喉が上ずってしまう。涙を流さずにはいられない。大切なものを失ったこの気持ちを、目の前で奪われたこの気持ちを、すぐに自分もそうなるのだと言うこの気持ちを、何という言葉にすれば受け入れられるのかかわからない。
ゆっくり、ゆっくりとそれは近づいてくる。いっそ勢いよく来てくれればいいのに、震える私を嘲笑うかのように、ゆっくり、ゆっくり迫ってくる。
ぱぁん!と、安易な作りの
【いたぁ!お前を……お前を殺せばみんなが……。】
男が一人、イカれた目をギラギラさせ、携えた斧の柄を撫でながらこちらに近づいてくる。汗が酷く、縮れた髭や不ぞろいに伸びた髪の毛などはあからさまに怪しさを放っており、そんな見るのも毒な男に命を狙われるなど、恐怖以外の何物でもない。
お前を殺せばみんなが。その言葉の意味をよく理解していた少女には、それが余計に気狂いの様相に見えて、鳴こうが叫ぼうがダメだと喉を締め付けられるような圧迫感に苛まれる。
【お前を、お前を殺して、殺せばみんなあいつに、あいつに殺されずに済むんだぁ……。】
気狂いは、その瞳に光りを失っていた。彼もまた、恐怖に怯える子犬であり、自分の行いがどうなどと知った事では無い。自分が助かれば、助かるのが第一である。
【死ねぇ……俺達のために死んでくれぇぇぇぇ!!】
男は踏み込み、斧の頭が天井に当たるほど大きく真っ直ぐに振り上げ、刃先に当たった日差しがギラリと少女の眉間目がけて反射した。
ぐちゃり―。
身体から切り離された肉片が床に落ちた。包まれるようだった血走った白がぎょろりと、平たく伸びた血潮の後を見つめる。
ポタポタと、滴り落ちる血の一滴。
その一部始終を、止まりそうな心臓を押さえつけながら息を飲んだ少女が、瞬きも忘れて大きく開いた眼を乾かしていた。
【はぁ……はぁ……ふあっ。】
大きく掲げられていた斧が支えを失い、ごとりと床に刺さる。やがてただの肉塊に変わった膝が笑うと、力なく崩れ落ち、辺り一面を真っ赤に染め上げる。
少女の瞳から見ると、小汚いドリップまみれの肉塊の向こうには、痩せこけた婦人が血塗れの
【ダメよ……その娘を殺したらうちの人が……うちの人があいつに殺される……。】
人質に取られた一家の身代わりを殺す男と、愛する夫の身代わりを守る女。それは当たり前の日常を奪われた、当たり前の感情を刃に替えて壊れていく姿。
彼らが初めてじゃない。もう何人もこんなことを繰り返して、殺して、殺しては壊れ、壊れては嘆き、悲しみ、正当化し、また殺す。私の目の前で、何度も何度も自分を痛めつける。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、痛めつける。
殺す。
【さぁ、早くこっちへ……こっちへ来なさい。いい子だから、ねぇお願い……お願いよ私死にたくないの!!もう誰も殺したくないの!!もう嫌よこんなの!!どうして!?どうしてこんな……こんなことに……。】
婦人の慟哭に体がすくむ。耳元で何かが「死ね……死ね……」と
【さぁ来なさい。早く……早くして……来なさいって言ってるでしょ!!早くあなたを連れて行かないと主人が死ぬのよ!!早く、早くいかないと!!……暴れるなぁ、暴れるなって言ってるでしょ!その腕ちょん切るよ!!痛いのは嫌でしょ!ほら、さっさと歩きなさい!!】
力の抜けた腕が引っ張られる。
私の体を引きずりながら激昂する婦人。彼女の必死さが恐怖に変わる頃には、私はどうなってもいいのか、自分が死ぬこともわかっていないのか、などという机上の憂慮は、もうどうでもよくなっていた。ただ死ぬことだけがどうにも怖くて、彼女の腕を振り払おうと必死だった。
