第7話
「きゃああああああああっっ!!」
穏やかな明朝の静寂は、突如として穿たれた。
「何だ!?」
まだ傷の癒えていないブレッドが反射的に飛び起きると、昨日フィアにやられた鳩尾が鈍く痛み出す。
「ぐうっ……。」
明らかに戦える状態ではなかった。しかし、悲鳴を放ってはおけない。この街は今、明らかな災厄に晒されている。
「ちいっ……だらしねぇぞ……ッ!!」
疲労で張った太ももを引っぱたいて己を鼓舞し、まだ目覚めないアカリを置き去りにして窓から外へ飛び出した。ガンホルダーに愛銃を提げ、悲鳴のした方向へ向かう。
しばらくして、街娘が見えない何かに対峙していた。大きさは
「誰かぁっ……誰か来てえっ!!」
籠にリンガのパイを入れているという事は朝の配達中だろうか。和やかな日常を平気で奪う、それが
【あなた達はなぜ、
ふいに、あの言葉が脳裏に浮かんだ。
「……くそっ!!」
雑念を首を振って追い払い、愛銃を向ける。力は弱いため姿こそ見えにくいが、どこにいるのかは空気で判る。幽霊特有の、背筋をなぞるような冷たい感覚。
白銀の引き金を引こうとしたその時だった。何かに体を横殴りにされ、そのままよろめいた体は建物の壁に向かって叩きつけられた。
「ぐはあっ!!」
内臓が総じて左に寄っていった感覚に、唐突な吐き気を催した。それを何とか堪えるも、蓄積された体のダメージがぶり返したせいでまともに動けない。
建物の角から何かにぶつかった。そのはずだが姿は見えない。姿ではなく、朝方のまだ日も出ていないような薄暗さの中で、陽炎が揺れている。
「ご……
それなりに力は強い。だが幽霊は基本的に生身には触れないはずだ。それに勢いよく体当たりされたとなれば、もうブレッドの常識では理解が追いつかない。
「昨日のフィアといいこいつといい……何がどうなってやがる……。」
街娘を襲っていた無害級の幽霊は、その幽霊の力の強さに恐れ
(駄目だ……なんとか応援が来るまで堪えないと……ッ!!)
悲鳴は街中に響いている。ならばいずれ、ブレッドの頼れる仲間たちが駆けつけてくれるだろう。だが時間が早すぎる。普段の幽霊ならばこんな時間には活動したりはしない。日中か、明かりの多い夜のどちらかだ。
「どうなってやがるんだ本当に。こんなのが続いたら体がいくつあっても足りやしない……。」
嫌味を吐き捨てた。そうでもしなければ立ち上がれなくなる程のダメージがある。それでも今ここで立たなければ、あの街娘は幽霊に乗っ取られてしまう。
【キゾクノニオイ……コロス……コロス……。】
体に力を籠めたその時、幽霊がふとそんなことを言った。
(貴族?……こいつ、貴族に何か恨みでもあるのか?)
不自然だった。自然発生した幽霊ならばそもそも、言葉を発することすらままならない。だがこの幽霊は間違いなく、人語で、貴族と言った。ならばこれは元人間で、死にきれずに幽霊になった可能性が高い。
「まさか……こいつらに心があるとでも?」
幽霊は人を襲う化け物。その程度の認識があればこの世界で生きていくのには充分だった。だが今まで対峙してきた幽霊とは違う。強さや頻度の問題じゃない。
「何かがおかしい。何が……何が変わろうとしてるんだ?」
ようやく立ち上がり、その幽霊と対峙する。とにかくこちらに余裕は無い。先手必勝、ブレッドは即座に二発の銃声を生み出した。
【コロス……コロス……。】
銃弾は真っ直ぐ幽霊に向かっていく。だが銃弾は幽霊の体を貫通せず、見えない何かに阻まれながら螺旋状の回転を続けていた。
「なっ……銃弾が……!!」
今まで幾多の幽霊を貫いてきた弾丸が届かない。
未知の出来事に心を奪われた刹那に油断が生まれた。激しい突風が全身を襲い、立っているのがやっとな程の激しさに視界が霞む。
幽霊の周りに風が集まり、十字を描いて耳障りな掠れ音を響かせる。
