第2話

 頭の中を整理すると、まず真っ先に出てくるのが「気づいたら見たことも無い場所に突然現れた」という、わけのわからない言い訳だ。


 生まれ育ったのではない。本能が知らないと言っている。そんな土地に現れた直後にあの業火、この世界の自分に対する扱いは正気の沙汰ではない。


 この世界が、などというのも、呆然と炎に巻かれた自分と阿鼻叫喚しながら炎に逃げ惑っていた者達の身なりを比べれば一目瞭然だろう。


 自分は、この世界の人間ではない。そして、彼らと同じ程度の立場でありながら、彼らよりもいい生活をしていた。ということぐらいか。


 そして今は、全身がどこかに沈んでいく感覚と意識を共にしている。このままどこかへ落ちれば、どこかにたどり着けるだろうか。真っ暗で何も見えないどころか、瞼の向こうに光すら感じられない。


 心地よい眠りの中に、身を預けている。


【…………う、さん…………あ、さん…………。】


 真っ暗な世界に声が響いた。歳は幾つか下、まだ声変わりのしていない頭に響く甘い声。それでもどこか大人っぽい印象があるのは、彼女に兄弟がいるからだろうか。


 その声は絶望していた。失ったものを呼び続けている。失ったと受け入れられずにそれをずっと呼び続けている。呼び続ければ戻ってくると思っている。そうはならない。それはもう失ってしまったから。


 熱い。体の底から湧き上がってくる熱が、張り巡らされた血管の一つ一つを焼き尽くしていく。


【ころ……して……もう殺して……いやぁ……こんなのいやぁっ…………。】


 真っ暗な世界に映し出されたそれと、痛みで震える全身が絞り出した恐怖。拘束され身動きの取れない体では、ただただぶら下がることしかできない。


 目の前で飛び交う血飛沫を、優しかった眼が引きつりながら歪んでいく現実を、昨日まで一緒に歩いていた肉塊を、愛するものを憎んでいく闇を。


 奪われても奪われても、空っぽになった入れ物の淀みさえも吸われていく虚しさ。


 その全てを埋めていくのは、熱く、熱く染まっていく真紅の憎悪。


【ころして……殺してやる……殺す……殺す殺すころすころスコロスコロスッ!!】


 叫ぶたびに揺れる鎖の音が、ガタガタと歪んでいく拘束板が、段々と熱を帯びてその身を焼き尽くしていく。


 取り戻せないなら、全部失くしてやる。何一つ残らないように、全て焼き尽くしてやる。


【ウワアアアアアアアアアアアッッ!!】


 傷んだ長い黒髪が真紅に染まり、復讐に燃える炎を孕んでいく。轟々と揺れるそれは、殺し合い奪い合った人々の血潮にも思える。


 ……誰かが目の前にいる。両腕を大きく掲げたと思えば、その手を顔に押し当てながら太い指で、全体を舐め回すように這わせている。


 その表情は、まるで素肌を晒した恋人を見つめるかのように恍惚していた。


「……美しい。」


 その一言が耳に響いた瞬間に、大きな爆発とともに噴炎ふんえんが彼を飲み込んだ。




………………………。





 瞼を開く感覚の跡に続いたのは、見知らぬ天上の景色だった。


 絢爛豪華、と言えば聞こえはいいが、金細工や水墨画の下地にそのまま彫刻を施したかのようなそれは、実際に目にしてみるとやかましいだけの装飾だ。天井に危なっかしく吊るされた金のランプは、役目を忘れてぶらぶらと宙に揺れている。


 上体を起こすと、ふわりと軽い羽毛布団が翻った。部屋の中には真っ白な洋服棚、ミニテーブル、柔らかそうなソファ、どれも高級品のように見えるが、あまり使われていないのか埃を被っているように見える。


