GOHST~君ヲ喰ラウ~

喘息患者

第1話

 パチパチと繊維の弾ける音がやかましく合唱する乾燥地帯。痩せこけた女とその子供が抱き合いながら、橙色に昇る龍が吠える姿を見上げていた。


 渦を巻く姿には、例え己の身でなくとも慄いてしまう。阿鼻叫喚する人々は、汚れた着物を硝煙で燻されながらも、その日々過ぎるだけの瞬間を走って逃げ延びようとしているのだからまだ勇気がある。


 とぐろを巻き、逃げ場を失ったものが龍の中に取り残されようと、知った事では無い。


 取り残されたものなどは、もはや夢を見る事すら許されない。


「うわあああああああっっ!!」


 悲鳴が上がった。誰かが龍の体に触れたのだ。汚れ乾いた布など一瞬で灰となり、焦げた匂いが漂ったかと思えばどさりと横倒しになった黒ダルマが一つ転がる。


 その様を、まるで絵の具を零したような、この無機質な場に似つかわしくない恰好の少年が見つめていた。


「なんだよこれ……なんなんだよこれは!!」


 寝て起きればこの景色。悪い夢であれば醒めて欲しい。しかし例え夢であろうと、この熱風が押し寄せる耐えがたき焦燥感はいただけない。逃げようと周りを見渡しても、あるのはとぐろを巻いた炎のみ。


 ぱちんと、何かが大きな音を立てて弾けた。火花が飛び散った先にある少年の柔く瑞々しい肌は、まるで現実のように赤色を滲ませる。


「あっつ!!ちくしょう……どこにも逃げ場がない!!」


 焦り、うなされ、汗が滴り落ちていく。こんなわけもわからない状況で、そう簡単に死んでたまるか。意志だけが先行して、これっぽちも妙案など思いつかない。


「誰か!!誰かいないのか!!?」


 助けを呼んだ。しかし助けるものなどいない。そんな暇があるならさっさと逃げている。平和ボケした世界になれた彼では、そんなこともわからない。


 それでも、声は聞こえた。


「…………。」


「誰でもいい!!誰か助けてくれ!!誰か!!」


 鈴の音色のような微かな返事。僅かな希望に届けと祈りながら声を張り上げる。だが炎の勢いは凄まじく、灰色に輝く煙が容赦なく彼の喉を襲う。


「誰ッ……ごほっ……れか……ぁッ!!」


 次第に声も出なくなる。折れた膝から崩れ落ち、段々と苦しくなる呼吸が激しい眠気を催してくる。


 死にたくない。その思いで、閉じようとする瞼をこじ開けていた時だった。ゆらりと揺れた陽炎が舞い上がり、目の前が激しい熱気に包まれる。


 それはやがて、人間の少女のような姿になると、橙色の姿の中に浮かべた、より密度の濃い色をした二つの眼で睨みつける。


「なんだお前……一体なんなんだ!?」

 

 轟々と空気を焼きながら、それは確かに炎を揺らした。


【コロス……コロス……コロスコロスコロスコロコロコロコロコロォォッ!!】


 その姿は美しくも、怒りでは収まらない衝動に支配されている。その熱が復讐に燃えている事も、悲しみで我を忘れてしまっている事もひしひしと伝わってくる。


 なにより涙も流せないほどと言うのが、酷くむごたらしい。


「だからって……こんなところで死んでたまるか!!」


 これが何なのか、なぜこうなってしまったのかはわからない。だがその中に、確かな憎悪があるのは伝わってくる。


 しかしそんなものは、命を奪っていい理由にはならない。


 自分の他にも脅かされている命はある。今できることは、この憎悪の炎の前に立ち塞がること。


 自分のするべきことがはっきりと見えたなら、例え絶望の中であったって立ち上がる。


【ミンナ……ミンナコロシテヤルッッ!!ミンナシネェェェェェェッッ!!】


 その胸を抉るような叫びと共に、炎の勢いが膨れ上がった。


「させるかあああああアアアッッ!!」


 叫び、見つめ、彼は炎の体に向かって飛びついた。無謀で短慮なその行動は自殺行為に等しい。しかし目の前で憎悪を叫び続ける炎の存在に、いてもたってもいられなくなった。


 その思いが通じたのか、彼の肌を焼きながらも、炎の体は地に伏せられる。灼熱に身が焦げそうだが、彼はその痛みを噛み締め堪える。


「うおおおおおおおおっっ!!」


 思いのほか抵抗され、両腕は押さえつけるので精いっぱいだ。それならばと、少年は気合と共に叫ぶと、炎の体に向かって大口を開け、その首筋目がけて噛みついた。


【ギャアアアアアアアアアアアッッ!!】


 悲鳴を上げる炎の意志。それと共に業火はぐらりと大きく揺れ、怯んだかのように一回り小さくなる。


【ハナセ!!ハナセハナセェッ!!】


「ぐうぅぅぅぅっっ!!」


 轟々と息吹を上げる炎が少年の身体に襲い掛かる。だが少年も負けじと、その歯を深く喰い込ませていく。色鮮やかな服は黒く焦げ、至る所に縮んでしまった黒焦げの穴を空ける。しかし少年の一矢は、確実に炎の勢いを弱めていった。


 熱い。まるで全身に炎を流し込まれているようだ。それでも少年は顎を緩めない。これ以上誰かを殺させるわけにはいかない。いや、これ以上は殺させたくない。


【グアア……カラダガ……カラダガスワレル……ッ!!】


 その時、不思議な事が起きていた。炎の体が、続々と少年の中に飲み込まれていく。猛々しく荒ぶっていた炎の龍も勢いを失い、炎の意志はもがき苦しんでいる。


【ワタシハコロスッ!!ミンナヲ……ミンナ……ッ!!】


 炎は弱々しくなり、残すは炎の意志のみ。必死に少年を引き剥がそうとする二本の腕が、段々とその力を失っていく。


【ミンナヲ……タスケテ……。】


 その声とともに、少年の瞼が覚醒する。


 最後の言葉は、上ずって涙を浮かべていた。あれはなんだったのだろうか。触れられるはずもない炎を取り押さえ、乾いた土の上に転がったボロボロの少年は、耳元に残る切ない悲しみの響きを、もう夢だったとは思えない。


「はぁ……はぁ……。」


 体力の消耗は激しい。奇跡的に一命を取り留めたのか、それとも炎に巻かれすぎて気持ちが浮いてしまっているのか。どちらにせよ、もう立ち上がれる気力は残っていない。


 パチパチと、水気の弾ける音がする。


 自分の手元から。燃え上がるような熱さと共に。


「こ……これは……。」


 ぼやけた視界の中、違和感のある自分の掌を見つめると、そこには橙色の炎を吹き上げながら、焦げ一つない柔らかな肌がそこにあった。掌だけではない。腕も、そして恐らく身体も、燃え上がるような熱さと共に炎を吹き上げていた。


「俺……なんで……燃えて……。」


 夢ならば早く醒めて欲しい。少年はそう思いながら、電池の切れたおもちゃのように深い眠りの底に落ちた。

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