あれは受けたらまずい。そう思った時には既に遅く、舗装された道を削りながら十字の風刃がブレッドの腹部を強打する。
受け身は間に合わなかった。突風と共に再び建物に打ち付けられ、今度ばかりは立ち上がる事もできない。
「があああっ!!」
消化器官がうねる。一時的に呼吸を封じられ、反射的に収縮した内臓がそのままダメージを増加させる。
眩暈、動悸、吐き気、そして全身の痙攣。全身から血の気が失せ、ただ次の一撃に恐怖する。
それ即ち、死―。
(やべぇ……今度ばっかりは……。)
指先にすら力が入らない。本能的に指先から離れなかった愛銃の温度も感じられない。こちらの攻撃は通じない。応援が来る気配はまだ無い。
それならせめて街娘だけでも。消えそうな意識の狭間でそう思ったが、幽霊は街娘に一切の興味を示さず、真っ直ぐこちらに向かってくる。
禍々しい風の刃が鋭い耳障りな音を立てながら。
【コロス……コロス……コロシ……コロシタイ……】
つくづく気持ち悪い奴だ。どうせ死ぬ前もロクな奴ではなかったのだろう。
それに殺される自分も、そう変わりはしないが。
ゆっくりと瞼を閉じ、唇を噛み締めた。
「【エア・ブラスト】!!」
その時だった。張りのある、しっかりとした威厳のある女性の声が響いた。先程の幽霊が生み出した突風のような一撃が、今度は幽霊を襲う。
耳障りな鋭い音が消えうせ、変わりにそよ風のような優しい感触がまとわりつく。
「ブレッド!!まだ死なないで!!」
その声に、はっとした。今まさに体の痛みに連れていかれそうになっていた所だった。意識を覚醒させて声の方向を見るや、そこには前立てに金をあしらったブラウスに白いロングスカートをたなびかせた、凛麗な顔立ちの淑女が魔方陣を展開していた。
「失せなさい
魔方陣が黄緑に輝くと、再び突風が吹き荒れる。実体の無い幽霊の体を押し戻そうと吹き付ける風に、心なしか幽霊の表情が険しくなる。
だが幽霊に魔法は効かない。体術や普通の物理攻撃が通じないように、奴らに対する有効な攻撃手段とはなり得ないのだ。
「駄目だ……エルーナ、逃げろ……。」
動かない体がもどかしい。振り絞った掠れ声が彼女に届くはずもなく、風を操る幽霊は狙いを定める。
【エル……ウナ……ッ!!】
幽霊が呼んだその名に、二人がはっとした。
「こいつ、今……!!」
「どうして私の名前を幽霊が……!?」
巻き上がる風が激しく渦を巻く。耳障りな擦れ音と共に塵が巻き上げられ肌に打ちつけられる。
「くっ、【エア・ブラスト】!!」
エルーナが発した風の一撃は、螺旋を描きながら風の幽霊に猛進する。しかし風の幽霊が纏った竜巻に阻まれ霧散すると、ケタケタと嫌味な笑い声が響いた。
【エル……ウナ……コロス……コロス……コロス……。】
ブレッドの脳裏に、最悪の情景が浮かんだ。脊髄から走る電流が無理やり体を持ち上げようとするが、ぴくりともしない。
「ッ……あああああああああああっっ!!」
咆哮一閃。だが動かぬ体は虚しく、鈍い音を響かせながら吹き荒れる竜巻が、額に脂汗を滲ませながらも凛として立ち向かう彼女の、色の白い透き通った首を目掛けて―、
【死ィィィッ!!】
その直前だった。風の幽霊の体が前のめりに曲がり、吹き飛ばされたのは。
【ガアアアアアアッ!!】
質量の無い身体で受け身を取ると、直前まで自分が居た場所には二つの人影。一つはしなやかな体つきに似合わないどっしりとした踏み込みに、拳が一つ力強く突き出されており、その隣では高々と上げられた脚の隆々とした筋肉が、その威力を語る。
不意の一撃に怯んだか、エルーナを狙わんとしていた竜巻は霧散していた。
張りつめた緊張の糸は一気に緩む。膝の力が抜けたエルーナは、無意識のうちに膝を畳んでぺたんとその場にへたり込んでしまった。
その様を見ていた、拳を幽霊に突き出していた黒髪と眼鏡をかけた青年がエルーナの背に腕を回し、受け止める。