 ここはどこなのだろうか。うやむやな思考のままベッドから出ようとした。


 刹那、脳裏に走る鈍い痛み。


「いっつ!!」


 痛みの最中に、おおよそ自分のものでは無い映像が濁流のように脳裏を巡る。その量の多さだけでも痛みを伴うが、炎やら煤やら煙やらで埋め尽くされたそれに眩暈すら覚える。


 なんなんだこれは……。疑問符を浮かべても、誰かが答えてくれるわけではない。わかっているのは、身体の底から妙に熱いということだけだ。


「……あの炎、何だったんだ?」


 脳裏に浮かんだ、炎の化身。それがずっと目に焼き付いている。


 その時不意に、扉の開く音がした。


「……なんだ、目ェ覚めたのか。」


 扉の傍に立っていたのは、一目でわかる美人だった。金色の少し縮れた髪を後ろに纏めた、気風の強い眼差しの瞳は碧緑。しかし小顔で、鼻筋も通っている。体の線は細いがメリハリがあり、それなのに朱色のバンドを胸に巻いて革のホットパンツを履いているだけと、肩もへそも太ももまでも露出している軽装は、目のやり場に困る。


「怪我がないみたいだから一応聞いておくが、化け物かお前?」


 美人は威圧的な態度ではあるが、一応の心配はしてくれている様子だ。


 しかし言われてみれば、あれだけの炎に巻かれたはずなのに外傷が見当たらない。火傷あとは愚か、転んで擦りむいた跡すら無い。


 どうだろう、と返答に困っていると、埃を被ったテーブルの上に水の入ったグラスを二つ置くと、彼女はベッドの隣に寄り添うようにして腰を下ろす。


 そして、ベタベタと腰や胸に手を押し当ててきた。


「……何?」


「……お前-」


何故だか、背筋からヒンヤリとしたものが込み上げてくる。懐疑的な彼女の眼差しを、不安になりながら見つめていた。


「-意外と鍛えてるな。」


「…………。」


 何か隠し事があるのでもないのに、無駄に心配して損をした。


「名前は?」


「名前?あぁ、えっと……。」


 そう言われて、なぜ名乗ろうなどと思ったのか。名前を聞かれて名乗るのは当たり前だと、身体が憶えていたからだろうか。


 それなら、身体が名前を憶えていてくれてもいいと思ったが……。


「……わからない。」


「はぁ?」


「わからないんだ。俺はなんでここに……いやそもそも、なんで炎に巻かれていたんだ!?ここはどこだ!?あんたは誰なんだ!?」


 考えれば考えるほど、動揺で心が黒く染まっていく。それに飲み込まれまいと必死にあがくが、どれも無駄に等しく、求める物には掠りもしない。


 どうしようもない不安に駆られ、縋るように彼女に詰め寄ってしまう。


 その直後に、顔面に強烈な衝撃が走った。勢いそのままに押し倒された体が、ぼふっとベッドの上に沈み込む。


「ウゼェ。」


 額に会心の鉄拳が撃ち込まれた。じんわりと広がる鈍痛が、パニックに陥った思考をせき止めてくれる。


「面倒くさ……なんかないのかそれっぽいのは?呼び名になればなんでもいい。」


「呼び名……。」


 彼女の飽き気味な態度に必死になりながらも、どれだけ頭を働かせてもそれらしいものは出てこない。


 浮かんだのは、まるで津波のように押し寄せてくる炎の息吹と、それが赤々と闇を飲み込む光景。それは確かに戦慄させ、人々を恐怖の底へと陥れる。


 だがその無情にも思える熱さの中に、どことなく違う温度の箇所がある。それはまるで、誰かに抱きしめてもらっているような安らぎのある温もり。蝋燭の頭で揺らぐ、博愛の厚情。