鉈で腕を切り落としてくれればよかった。その方が、体が軽くなって速く走れるようになるかもしれない。擦りむき、むくみだらけの骨ばった足でも、彼女から逃げれるぐらいにはなったかもしれない。
そんなに動くのが嫌なら、いっそ殺してくれればいいのに。
そのまま引きずって行けば楽なのに。
私もこんなに泣き叫ばなくて済むのに。
何度も何度も殺戮劇を繰り返すうちに、私の順番を心待ちにするようになった。
ただ眺めるだけは、心臓に悪い。
転がった生気を失った首が、今にも飛びついてきそうで怖い。
その鋭い刃を尖らせて噛みついてきそうで怖い。
それが今まで生きていて、笑っていたかと思うと怖い。
何度も何度も泣き叫ぶ私を、婦人がとち狂ったように目をギラつかせて引きずる。
やがて、目的地に着くと放り投げられた。
また殺戮劇が始まる。
【さぁ連れて来たよ!これで……早くあの人を返しておくれよ!!】
夫人は懇願する。酷い顔色の男に、苔が連なったような気色の悪い髪色から腐敗臭のする彼に。
私の目の前で、村のみんなに父を殺させた男が、
ぐにゃりと、笑った。
【あ、はい。ご苦労様です。】
男の後ろで、腕を後ろに回され縄で拘束されていた男が解き放たれた。
力なく、ふらふらと、顔色は酷いが、それでも真っ直ぐ婦人へと向かっていく。
一歩、一歩と進んで、覆いかぶさるように婦人の元にたどり着いて、
力一杯、抱きしめる。
【あんた!!無事で……無事でよかった!!本当に無事で!!】
婦人は涙を流して喜んでいた。苦しみから解放されたような安らぎの瞬間。耐え忍んだ苦しみ、辛さ、痛み、血で濡れた頬を伝う涙。
涙を流す瞳、眉間にしわが寄る瞬間。
【あ、あんた……そんなに強く抱きしめないで……あんた、ねぇあんた?ちょっと……そんな強く抱きしめ……あんた?ねぇあん……いた……い……いたい、いたいいたい痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!?】
瞳孔が開く。体が震える。彼女の叫びがそのまま痛みとなって伝わってくる。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!
【はな……離して!!あぁいた……ぁぁぁいだあっ!!?いだああああっああっあっあっあっ、あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”っ”っ”!!】
ごきごきごきっ!!ボギッ!!メキッメキッ!!
【ぎぃぃゃああああああっあっあっああああああああああっっ!!】
血飛沫が、口内から噴き上がった。締め付けから逃れようとピンと伸びた腕が、強張って、垂れ下がる。
開ききった顎から、血を含んだ舌が垂れ下がった。
もう何度見ただろうか。私を捕まえ、希望を見て、手に入れ、安堵し、裏切られ、戸惑い、もがき、苦しみ、殺される。その繰り返し。その結末。その最後。
生き残るのは、生きているのはいつも、私。
【……おや?もう慣れましたか?お決まりの展開はもう飽きましたか?そこで黙って、横たわり、赦された者が罪を償い、裏切られ、醜くあがき、溺れる。もういいですか?もうお腹いっぱいですか?】
彼は笑う。いやしく笑う。人のおもちゃを奪い取って遊ぶ、飽きたらおもちゃを捨ててまた奪う、いやらしい子供のように笑う。
【ほら、またあなたのせいで死にましたよ?いらない犠牲が増えました。早くしてくれないと困るんですよ。私、忙しいので。】
早くする?何を?私が死ねばいいの?次は私の番?私が私の胸を刺せばいい?
自問自答しながら、眩暈のする世界で懐に隠したナイフを突き立てる。それを真っ直ぐ、先端を真っ直ぐ、私に向かって突き立てる!
【う”う”う”う”う”っ”っ”!!】
嗚咽が引っかかる喉を震わせて、鋭利なナイフを突き立てる!
