A面二曲目 第一回講義 一
「早速ですが、これから第一回目の講義を始めましょう」
眼鏡の向こう側で、篠島教授の瞳が細められた。
「これからですか」
弥生はいきなりの開講宣言に戸惑う。
「はい」
「あの、何か事前に準備とか」
「必要ありません」
「……分かりました。それではお願いします」
「承知しました」
篠島教授は立ち上がると、教授室西側に据え付けられたブラックウォルナット製の本棚の前に歩み寄って、いきなり一冊の本を取り出した。本を探す素振りは見られなかったので、その本は常にそこに置かれているのだろう。
さらに、教授は本を無造作に開いて、それを弥生のほうに差し出した。
「まずはこの写真をご覧になって下さい」
篠島教授の指示に従い、弥生は本に視線を落とす。開かれた本には白黒の写真が載っており、彼女にはそこに写っているものの正体が分からなかった。
白い滑らかな材質のもので出来た、茄子のような形に盛り上がった曲線で構成された物体が写っている。
物体の底は平たくなっており、手前側に短い管が伸び、左右両側に持ち手のような突起物がついている。
茄子のように盛り上がった部分は内側に窪んでいる。
その奥側の壁には上のほうに縦に三つ、下の方に三角形に六つ、穴が空けられている。
左側面には「R.Mutt」という文字と「1917」という数字が、無造作に書き込まれている。
「これは一体何でしょうか?」
弥生は戸惑いをそのまま口に出す。
「何だと思いますか。まずはそこから考えて下さい」
篠島教授は穏やかな声で促す。弥生は写真を見つめ、まずは具体的なものから考えてみることにした。
側面に書かれた数字は、恐らく西暦で「一九一七年」という意味だろう。
文字は署名だろうが、「R.Mutt」という名に聞き覚えはない。正しい読み方も分からない。
材質は陶器に違いない。であれば、水に関わるものである可能性が高い。
管がついている点もそれを示している。
側面にある持ち手のような突起物には穴が空いている。
すると、その部分をどこかに固定して使うのだろうか。
しかし、奥側の壁にある縦に並んだ三つの穴と、三角形に並んだ六つの穴の意図が分からない。
弥生は再度写真を睨んで、それから言った。
「署名と年号があるということから、誰かが作った作品であるとは推測できますが、何を表したものなのかが見当もつきません。抽象的な立体作品でしょうか」
「美術作品であることは認めますか」
「……あの、正直に言っても宜しいですか」
「どうぞ」
弥生は小さく息を吸ってから、
「署名から作品と考えただけです。これが美術作品かと問われたら、私には正直そうは思えませんでした。なんだか人工的な冷たい感じがするので」
と言い切った。
「ふむ、人工的な冷たい感じ、ですか」
篠島教授は興味深そうな顔をした。そして、ソファに座った弥生の傍らに膝まづいて視線の高さを合せると、目を細めてこう言った。
「なかなかよい感性ではありますが、残念ながら不十分ですね。この写真に写っているものは、二十世紀に発表されたものの中で、最も広範囲に影響を与えた作品と言ってよいでしょう」
弥生は篠島教授の大層な言い方に驚いた。
「これが、ですか? 二十世紀最高の美術作品、ですか?」
「最高の美術品というのは語弊がありますね。二十世紀で最も影響力を持った作品というのが正しいです」
弥生は篠島教授の微妙な言い換えの意図を考える。
「つまり、価値の問題ではなく影響力の問題であり、美術作品ではなく作品であるということですね」
「私はそう考えています」
篠島教授は弥生に身体を寄せて、写真を指差しながら言った。
「これはマルセル・デュシャンのレディ・メイド作品の一つで、『泉』と呼ばれています」
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