「エルーナ様、お怪我は?」
「
大丈夫とは言いながらも、その額には細々とした汗がキラキラと反射する程度にはある。自分が圧倒的に不利な状況で、焦りや不安が無いはずもなかった。
「私よりブレッドを。幽霊の一撃を派手に受けているわ。」
「幽霊の一撃?ではのっとられた者が?」
「いいえ、あれは風を操って自ら攻撃してくるわ。ブレッドはそれにやられたのよ。」
「あの竜巻はそういう事ですか……情報感謝します。ブレッドは我々に任せて、早く離脱を。」
「いいえ、あなた達二人で当たりなさい。ブレッドは私が。」
「承知しました。では、後はお任せください。」
黒髪の青年の言葉に頷くと、エルーナはすぐさま立ち上がりブレッドに駆け寄る。
【エル……ウナ……ァァ……。】
しかしそれを見過ごすはずもなく、風の幽霊は再び小規模の竜巻を生み出し、エルーナを見つめながら不気味に微笑む。
だがそんな幽霊の体を、鋭い軌道を描いて生み出された一撃が一蹴する。
【グウウアァァッ!!?】
幽霊の体が僅かに揺らいだ。その隙を見逃さず、頭上を目がけて飛び上がる。
「オラオラオラッ!!よそ見してんじゃねーよクソ野郎!!」
再び鋭い軌道を描いた回転蹴り。幽霊の頭を踏みつけた勢いで飛び上がり、今度は逆向きに回転しひねりながら、垂直に繰り出された踵落としが幽霊の頭部に沈み込む。
衝撃に跳ね上がる幽霊の体。その反動に逆らう事無く身を翻し着地するのは、朝焼けには似合わない緋色の髪を尖らせ快活な笑みを浮かべる青年。
「アトス!!油断はするな!ブレッドがやられてる!」
「はいはい知ってるよ。ま、俺らと嬢ちゃんじゃ格が違い過ぎて話にならねーがな。」
全身を黒い装束に包み、祈りの輪が十字架に提げられた紋章を背に背負うのは熟練者の資格。
幽霊退治を専門に扱う、行き場を失った存在を無に還す使命を背負った、祓師。その中でも腕利きの者だけが、この紋章を背中に背負う事ができる。それは魂との契り。苦、無く、ただ在るべき場所に還すために。
「しっかし、本当にあのブレッドがやられたのか?まるで手ごたえねーけど。」
アトスと呼ばれた緋色髪の青年は懐疑的だった。ブレッドの腕を知っているからこそ、そのブレッドが戦闘不能にまで追いやられた敵が、この程度だとは思えない。
「アトス!!足元だ!!」
僅かに思考に集中力を振った刹那だった。叫び声に反応して咄嗟に後ろへ向かって宙返りをすると、直後に元居た場所から竜巻が荒れ狂った。
思わず、口笛を吹いてしまう。
「ふひゅ~う。ま、油断なんてしねーけど。」
「何を言っているアトス。その裾で言い訳など許さんぞ。」
「あん?裾?」
言われて脚を見ると、先程蹴りを入れた右足の裾がビリビリに破られていて、ふくらはぎの一部が露出していた。
「かーっ、こまけぇなぁジレンはぁ!!こんなんノーダメだって!」
「油断するなと言ったんだ。次は無いぞ?」
「あー……へいへいっと。」
アトスは思った。ろくでもない会話に余裕を見せつけていくのがいつものスタイルだが、今日は相方に余裕が無い。たぶん次ふざけると、さっき幽霊にかました拳骨が自分に来るのだろうと。
「エルーナ嬢が生きてられたのは何で?」
「風魔法で相殺できる。やはりダメージは無いらしいがな。」
「なるほー。そりゃいいわ。」
アトスは思った。相棒の風当たりが何となく強い気がするのは、きっと風魔法で防護壁を張っているからなのだと。
それならばと、アトス自身も自慢の両足に風魔法を纏う。
睨み合う幽霊が両側に産んだ竜巻を、睨み返しながら。
「じゃ、ぶっ飛ばすか。」
「援護する。」
未知の敵を相手に、頼もしい肩を並べ合う。
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