【あ。―】
ナイフは……刺さらない。
見えない何かが、私の体の自由を奪う。
【ダメですよ?死んで逃げようなんて。あなたが死んだらこれを殺した意味がないじゃないですか。せっかく死んでもらったのに。命は大事にしないとぉ。】
いつの間にか横たわっていた、抱き合った夫婦の顔をぐりぐりと踏みつぶしながら、憎くて睨みつける私の眼差しを、私の涙を嘲笑う。
【ほら、憎いでしょう?殺したいでしょう?そのナイフはあなたじゃない!わたしに向けないと!悪い人は殺さないと!じゃないとみんながぁ!!みんながしんじゃうぅぅぅ!!】
男は笑う。私の憎しみを嘲笑う。
【この村のみんなが!!私に死んで欲しくてたまらない!!殺したい!!でも殺せない!!弱いから!!近づけないから!!だけどあなたは!こんなに、こんなに近くにいるんですよぉ!?こんなに近くにいるのに、憎くて憎くてたまらないのにぃぃ!!?どぉおおして殺そうとしなぃぃ!?殺意を止めるぅ!?やめちゃうんですかぁ!!?】
男は笑う。私の正義を嘲笑う。
人は殺してはいけない。そんなちっぽけな正義を守り続ける私を嘲笑う。
【はぁ……これだけ言葉を尽くしてもあなたは目覚めない。なんででしょうねぇ……本当は殺したくて殺したくてたまらないはずなのに。よっぽど育ちがいいんですかねぇ……。】
私は彼に刃を向けない。涙を流し、怒りを堪え、歯を喰いしばるのが私の仕返し。
ありったけの感情を全部眼差しにこめて、睨みつけて泣くのが私の仕返し。
【はぁ……もう諦めましょう。私も人を殺すのは趣味じゃない。もうやめましょう。これ以上は、時間の無駄です。引き揚げましょう。】
男は溜め息を吐いて、諦め文句を呟きながら落胆していた。
終わるのか。終わったとは思えない。でも、誰も死なずに済むんだ。もう、あんな酷い瞬間を見ずに済む。
疲れ切った心の緊張が、僅かに緩んだ。
【あ、そうそう。あなたのお父さんとお母さんですがね、あなたの兄弟を殺しましたよ。もう死んでるんですけどね。あ、これ、紐でくくっておきました。いやぁ、やっぱり家族は一緒じゃないと寂しいですもんね。はい。】
首から上が抜け落ちた死体が二つ、何かを繋ぎ合わせた紐を互いに持ちながら歩いてきた。歩いてきた死体の首には、目の前で殺された父の首のネックレスと、村の皆に殺された母の首のネックレス。
二人は、紐でくくった我が子の首をぶら下げながら、無理やり口角を吊り上げている。
「あ……あっあぁ……あっあっあっあっあっあっああああああああっ!!?」
声が言葉にならない。息が苦しい。胸が高鳴る。
二人は、弟や妹の首をぶら下げたネックレスを私の首にかけ、首の後ろで括る。
【あ、よく似あってますねぇ。本当に、家族の愛って美しい!!】
冷たい。みんな。痛そうな、痛そうに泣き叫んで、涙、涙の痕が頬に。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いって!!叫んで!!泣いて!!
【ああっ……ああ、うわああああああああああああああっっ!!】
熱い!熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!
燃える!体が!痛くて、熱くて、心臓が、心臓が止まらない!!
痛い!痛みが燃える!熱い痛みが!燃えて熱い!!
【「アアアアアアアアアアアアアアア】あああああああっっ!!」
ばさり、とふんわりとした何かが翻った。
「うわあああああああああああっっ!?……って、ここは?」
星の明かりも乏しい深夜、背筋には異様な寒気と、体中にじっとりとした脂汗。
「これは……一体なん……だ……っ。」
記憶に焼け付いた慟哭を思い返すが、すぐに激しい頭痛と眠気に襲われる。
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