「アカリ…………。」


 脳裏に浮かんだその言葉は、荒れ狂っていた内なる炎を安らかな温もりへと変えてくれる。


 少年は、それを名前にしようと決めた。


「サザナミ……アカリ……。」


「アカリ?……ふーん……。」


 名前を伝えると、金髪の少女は怪しげに目を細めてじっと見つめる。


「……雌犬みたいな名前だ。」


 見つめて数分、ようやく出てきた返しがこれだ。


「め、雌犬って……。」


 彼女は、見た目通りのワイルドな性格なのか。言葉遣いも荒々しいし、何よりすぐに手が出るところや威圧的な態度も、女性というよりかは威張りくさったオジサンに近い。


「ふん。まぁいい。……あたしはブレッド。ブレッド=スターチアだ。」


 金髪の彼女、もといブレッドは不機嫌そうに眉をひそめている。


「……なんだ?」


「あ、いや……お前、寒くないのか?」


 ブレッドの癪にずっと触っていたのは、アカリの視線がずっと自分の体を撫でまわしているからであった。


 しかしそれもそのはず。ベッドで眠っていたとはいえ、アカリも肌着を身に着けているだけとはいえ質のいい綿で織られた縫い目の細かいもののため、風を通しにくく非常に温かい。袖も長く腕も覆ってくれるため、まだ残暑が仄かに感じられる今の季節ならそう苦にはならない。


 だがブレッドの格好は話が別だ。首回りも肩も腹ももろ出しで、おまけに太ももも半分までしか隠れてない。暑がりというには少々過激な格好だ。目のやり場に困るのも仕方がない。


「……目覚めて早々、盛ってんのか?」


 ブレッドのじっとりとした冷たい視線が、アカリの良心にぐさりと刺さる。


「さかっ……そんなんじゃない!!」


「はいはい、野郎がヤる事しか考えてねぇのは知ってんだよ。そんなにしたきゃ襲ってみるか?」


 下から程よく肉づいた胸を持ち上げて、試すような笑みを浮かべるブレッドはアカリを誘惑する。


 思わず視線が行ってしまうが、どうにも見下されている感覚がある。


「だから違うって!!ただ寒そうな格好してるから大丈夫なのかな?と……。」


「あーはいはい、そういうことにしといてやるよ。童貞はママのおっぱいでも吸ってな。」


「こ……こいつっ……。」


 アカリを軽くあしらって、ブレッドは楽し気にケタケタと笑って見せる。いいようにやられたアカリは気が気でないが、仕返しする気胆もない。イラつきは行き場を失くして、噛み締める他にない。


「くくっ。まぁ、冗談はこれぐらいでいいだろう。……あたしが薄着な理由は、お前のせいだよ。」


「……俺のせい?」


「この部屋は今、外よりも少し暑い。だが何かしら、部屋を暖めるようなものが置いてあるわけでもなく、ましてや火の魔法も機能していない。だが……。」


 ブレッドはそう言いながら、アカリの袖を捲り上げた。


「えっ……。」


 そして目に飛び込んできた、自分の腕の状態に思わず感嘆を漏らしてしまう。


「なんだこれ……腕が、燃えてる?」


「この布はただの布じゃない。体内に溜まり過ぎた魔力を抑える働きもある。だがお前の腕は常に、僅かな炎を纏い続けている。つまりこれは、魔力じゃない別の力が働いているわけだ。」


 皮膚が、うっすらと燃えている。何やらブレッドが解説してくれているが、一言も頭の中に入ってこない。


「うわああああああああっ!!?」


 思考がパニックに陥るまでに、そう時間はかからなかった。反射的に跳ねた体が仰け反って、バランスを崩したまま後ろに倒れ込む。


 その体を、細身だがしっかりとした質感の腕が支えた。


「落ち着け。ほら、あたしの腕は燃えてない。お前が力をある程度制御しているからだ。それはお前を護るための膜のようなものだ。今すぐ何かに燃え移って大火事になるわけじゃない。」


 されるがまま体を預けると、そのままゆっくりと身体を起こされながら抱き寄せられる。血の気の引いた冷たい頬にむにゅっとした柔らかな感触と程よい熱が伝わり、段々と心を落ち着けてくれる。


「俺を護るための……膜?」


「そうだ。お前が何者なのかは知らない。だが、お前のそれは魔法じゃなければ魔術でもない。……あたしが考えていることが正しければ、お前はもう普通の人間じゃない。」


「普通の人間……じゃない?」


 ブレッドの腕の中で、焦る心が心臓を跳ねさせる。さっきは半ば遊んでいるようだったブレッドも、決して冗談を言っている訳ではないのは、彼女が醸し出すピリピリと肌に伝わる空気が物語っていた。


「お前……本当に何者なんだ?」


 


 

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